18 昆虫嫌いの原因(前)
沢筋を下りながら、ツクモはふいに尋ねた。
「ふみちゃんの昆虫嫌いだけど」
「うん」
「なんで嫌いなの? 理由とかがあるの?」
「生理的にだめ。脚が多いし、ガサガサしてるし、飛ぶし」
「そう?」
「ツクモにはわかんないかなあ。わかんないだろうな。昆虫オタクだもんね」
「オレはそうだけど、当然、オレの周りにも昆虫がダメって人間は結構いるよ。例えばうちのおふくろなんか、絶対ダメ。ゴキブリが出たら、殺虫剤を掛けようとするんだ」
「いや、それ普通の反応だよ」
残虐な蛮行を目撃した、みたいな口調で言わないでほしい。
「外に出せばいいのに」
「無茶をおっしゃる。誰が捕まえんの」
「オレオレ」
「詐欺か! ……ツクモが一家に一人、二十四時間いつでもそこにいてくれて、やつらが出たときに対応してくれたら、百歩か千歩譲ってそれでもいいけどね。でも、やっぱりいつまた出てくるかわかんないのは嫌だよ」
「うん、まあそれは置いといて。うちのおふくろ、昆虫は全然ダメでね。話も聞いてくれない。見るのもダメ。オレには家業に関係する勉強をして、会社の手伝いをしてほしいってずっと言ってたんだけど、最終的にこういう形で研究を続けてもいいって折れたのは、話し合いが平行線になった時、オレが最後にはケースに入れたカマキリをおふくろの目の前に出してきて、会社の仕事を手伝いたくない理由と昆虫の素晴らしさをとうとうと説いたのが耐えられなくて、二度とそんな場面に出会いたくなかったからだって後で言われた」
「……お気の毒に。ツクモ結構すごいことするんだ」
「まさかそんな嫌がらせや脅しのつもりじゃなかったんだけど、こっちも人生かかってるから」
なかなかの筋金の入りっぷりである。会ったこともないけれど、御母堂には深く深く同情した。さぞやストレスフルな経験だっただろう。
「でもね、ふみちゃんは、最初に会った時からアオスジアゲハ一緒に見てくれただろ。きれいって言ってたし。バタフライネットも、すぐ取りに行ってくれたし。アオスジのときも、今日一日も、オレが昆虫の話を延々していた間、よほどのことがなければ止めなかったし、好奇心をもってちゃんと聞いてくれて、相づち以上の返事もしてくれた」
「延々、昆虫の話をしていた自覚はあるんだ」
「まあね」
ツクモはちょっと肩をすくめたけれど、続けた。
「ふみちゃんはちゃんと閉めた網の中や離れたところにいる昆虫は平気で、トンボがいるのも普通に教えてくれた。カミキリムシを袖に止まらせたときもトンボを指に止まらせたときも、硬直はしてたけど、叫びはしてなかった」
昆虫だけではなく、わたしの観察もしていたらしい。
「ふみちゃんがものすごく反応したのは、アオドウガネとシロテンハナムグリ、ふみちゃんはどっちも区別せずにカナブンって言ってたやつらが帽子に止まってたときと、セミが落ちてきたときだ。この二つには、なにか、特別嫌な思い出でもあるの?」
言われてわたしも考え込んでしまった。
「今まで、生理的にダメ、って言えば自分にも他人にもそれで十分説明がついてきたし、それ以上考えたことってなかったんだよね」
「うん。でも、ホントに小さい赤ちゃんって、けっこう、昆虫みたいな動くものには興味津々な子が大半なんだ。苦手になるには、それなりのきっかけか何かがあったんじゃないかなあって思うんだよね」
「ツクモにとっては、好きがデフォルトだもんね。嫌いになるきっかけか。わたしは嫌いがデフォルトだと思ってきたから」
でもそういえば、両親はどちらも極度の虫嫌いではない。出てきたものには冷静に対処するし、家に入ってきても、殺さずに外に出すだけで済むときはそうしている気がする。
