19 昆虫嫌いの原因(後)
「多分、小学校一年生の時なんだけど――」
近所に、昆虫好きのれおくんという男の子がいた。
少し年上で、そのころはたしか、五年生か六年生だったはずだ。
近所に子どもはそう多くない。それで、れおくんとわたしも、外に遊びに出たときに、相手がいればなんとなく一緒に遊ぶようななじみの仲間だった。間の学年の子たちも連れだって、鬼ごっこをしたり、かくれんぼをしたり。学校の帰り、彼の家に上がりこんで昆虫図鑑を見せてもらったり、れおくんが大きい獲物を捕った時は誇らしげに見せてくれたりしたこともあった。
一年生の夏休み直前の時期だったと思う。梅雨が明けて、ようやく鳴きだしたセミを追って、れおくんは神社の裏の森によく来るようになった。わたしは、うっかりご神域に入ってはいけないし、そもそもそれ以前に、崖から滑り落ちたり、ハチやヘビにやられると危険なので、子どもだけで森に入らないように言われていた。なので、れおくんの行動には小さいながらに批判的な目を向けていたのだが、ある日、れおくんが言ったのだ。
『奥に、秘密基地があるんだ。そこには、セミが大量にいる』
父の採集作業に途中まで同行したことがあったわたしは、れおくんがご神域に入っているのではないかと疑った。それで、何も知らないふりをして、『わたしもいきたい! つれてって!』とお願いしたのだ。今にして思えば、高学年の男の子が探検ごっこをするのに、一年生の女の子を連れて行けば確実に足手まといだ。当然ながられおくんは嫌がったが、わたしは無理矢理れおくんを押し切ってついていった。れおくんの行き先はヒシの池だったが、ご神域までは深入りしていなかったので、わたしは幼心に安心して楽しく遊び、日暮れ近くなったので帰ろう、ということになった。
だが、ちょうど買い換えたばかりの、足に慣れていないスニーカーがあだとなった。わたしは靴擦れをおこしてしまい、帰り道でそれ以上歩けなくなってしまった。ちょうど、さっきのテーブル状の大岩のあたりである。
ぐずぐずと泣きじゃくるわたしにイライラして、れおくんは怒った。秘密基地に行くのに、泣き虫のちびは最初から連れて行きたくなかったのに、と文句を言い、わたしを歩かせようとしたが、わたしも足の痛みと慣れない森での遊びに疲労困憊して動けなくなってしまった。
まあ、自業自得と言えばそれまでの話である。
れおくんはどうしようもなくなり、わたしをおいてそのまま帰ってしまった。夕方になってもわたしが戻らないので、心配した大人たちが探し回り、とっぷり日が暮れたころ、探しに来た父に発見されて、こっぴどく叱られた。
「動けなくて一人ぼっちになって、途方に暮れていた時に、セミが二匹くらい、ずっと近くにいてくれたの。ちょっと鳴いたりして、わたしがここにいるよ、って教えてくれているみたいで、心強かったのを覚えてる」
「それが、なんで、セミに関していい思い出じゃなかった方向になるの? 怒られたから?」
「いや、ここまでが前置きで」
怒った父にみっちり事情聴取を受けたわたしが、れおくんと一緒に森に入ったことを白状したため、一人で帰ってきてわたしのことを誰にも報告していなかったれおくんは、自分のおじいちゃんとお母さんに、こちらもこってりと絞り上げられ、叱られた。れおくん自身も本当は、家の人から、神社の森に入ってはいけないと厳しく言われていたのだそうだ。家まで謝りにきた、神社の氏子でもあるれおくんのおじいちゃんがそう言っていた。
れおくんにしてみれば、『勝手についてきて、勝手に靴擦れをおこして、勝手にべそべそ泣きわめいて帰らなかった一年坊主のせいで秘密基地のことも大人にばれたし、ものすごく怒られた』という図式になってしまったため、わたしに腹を立てていたらしい。翌日、学校から帰るときに、事件はおこった。
「れおくんがさ、わたしのTシャツの背中に、セミを入れたんだよ。一年生のぶかぶかのランドセルだから、しょってても隙間ができるでしょ。そこに、強引に、二匹。セミはパニックで鳴きまくって、ばたばた大暴れして、わたしもパニックになってセミを出そうとして暴れて――」
一匹は無事に逃げ出したのだが、もう一匹は、無残にもランドセルと背中の間に挟まれて、死んでしまった。
「わたしが大泣きしてたら、そのうち、学校のケヤキやサクラから、セミが何匹も集まってきたの。一匹死んじゃったから、セミが怒っているのかと思って、すごく怖くなったし、周りの子も騒ぎ出して、大騒動になっちゃったんだよね」
騒ぎに気がついた先生が職員室から駆けつけてきた結果、その死んだセミが証拠になって、このちょっとしたいやがらせ事件は学校も知るところとなった。
「れおくんは今度は先生にも、当然またおじいちゃんとお母さんにも、こっぴどく叱られたみたい。そのあとはもうほとんど口もきかなくなっちゃって、しばらくして、れおくんは家の事情があってお母さんと引っ越しちゃったの。わたしは、そのときのパニックとショックが尾を引いて、その後、セミを触れなくなった。今にして思えば、セミがたくさん飛んできたのは何かの偶然だったんだろうと思うんだけど、その時は、前日助けてくれたセミの一族に恩をあだで返した格好になっちゃったから、怖かったんだろうなあ」
子ども心に、素朴に、セミの祟りがあると思ったのかもしれない。昔の人々が、生活用品にだって年月を経れば魂が宿って付喪神になると考えたくらいだ。七歳の子どもが、セミが自分に恨みをいだいていると思ってもおかしくはない。
「たぶん、原因と言えばそれだな」
わたしがそう締めくくると、黙って話を聞いていたツクモは、つないだままだった手にぎゅっと力を込めて言った。
「災難だったね」
「うん。悪いことしたなあ」
「誰に?」
「セミに」
「ふみちゃんは悪くないだろ、その話。ふみちゃんはお父さんの言うことをきかずに森に入ったかもしれないけど、こっぴどく叱られて、神妙に反省して、自分のしたことは責任取ったわけじゃん。黙って森に入って、セミの密猟をして、挙句の果てにセミを復讐の道具に使うなんて、虫好きの風上にも置けないよ、そいつ」
セミの密猟。セミを復讐の道具に。なかなか、昆虫好きでないと思いつかないフレーズだと思う。
「それに、そいつだって、禁止されていた森遊びをしたのは自分なんだから、怒られたことをふみちゃんのせいにするのはおかしい。ましてや、夕方の森に自分より小さい子を置いて帰るなんてありえない。せめて、すぐに大人を呼びに行くべきだったんだ」
もう、十数年前の話である。なのに、先週のことを聞かされたみたいに、ツクモは憤慨した声になっていた。
「まあ、れおくんもまだ子どもだったんだし」
「五、六年生なんて、そのくらいの分別はあるべきだよ」
「ツクモ、怒ってるの?」
「うん。かなり本気で」
わたしは胸の奥のどこかが少しだけ温かくなったような気がした。こういうときって、なんて言えばいいんだろう。
「ありがとう」
自信がなかったので、小さな声になった。
「ふみちゃんに何もなくて、本当に良かった」
やっぱりちょっと怒った声のままでツクモは言った。
道は平坦になっていたけど、神社のすぐ裏手に来るまで、ツクモは手を離さなかった。














