23 ちょっとした仕返し
ツクモはふいに話題を変えた。
「ふみちゃん、明日の午前中、古文書のデータをとる予定を入れてもらってただろ。午後も空いてる?」
「特に予定はないよ。なんで?」
「研究所、一度見てみる? S市にあるんだ」
ここから車で一時間くらいのところ、私が普段通っている地方都市の大学からJRで数駅先だ。
「帰りもちゃんと送るからさ」
話を聞いているうちに、ちょっと興味が湧いてきていたわたしはうなずいた。
「うん、見てみたい」
「どうせ明日の午前中も調査があるなら、泊っていけばいいのに。うちは全然構いませんよ。ねえ、秀治さん」
母がのんきに言う。わたしはぎょっとして母を見た。これは本気だ。ツクモ、あっさり母の懐にも入り込んでいる。恐るべし。
「ああ、もちろんかまわんよ――」
「いえ、お言葉はありがたいんですが、遠慮させていただきます。今日のデータや、一部の採集物は研究所で保管しないといけませんし、明日は明日で道具が全く違うので、取ってこないといけないんです」
ツクモが笑顔で割り込んで、わたしは内心ほっとした。さすがに、同じ家で一晩過ごすのはわたしとしては落ち着かない。
「研究所の近くにお住まいなんですか? 距離があるから大変ですね」
母が質問の反転攻勢に出た。
「ええ。まあ、車は慣れてますから」
「おひとり暮らしなんですか?」
「研究所に勤め始めてから、そうです。飼育しているものがあるときは昼夜関係なく出入りして観察や世話をしなきゃいけないこともありますし、東京から通うのは現実的ではないので」
「じゃあ、お食事なんか大変でしょう。お仕事しながらでは」
「朝さえ何とかすれば、昼と夜はほとんど社員食堂で食べますから。研究所は郊外なもので、周りに飲食店もない立地なので、みんなそうしているんです。日替わりで栄養も考えてメニューを組んでくれるので、何も考えずに楽をさせてもらってます」
「朝だけなら、なかなか自炊する機会もなさそうですね。でも、いい食堂がおありなら、お母さまはかえって安心かな。そうだ、この料理、向こうの台所にもまだ残ってるんですよ。よかったら少し、明日の朝ごはんに持っていきませんか? おこわなら、温め返すだけで食べられますよ」
有無を言わせぬ、とはこのことである。ツクモはもしかしたら多少困ったのかもしれないが、そんなことはおくびにも出さず、笑顔でうなずいた。
「ありがとうございます。こういう手作りのものをいただく機会はあまり多くないので、本当においしいし、うれしいです」
「ご家族は、東京のほうに住んでられるんですか?」
ツクボウの本社が東京にあるのだ。
「はい」
「お兄様は後を継がれるなら、ご両親とご一緒に?」
母、ぐいぐい行くなあ。さすが凄腕である。もっとも、後で父に聞いたら、本気を出したときの母さんはこんなもんじゃない、知らないうちに情報を抜き出されて、気づいたときには丸裸にされている、などと恐ろし気に言っていたが。
「今はそうです。まあ、結婚したら一度出ると思いますが」
「あら、おめでたいお話があるんですか」
「どうなんでしょう。私はそういうことには疎くて」
昆虫の話をしていた時はあれほどよどみなくしゃべっていたツクモが防戦一方になった。だが、わたしにもこれは逃せないチャンスなのである。母の尋問術を直接見学する機会は多くない。わたしは、助けを求めるようにちらっとこちらを見たツクモを完全に無視して、自分とツクモの分のお茶を淹れることにした。茶道具はダイニングの話が十分聞こえるキッチンの手前側にそろえてあるのだ。
母は自分用の茶こし付きマグカップを使っていたので、新しく急須に茶葉を淹れながら、話に耳を傾けた。
「男の子お二人ですか。お母さんはいろいろご心配なさるでしょう。うちは娘一人ですけど、男の子にはまた違った心配がありそうですものね」
「はあ」
「お兄様はおいくつ違いですか」
「四つ上です」
「あら、じゃあ――。築井さん、干支は?」
目を白黒させているツクモに、わたしは思わずふきだしてしまった。
「お母さん、ツクモの歳を聞きたいなら、普通に聞けばいいじゃん」
「たいていのお年寄りはこの質問で行けるんだけどなあ」
「それは、お年寄りが毎年数字が変わる自分の年齢を正確に思い出せないことがあっても、生涯不変の干支は忘れないからでしょ」
「そうそう。絶対、干支の方が正確な情報とれるのよ。会話の流れで自分の年齢を聞かれてとっさに思い出せるかどうか、っていう情報もそれはそれで大事だから、見逃せないけど」
母もからからと笑った。さては、母、これはわざと冗談で外して、いったん緊張を緩めたな。母はにっこり微笑んで、ツクモのほうを見た。
