28 ツクモの仮説(後)
わたしは一瞬、返す言葉に詰まった。
「……要因か。あの時、気にしてたのはお守り袋だけじゃなかったよね?」
あの岩の上でのことを、今思い返してみても、確かにツクモの行動はおかしかった。
「もう一つ条件があるって言って、ツクモは、わたしに手を出させて、指にトンボを止まらせた」
「もう一つの条件は、ふみちゃんの感情状態だ。何かのきっかけで感情が強く動いているときに、昆虫を引き寄せる要因が強くなると予想していた。初めて会った日、最後、駐車場まで送ってくれただろ。あのとき、匂いのことを話題にしたの覚えてる?」
忘れるわけがない。
「ツクモの、ハラスメントイエローカード事件でしょ」
わざとむっとした風に腕を組んで言うと、ツクモは居心地悪そうに肩をすくめた。
「悪かったって。オレはホントそんなつもりはなかったんだ。ただ、純粋に気になって」
「はいはい。どうせ、<見た目ナナフシ>ですからね」
「でも、あの時ね、オレが近づいたとき、ひっかかる匂いが強くなったんだ。なんでなんだろうって思ってたけど、ふみちゃんに注意されて、後から他のことと合わせて考えて気が付いた。ふみちゃんはびっくりしたし、嫌だったから、緊張状態だったんだよね」
「うん、まあ」
びっくりして緊張状態だったのは確かだ。
「その感情的な負荷が、あのかすかな匂いの強弱と関係しているとしたら? それが、トンボを持ち出したオレの意図だった。ふみちゃんはそんなに昆虫が得意じゃないから、素手にトンボが止まったら、何らかの強い感情が引き起こされるだろうと思った」
「わかってやってたんかい!」
「無理強いをしたつもりはないよ。できるだけゆっくり近づけて、ふみちゃんが逃げたらやめるつもりだった。オレの意図としてはそれで十分、負荷がかかると思っていたし。オニヤンマ自体に危険はないって説明したし」
「説明すりゃいいってもんでもないでしょ」
「でも、結果は、セミが落ちてきた。オレが思ってたよりよほど大きな事象だ。せいぜい、周りにふわふわチョウが舞い始めて、数がちょっと増えたかな? 気のせいかな? くらいが関の山だろうと思っていたんだ。セミでふみちゃんはさらにパニックになった。そしたら、通りすがりのコクワガタまで、ふみちゃんに寄ってきた」
コクワガタの接近にはわたしは全く気が付いていなかったけれど、ツクモはちゃっかり一部始終を目撃していたらしい。
「見てたんなら早くとってよ!」
「それじゃ実験にならないから」
「鬼の所業か!」
「えー。最後はちゃんととったし、ふみちゃんにけががないように守っただろ。あの場面では、コクワガタがふみちゃんに危害を加えるっていう、およそありえない可能性より、コクワガタがいるって伝えてふみちゃんがさらにパニックになって、転んだり岩から落ちたりしてけがをする危険のほうが高かった」
ツクモは口をとがらせて文句を言った。なんだろう。すごく、丸めこまれてる気がする。
「それはそうかもしれないけど」
「でね、体質的なものであれば、他にもエピソードがあるんじゃないかと思ったんだ。それで、昆虫が苦手になったきっかけを聞いた。そうしたら出るわ出るわだ。山の中で一人ぼっちになって不安だっただろうときに、セミが二匹寄ってきた。セミが死んでしまって大泣きしていたら、何匹も寄ってきた。アイスを落として怒っているときに、カナブンが三匹寄ってきた。花火にでも、電灯にでもなく、ふみちゃんに。なんというか、どのエピソードも、昆虫の習性からすれば、ちょっと奇妙なんだ。そんなに何匹も集まってくるかな。それも一度ではなく、何度も繰り返されている」
そんな風に考えたことはなかった。セミはちょっと悲しい思い出、カナブンは、わたしは忘れてるけど大人にとっては鉄板の笑える思い出で、終わりだと思っていた。
「もし、オレが気になったあの不思議な匂いがその要因の正体だとすれば、それは、匂いとして感知されているわけだから、現実的な物質をともなう何かのはずだ。採取して分析器に掛ければ、何かわかるかもしれない、と思ってて」
「そんなことできるの」
「もちろん、こんな事例はオレだって初めてだし聞いたこともない。でも、試してみる価値はあると思わない?」
「どういうこと?」
「研究所には、気体にふくまれる成分を分析できる、ガスクロマトグラフィーという機器があるんだ。昆虫のフェロモンも、揮発性の物質だから検出できる。例の匂いが昆虫を引き寄せているなら、それは、昆虫にとってはフェロモンのような作用をするのかもしれない。だとすれば、ガスクロで分析すれば結果が出る可能性はある。ちょうど、かなり微量の物質でも分析できて時間も早い、最新型の機械を導入したところなんだよ」
「フェロモンって」
わたしは顔をしかめた。また面妖な言葉が飛び出してきた。宮森郁子とフェロモン。いまだ、関連付けて語られたことは一切ない言葉である。こちとら、二十歳のうら若い女子大生だ。まだそんなものとは無縁でいいではないか、と思う。もうちょっと大人になったら、多少のご縁があってもいいかもしれないけど。
「変な意味じゃないよ。生物の行動に作用する化学物質、という意味で受け取ってほしい」
総務のおねーさんに告げ口されたらたまんない、とツクモはぼやいた。その様子があまりに惨めなので、ついにやにやしながら聞いてしまった。
「怖いの?」
