02 炎天下の災難
突然真っ白になった視界に、わたしは瞬間、凍り付いた。
同時に、なにやら聞こえる雄叫び。
「よっしゃ――――!」
「え、ちょっと、えええ!?」
何が起こったのかわからない。
わたしはパニックになって腕を振り回した。手からペットボトルが飛んだが、気にしている余裕はなかった。腕がなにか細い棒にあたる。
「やめてやめて、動かないで! つぶれる!」
慌てたような声が聞こえる。待ってくれ。慌ててるのはこっちだ。
「なにこれ、なに!?」
「動かないで! 頼むから!」
「え、これ、どういうこと!? 今何が起こってるんですか!?」
とりあえず、腕をおろして、誰だかわからない、顔も見えない背後の存在に尋ねた。
「ありがとう。ちょっとそのまま。まだいる、まだいる。……よし、とったー!」
目の前が、ふさがったのと同じくらい急に開けた。わたしはとっさにブランコから前方に飛び降りて、背後の存在から距離を取りながら振り返った。
見覚えのない、若い男だった。ブランコの後ろの地面にしゃがみこんで、白い棒のついた網のようなものと、やはりやわらかい網でできた、洗濯ネットのような何かをいじっている。棒のついたほうはすぐに見当がついた。たぶん、捕虫網だ。もっとも、わたしの幼なじみたちがこの辺で十年ほど前に振り回していたようなおもちゃではない。もっと網部分が大きく、柄も長い、本格的な品だった。
あろうことか、この男はわたしの頭の上から捕虫網をかぶせて、何かをつかまえようとしていたのだ。普通、よほど親しい相手でもやらないだろう。ましてや初対面である。
彼は捕虫網から慎重に何かをつまみだすと、洗濯ネットのようなもう一つの網についていたファスナーを開け、つまみだしたものを入れた。ファスナーを閉めて、網についていた持ち手のようなところを持ってそっと持ち上げる。上下にリング状の骨組みが仕込んであるようで、円柱形になったその網袋のなかで、黒と青の何かがはためくようにうごいた。
「あの、それは」
「アオスジアゲハ! こんな大型の個体は初めてとったなあ」
ゼンシチョウ、60ミリあるかもしれない、と男は上機嫌だ。呪文のような意味の分からない単語が含まれていて、彼の独り言は聞き取りづらい。
「……ちょっと待てい。見ず知らずの人間に網を振り下ろしておいて一言もなしか!」
「あれ」
彼はようやく、顔をあげてわたしのほうを見た。
年のころはわたしより少し上、二十代半ばくらいだろうか。この炎天下にもかかわらず、フルレングスのデニムに、長袖のコットンシャツをきっちり着込んでいる。首にかけたタオルで、顔をさっと拭いた。
日本人形のように切れ長な瞳、日に焼けた頬、肉感が薄く力強い顎のライン。整った顔立ちだが、冷たい感じはしなかった。表情がくるくるとよく動くせいだろうか。悪気はなさそうだけど、とにかく全体的に立ち居振る舞いに落ち着きがない。黙って立っていれば眉目秀麗な青年だろうに、その容姿を仕草が完全に裏切って、宝の持ち腐れというか、ちょっと惜しい、という雰囲気の人だった。
彼はそわそわとした様子で網袋の中のチョウとわたしを交互に見て言った。
「このチョウ、もしかしてお嬢さんのペットだった? てっきり野生のものかと思って、つい。そうならお返ししなくちゃいけないのかな?」
「いや違いますけど」
そんな、もらったチョコレートをやっぱり返せと言われた子どもみたいな顔をしないでほしい。そもそもチョウがペットって、どういう感覚だ。
「え、じゃあ、見たかったの? やだなあ、早く言ってよ。ほら」
彼は嬉しそうに、チョウを入れた網袋を掲げた。わたしに数歩近寄って、目の前にそれをつきだしてくる。
「この青い紋様! 美しいでしょ」
「いやいやいや、普通、謝りませんか。っていうか、人間に網振り下ろさないですよね」
「だって、ちょうどお嬢さんの帽子にとまったんだよ。アオスジアゲハは吸水の時以外、めったにとまらないのに! とまっても、ほら、このクスノキの樹冠とか」
彼は上を指さした。樹齢百年をこえるという大木の梢は、校舎の三階に届くほど高かった。