「じゃあ、築井さんご自身はおいくつなんですか」
緩んだと見たところで、きちっと質問を投げかける。この軌道修正力も、尋問術のうちか。
「二十四です。大学を出て、二年とすこし、今の仕事をしています」
ツクモの笑顔はさすがに少々たじろいでいた。
「お兄さんは二十八か。もう、おめでたい話があってもいいころですね。男の人はもう少し遅くても大きな問題はないでしょうけど、ご両親はそろそろ急かすんじゃないですか」
「そうですね、母はそんな話をしたがります。兄はうるさそうにしていますけど」
「四つも違うなら、お兄さん問題が片付くまでは、文史朗さんにはそんな話は下りてこないでしょう。お兄さんにはもう少し頑張ってほしいかな? まだ少し早いですもんねえ」
母は目を細めた笑顔でお茶をすすった。母の押しとハートの強さ、本領発揮である。さすがにそろそろ助けてあげようか、と思った時、ツクモが軽く肩をすくめて応じた。
「私は変わり者ですから、母もあきらめていると思います。兄にその分、世話焼きが集中するので、ちょっと申し訳ない気もしますが。母に子どもの頃の私について聞いたら、虫が苦手な世間のお嬢さんが裸足で逃げ出すような、とんでもないいたずらや昆虫がらみのエピソードの数々を暴露されてしまうかもしれませんね。ある程度はその頃からあきらめているんじゃないかな。母が鳴り物入りでどこかのお嬢さんとお見合いさせようとして、私がその場に昆虫を持ち込みでもしたら、母の交友関係に深刻なダメージが加わる大惨事ですから」
父も母も、その場の大騒動を想像したのか、こらえきれず笑いだしてしまった。ツクモも一緒になって笑う。
「虫が苦手と言えば――」
一足早く笑いを収めたツクモはちらりとわたしのほうを見た。ツクモの背後、キッチンでお茶を淹れているわたしには見えて、対面に座る父と母には見えない角度で、意味ありげな目くばせを送る。ツクモを見捨てて成り行きを観察していたわたしへのちょっとした仕返しだと気が付いたときには、一瞬遅かった。
「郁子さん、ほかの昆虫よりもさらに、カナブンが苦手ですよね。もしかして、何か因縁があったんですか? それこそ子どものころなんかに」
やめろ。何も言うな。わたしは父をにらみつけたが、一杯機嫌の父は気づいてもいなかった。ここで大声をあげて、お父さんやめて、と言おうものなら、行儀がなっていないと後でこってり母に絞られるのはわたしだ。ぎりぎりと歯がみをしながらも、事態の推移を見守るしかない。最悪の展開だ。
「カナブンねえ。蒔ちゃん、あれいつだっけ。郁子がアイスをおとしたとき、あっただろう」
「ああ、あったわねえ。まだ二歳くらいじゃなかった? 花火の時よね」
両親は嬉々として話し始める。わたし自身は一切記憶に残っていない話なのだが、こうやって親族の笑い話にされているせいで、この後の流れは全部覚えている。
「そうだったそうだった。花火をしてたんですよ。手に持つやつ。郁子はまだ小さかったので、座って棒つきのアイスを食べながら見てたんですが、ねえ」
父はこらえきれずにくすくす笑う。
「食べるのが下手で、アイスが棒から外れてひざに落ちたのよね。それで、冷たいのにびっくりして立ち上がったら、アイスが地面に落ちちゃって」
「あれで郁子、怒ったんだよなあ。アイスが食べられなくなったから。ものすごく怒って泣きわめいているところに、泣きっ面にハチならぬ、カナブンで。ぶんぶん周りを飛び回られて、パニックになって、大騒ぎになったんですよ」
「あのときはすごかったわよね。いつもはさすがに一度に飛んでくるのはせいぜい一匹なのに、三匹くらい飛んできて、最後は、アイスのしみがついちゃった郁子の浴衣に止まったものだから」
全体としてはほのぼのした光景のせいで、大人たちは『珍しいから写真を撮ろう』『真っ赤になって怒っちゃって、ふみこちゃんかわいい!』などと盛り上がり、わたしが怒り狂っているのに、誰もカナブンを取り除いてくれなかったのだという。結果、わたしは、父母の『郁子の幼少期の思い出ナンバーワン』の迷言を残すことになった。
「郁子ったら、怒って怒って。『ふみが、せっかくおこってないてるのに、だれもきいてくれない、そんした!』って言うんですよ」
わたしにとってはもう数十回目のエピソードトークで、両親はこれまでの例にもれず、揃って爆笑した。よくもまあ、飽きないものだと思う。
真っ赤になって押し黙っているわたしのほうを見て、ツクモはにやにや笑って言った。
「そんなことがあったんだ。ふみちゃん、かわいい」
一瞬でも助け船を出してやろうと思ったことを深く後悔した。わたしの助力には値しない輩である。腹が立つことこの上ない。