「怖い。研究所のモラル。ありとあらゆることに目を光らせてて、だめな行いにはすぐ注意が飛んでくる」
「そりゃあ、悪いことはできませんなあ」
「マジ無理」
「調べるのって、どうするの? 注射? 痛いのは嫌だな」
「気体を採取するだけだから、真空にした試験管を、そうだな……耳の後ろあたりでバルブを開けて、しゅっとその辺の空気を吸い込むだけ。あとは機械がやってくれる」
「調べたら、どうなるの?」
「どうにもならないよ。解決策がすぐに見つかるわけでもないし。でも、もしこの分析で何かの結果が出て、そういう現象が起こっていると分かれば、これから先、どうしたらいいか考えたり、困ったことが起こった時に原因を考えたりする手がかりの一つにはなる。なぜ、とか、どのようにして、とか、コントロールできるのか、とか、その先に山ほど興味深い問題が増えていくけどね。もし、この分析で何もわからなくても、少なくとも、昆虫に作用しているのはフェロモン様の化学物質ではない、ということはわかる。オレも、気になっていたことが一つ、先に進む。だから、試しに分析してみないか、と聞いてみようと思ってたんだ」
「それで、こんなに唐突に、研究所見学だったんだね」
わたしは小さくため息をついた。何かあるだろうとは思っていた。
ツクモは、前方に視線を向けたままだった。直進の続く高速道路で、ハンドルに乗せただけの肩や腕はリラックスしたままだったけれど、耳の下に形よく浮き出しているあごの骨のあたりに、わずかに力が入っているようだった。ツクモも、緊張しているんだ。
「思いついたら、どうしても気になったもんだから。でもこれは、ふみちゃん自身の問題だから、分析を受けるか受けないかはふみちゃんが決めることだよ。知りたくないなら、無理して受けなくていいし、今後もバイトの内容は変わらない。知りたいなら、オレの研究費で分析するから、ふみちゃんが提供するものは、試験管に入れる空気だけ」
わたしは相づちだけ打って、黙り込んだ。
ツクモ自身も言っていたけど、あまりに荒唐無稽な話だ。にわかには信じがたい。でも、やることが、いたずらにしては手が込みすぎている。
少なくとも、ツクモ自身は、検証する価値のある問題だと真剣に考えていることは確かなようだった。
窓の外を、防音壁の柱と植込みのこんもりした塊が単調なリズムで流れていく。わたしたちが下りるはずのS市の出口が近づいたことを示す看板が、背後に飛び去って行くのが目に入った。
「もし、結果がはっきり出たとして、ツクモ、それを研究したり発表したりするの?」
「個人的にはすごく興味はあるし、記録はしたいけど、公表するようなことは……ふみちゃんに影響が大きすぎるから、やらない。ふみちゃん本人にも、神社にも迷惑がかかるかもしれないし。もっとたくさん、そういう人が見つかったら、個人が特定できない形でなら、発表を検討してもいいかもしれないけど、それも、当人次第。許可なく公表したりはしないよ」
「そういうものなんだ」
「ヒトが関わるものは、ちゃんと手続きを踏まないとどんな不利益があるかわからないからね。好奇心だけで進めるわけにはいかないよ。当然、倫理規定もすごく厳しいし。そもそも、規定がどうこうという以前に、オレ自身の考えとしても、今回お願いしている生態と古文書の調査でも、このガスクロの話でも、ふみちゃんたちご家族と、羽音木という地域に迷惑をかけることは絶対にしたくないんだ。あんな風に山の自然が暮らしと結びついてそこにずっとある、という姿は、それだけですごく貴重なんだよ。ふみちゃんにとっては当たり前の光景かもしれないけど、それが失われていっている地域はたくさんある。一度バランスを失ったら、元に戻すのはすごく大変なんだ」
おちゃらけた昆虫オタクのようだけど、こういうところは真面目なやつである。
わたしはしばらく考えた。
考えたけれど、結局のところ、結論は決まっていた。
こいつが見たいものを見るためには、わたしは最後まで付き合うしかない。
肩をすくめてから、すとんと下ろした。
「守秘義務とかそういうところ、ちゃんとしてくれて、結果をわたしにわかるように説明してくれるなら、いいよ。やっても」
ツクモはうなずいた。ほっとした様子だった。
「じゃあ、研究所に着いたら準備する。機械が使えることは確認しているんだ。ふだんその機器を使って仕事をしている研究員の飯田さんが協力してくれるはずだ」
二人とも、なんとなく口をつぐんで、車内にはエンジン音だけが響いた。
車は高速をおりて市中の道路を走っていく。幹線道路沿いでよく見かけるチェーン店の看板が次々と後ろに過ぎ去っていった。やがて、高速道路の出口付近にはたくさんあった商店やマンションがしだいに減り、車窓の外は、田畑の中に工場や住宅がちらほらと点在する郊外の景色に移り変わっていった。
ふいに、ツクモが言った。
「……馬鹿にしたり、怒ったりしないで聞いてくれてありがとう」
「素っ頓狂なこと言ってるな、とは思ってるけど」
だよね、とツクモは肩をすくめた。一度何かが気になったら止まらないし、周りなんか完全に見えなくなるタイプかと思っていたけれど、そういう心配は、一応こいつでもしていたんだ。まあ、心配をしても、結局、提案すること自体を諦めるわけではないのがツクモらしい。
「もう、すぐ着くよ」
彼は左折のレーンに車線変更しながら言った。