なぜわたしだけ、どうにも昆虫――ツクモの観察によればセミとカナブンが苦手なのか。
「……あ」
「何?」
「カナブンはある。二歳くらいの時、とまられて泣いたことがあるって両親に時々言われる」
夏の夜、わずかな隙間から蛍光灯の明かりに誘われてカナブンが家の中まで入り込んでくることがある。そのたび大騒ぎするわたしに、両親が決まってする思い出話があるのだ。
「ご両親に? 自分では?」
「言われればそうかなって思うけど、小さい頃すぎてよく覚えてないんだよね」
「どんな出来事だったの?」
「ツクモなんかに言うもんか」
わたしは舌を出した。自分からわざわざ恥をかく必要はどこにもないではないか。
わたしたちは、昼食を食べて、セミとクワガタに恐怖の接近遭遇をした大岩にたどり着いていた。
ツクモのどうらんのなかで、セミがじじっと鳴いた。
「ねえツクモ、セミ、写真撮るの忘れてない?」
「そうなんだけど、ここから出すの、ふみちゃんが嫌かと思って」
「麻酔かけてから撮影するんでしょ? なら、離れて見てるから平気。神社のほうまで連れて帰っちゃうのもかわいそうじゃない? それに、もう少し日が暮れちゃうと写真綺麗に撮れないよ」
夏の長い日差しもさすがに傾いて、もう辺りは何となく淡い黄金色に色づきつつあった。
「うん、じゃあ」
ツクモは岩の上にリュックサックとどうらんを置くと、撮影セットとカメラを取り出して支度をはじめた。
わたしは、数メートル離れた木の下で、お守り袋を手に持って座り、その様子を見ていた。ツクモにそうするように言われたのだ。
ツクモは慣れた手つきで薬品をはかってコットンにしみこませると、ボウルに入れてふたをする。十分に麻酔薬が充満したのを見計らってから、ボウルにセミをそっと入れる。アクリル板でふたをした瞬間、セミが少し鳴いて暴れたような音がした。
反射的に肩に力が入った。あの声だ。じじっと短く鳴いて、羽をばたつかせて暴れる。
何かが記憶の片隅をひっかいたような気がした。虫かごの中でセミは盛んに抗議の声を上げて暴れていた。あのとき、誰がいた?
れおくんだ。ここで、靴擦れを起こしたわたしにイライラしてた。ついてくるなって言ったのに、おまえが無理矢理ついてくるから。
れおくんが、秘密基地があるって言ったんだ。お父さんが言ってた、入っちゃいけない神様のお庭じゃないかと心配になった。神様のお庭を守るのは、七曜神社と、宮森の人間の仕事だ。
れおくんと、森に行ったんだ。
セミ。それだけじゃなかったはずだ。じいじいと鳴いて暴れていた。
わたしはランドセルをしょっていた。ならば、それは翌日だ。
わたしは、もう一度順序立てて記憶を整理した。はっきりと思い出した。なぜ、今まで思い出さなかったんだろう。
ふと気がつくと、目の前にツクモが来ていた。しゃがんでわたしに目の高さを合わせている。
「ふみちゃん」
呼ばれていたのにようやく気がついた。いままで、声らしきものは聞こえていたはずなのに、脳が何も処理していなかったみたいだった。
「うん」
「セミ終わったよ。立派なミンミンゼミのオスでした。片付けも終わったし、セミは飛んでった。大丈夫? 疲れちゃった?」
「ううん。平気。そうじゃなくて、思い出したの」
ツクモが差し出した手を取り、引いてもらって立ち上がりながら言った。
「何を?」
神社の裏の森に出るために、ここからしばらくは、よろけたら手を突かないといけないくらい急な坂を登る必要があった。ツクモはそのまま、ごく当たり前のようにわたしの手を取って導きながら、足場の悪い斜面を上がり始めた。
「セミのこと。あまりいい思い出じゃなかったからかな、忘れてた。さっき思い出した」
「何かあったの?」
「多分、小学校一年生の時なんだけど――」














