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昆虫オタクと神社の娘【完結済】  作者: 藤倉楠之
第二章 羽音木山の調査

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17 ヒシの池とご神域

 わたしたちは、池に向かって沢筋に沿い、ごつごつした岩場を上がっていった。さっきの一幕は、騒ぎ立てたり不機嫌な態度をとったりするのもなんとなく子どもっぽいようで癪に障り、わたしは一応なかったこととして対応することにしていた。ツクモはあいかわらず、視界に入った昆虫を楽しそうに追いかけているけれど、追いかける昆虫がいないときは何か考え事をしているようで、口数が少し減って、どこか上の空だった。


 立木の切れ目からやっと池が見えた。午後の日差しに、水面がきらきら光っている。


「うわあ、懐かしい!」


 わたしは思わず歓声をあげた。

 早足でごろ石を乗り越え、池のある小さな空き地まで進む。


「来たことあるの?」


 ツクモもすぐに追いついてきて尋ねた。


「小さい頃ね。この奥はご神域だって言ったでしょ。お父さんだけ入れるの。それも決まった日に決まった回数。それで、お守りの材料にする植物を採ってくるんだよ。帰りの荷物が多くなるから、お母さんもついてくるんだけど、お母さんは入れないから、ここで待つの。わたしも小学校に上がる前は、毎回一緒に来てここでお弁当食べながら待ってた。ほら、その木の下あたりで。小学校に上がってからは、お父さんが奥に入る日は学校があったりしてなかなか来られなかったけど、友達と探検ごっこに来たことはあったし」


「ふうん」


 池の前まできた。夏のこの時期は、池のあちらこちらで、すうっとまっすぐに天を指し示すガマが生い茂ったり、小さな白い花が愛らしいヒシが群生したりと、生命力があふれる景色になる。地元の人もほとんどこないけれど、美しい場所だ。


 ツクモは伸び上がるようにして池の向こうを透かし見た。


「向こう岸の先はまた上り坂になってるの?」


 わたしは地形図を示した。


「今ここでしょ。谷の一番奥。図はここで切れているけど、この先が尾根みたいになってて、この向こうがまた谷になってるんだって」


「谷か。じゃあ、生息する昆虫も多少違うかもしれないなあ」


「そうなの?」


「そんなに移動能力がない種類も多いし、谷に十分餌や身を隠せる場所があれば、わざわざ遠出をする必要がないからね。隣どうしの谷筋で、違う生物が優勢だったり、突然変異の固定が進んで、もともとは同じ種だったものが別の種に分化しかかっていたりすることはあるんだ。昆虫は、鳥類や哺乳類より世代交代のサイクルが早いから、そういう変異が起こりやすい。そんなに急峻な斜面でもないし、深い谷でもないだろうから、期待しすぎは禁物だけど」


「でも、調査はここまでだよ」


「わかってる」


 わたしが念を押すと、ツクモは口をへの字にした。


「ご神域なんだからね」


「もちろん、尊重するよ。でも、見てみたいなあ、見られたらいいのになあ、と思っただけ」


「この辺の子どもたちはね、親や地元のお年寄りたちからみんな教わるんだよ。ご神域に入ると祟りがあるの。入れるのは、七曜神社の宮司だけ」


「祟り? どんな?」


 そんな風に聞き返されるとは思わなかった。祟りがある、というのは、大人になってしまえば、小さい子どもの好奇心を恐怖で押さえて、ご神域を尊重させるための方便だと思っていたからだ。


「色々言う人はいたよ。この山の神様は胡蝶の神様だから、チョウに連れていかれて神隠しに遭うよ、とか。顔がただれるっていう即物的なことを言ってたおばあちゃんもいたかなあ。とにかくよくないことが起こるっていうのが、一番よく言われたかな。子どもが怖がりそうなことをとにかく言って、近づけないようにしていたんじゃないかな」


「胡蝶の神?」


「いや、神社のメインのご祭神は違うんだけど、なんかそういうことを言う人が結構いるんだよね、お年寄りに。昔話とかあるのかもしれない」


 改めて聞き返されると、自分にも確たる情報がないことに気がつく。地域で育って、当たり前のように聞いてきた話なので、わざわざ振り返って考えてみる機会など、今までなかったのだ。


 さあっと水面にさざ波を立てて、風が吹き抜けた。傾いた日が、それでもまだじりじりと照りつけるなか、木立ちと水の上を抜けてきた風は頬に涼しかった。


「ふみちゃんはここで待ってて」


 わたしを池のそばに生えたサクラの大木の陰に残して、ツクモは池のほとりをざっと見分した。水際の地面の様子を確かめたり、池の深さを推しはかったりしているようだった。


「なんか、いた?」


「いるいる。あー、捕りたい。でも、水の中のやつらだから、装備をちゃんとしてこないと、昆虫もかわいそう」


「そういう我慢は一応できるんだ」


 あきれてしまった。

 この沢筋を上がってくる間にも、ツクモはちょっと目についた昆虫をすぐ追いかけ回したり、気になった石や木の皮をめくってみたりして、ちっともスピードが上がらなかった。池の場所を確認して暗くなるまでに神社に戻るのに、これ以上捕っていたら間に合わないかも、と散々急かすはめになったのだ。少々上の空だったことも手伝ってか、わたしの言うことに反応があまりに鈍いので、途中でもう諦めてしまおうかとも思ったのだが、道案内を引き受けた手前、あまり無責任な態度もとれない。