「網の届くところにとまるなんて、めったにないんだ。その瞬間に網を持っていたら、運命だよ! もうこれは捕るしかないでしょう」
「……」
ちょっと惜しい、どころじゃない。だいぶ残念な人だ。常識が通じない。
わたしはため息をついた。関わり合いにならないほうがよさそうだ。
まだ、うっとりと網袋に入ったチョウを眺めている彼に背を向けると、あたりを見回した。足元に落ちていた帽子を拾い上げ、さっき、思わず放り投げてしまったレモネードのボトルを探す。蓋が開いたままだったそれは、地面に転がって、ほとんど中身がなくなっていた。キャップはもっと先まで転がって、地面から立ち上る陽炎の中でゆらゆらして見える。
「……まだ半分も飲んでなかったのに」
忸怩たる思いで呟きながら、歩いていって拾った。中身がなくなっているからといって、ごみを放置していくわけにはいかない。
そのまま、自転車置き場の方向に行こうと、元校舎の脇へ向かったときだった。
どさり、と背後で重い音がした。
振り返ったわたしの目に、彼が横向きに地面にたおれこんでいる姿が映った。
驚きすぎて悲鳴もでず、わたしは石のように固まって、彼を見つめた。かんかんと照りつける日差しのまっただ中で、こちらに背中を向けたまま、彼はぴくりとも動かなかった。
やっとのことで、わたしは声を振り絞って問いかけた。
「大丈夫ですかっ!?」
変な風に声が裏返ってしまったが、そんなことを気にしている余裕はなかった。これはまずい。
わたしはとっさに駆け戻った。
顔が赤く、呼吸が速かった。声かけにも反応が薄い。意識がもうろうとしているか、ほとんどない。
熱中症だろうか。とりあえず、クスノキの木陰に移動させようと試みた。長身でしっかりした体格の青年は私の手には余るほど重く、ずるずると引きずるしかない。
「うりゃーっ!」
最後は気合いで乗り切った。辛うじて木陰と言えるゾーンまでたどり着いて、肩で息をつく。
やばい。わたしまでめまいがしてきた。
「こういうときってどうすればいいの?」
水分をとらせる? でも、意識のない人に水なんて飲ませられない。気管のほうに入っちゃって、窒息しても困るし。
体温を下げる? どうやって?
服を脱がせるとか。
考えたその一瞬で、熱気とは関係なく顔が真っ赤になるのがわかる。
「……ぜーったい、無理っっ」
氷? なんて、どこにもない。
一番近い、留守ではない家まで行って、事情を説明して氷をもらうなんて、帰ってくるまでに何分かかることか。日中いるのはたいていお年寄りで、耳が遠かったり、突発的な事態を理解するのがゆっくりだったりして、こういう時にはあまり頼りにならない。
わたしは必死で辺りを見回した。
何か、何か使えるもの。
昇降口だったところに、子どもたちが水を飲むのに使っていた水道があった。
端っこの、掃除の時バケツに水くみをするのに使っていた送水量の大きい蛇口に、ドラムに巻かれた緑色のゴムホースと散水用のシャワーヘッドがつながったままになっていた。
シルバークラブの園芸部の人たちが、この公園の花壇の手入れに使っているものだ。
「氷がだめなら、水だ」
わたしは半分朦朧としながら、水道に近寄った。ゴムホースがつながった蛇口を全開にひねる。ゴボゴボと音がしてシャワーヘッドから熱水が吹き出した。ホースの中で、日光にあぶられていた分だ。数十秒で、水は十分冷たくなった。私は水を出しっぱなしにしたまま、シャワーヘッドをつかんで、ホースを引きずりながらクスノキの下に向かった。
後少しのところで、ホースが限界になってしまった。水は届かない。
早くしなきゃ。もう、倒れてからどれだけ経った?
わたしはパニックになった。目の前でどうにかなられたらトラウマものだ。
「水、水を掛けなきゃ」
気ばかりが焦って、頭も手もうまく動かない。
ホースの先端からシャワーヘッドをむしりとった。水がじゃばじゃばと溢れ出るゴム管をつかんで、ぐったりと地面に横たわったままの青年に向け、ぎゅっと押しつぶす。
ばしゃあああっ!
細くなった出口のせいで水圧が増し、勢いよく走った水が青年を直撃した。
わたしは必死で水をかけ続けた。無我夢中だったと思う。
「とにかく助かって――っ!」