 ここは、雨が降れば周囲の山からの水を集めて、ふもとの二級河川までかなりの水量と勢いで流れ下る小川に変わる。せめて、道草を食うのは帰り道にしないと、どこで倒木や落石に道をふさがれて回り道をしなければならなくなるかわからないのだ。人が普段分け入る山ではないから、整備する必要もないしそんな人間もいない。父が最後に入ったのも、もう二か月くらい前になるだろうし、父だって自分が通れさえすれば、崩れたところは崩れたまま、転がった岩は転がったままにしている場所である。地形図は参考にはなっても当てにはならない。


 幸い、結果的にはさしたる難所もなく記憶通りに池にたどり着いたのだが、わたしとしては、かなり気をもんでいたのである。


「この後を急がなきゃいけない用事があるわけではないにせよ、木陰になるから、日が下がると帰りの足元は見えづらくなるよ。あ、夕ご飯、食べていけるんだよね?」


 まだツクモに会っていなかった母が、たまたま自分が非番の日に調査初日が重なったため、娘がお世話になるんだから、と、事前からかなり強く勧めて、今日はわたしの家で夕食を一緒に取ることになっていた。父から話を聞いて、ツクモと調査に興味津々だった母は、リストまで作って買い物にも余念がなく、腕によりをかけて食事の準備をしているようだった。おそらく、ツクモは母の質問攻めにあうだろうが、そんなことを事前から忠告してやる必要もないだろう。


「うん。ごちそうになります。神社のこともできればもう少し聞いて、文献調査の段取りも考えたいし」


 ツクモは未練がましく池の中を覗いていたが、さすがにもう行かなきゃだよね、と独りごちた。気合を入れるようにひざを一つたたいて立ち上がり、戻ってきたところに、わたしは一応尋ねてみた。


「何がいたの?」


「今は、タガメちゃんを見てた。知ってる? こう大きい鎌みたいな前足を持っていて、獰猛なんだ。小魚やカエルをねらう。そういえば、タガメに襲われたマムシの事例があって――」


 うきうきして語り始めたので、慌てて止めた。


「ストップ。たぶん、その先はわたしは聞かないほうがいい」


「食うか食われるかの手に汗握る仁義なき大乱闘なんだけど」


「アクションはイケメン俳優にお願いしたい。足が六本と足が零本の異種格闘技は守備範囲外。足して六なら、せめて人間の二本とオオカミやクマの四本あたりの穏当なところでとどめてほしい」


 昆虫が苦手だとこれだけ言っている、うら若き乙女に、こいつはいったい何の話をするつもりだったのか。ああ、知りたくない。


 それでも、やっとツクモも帰る方向に意識が切り替わったようだった。あの上の空な態度もなりを潜めて、それまでどおりの様子に戻ったので、すこしほっとした。


 もときた沢筋の方に戻るべく、倒木を乗り越えると、さりげなくわたしのほうに手を差し伸べる。昆虫に関しては全くわたしへの配慮を欠くくせに、今日、もう何度目だろうか、こういう足場の悪いところでわたしが何も意識していないうちからさっと手助けしてくれた。これはどうやら小さい子扱いしているというのでもなさそうで、その態度は、もはやツクモ自身も無意識でやっているのだろう、自然で板についていた。


 こちらは普段から手を貸してもらって当たり前のお子様でも、エスコートされなれている令嬢でもないので、気にしてしまって、よけい手足の動きがぎくしゃくしてしまうのだけれど。とはいえ、手助けなんかいらないよ、と突っぱねて、動きが遅くて足手まといだと思われるのも嫌だったし、あまりにツクモの態度が当たり前のようなので、自分から変に意識した態度を見せるのも癪だった。古い映画で見た女優さんみたいに、エレガントに受け入れられたら、かっこいいんだろうなあ、と思いながら、なんとなくそんな真似をすることにした。


 社長令息としての交友関係では、こういう態度が必要だったりするのかもしれない。小さいころから、厳しく言われていないと、こんなに自然にはできないだろう。


 わたしはツクモのことを何にも知らないな、と改めて思った。他力本願だけど、母の尋問に期待が膨らんだ。


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― 新着の感想 ―
[良い点] いつも楽しく読ませていただいています。 3Kバイト、ふみちゃん頑張っていますね。ツクモさんのペースに完全に巻き込まれてますが。 ふみちゃんは何か言い訳したり文句を言いつつも、ついていってい…
[一言] ツクモは不思議な魅力があるんですよね。 ここは郁子のお母さんに期待。
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