16 試したいこと
ツクモはトンボの様子を気にしながらもおにぎりを食べ終わって、水筒のお茶を飲んだ。
「どうも、気になってるんだよね」
パン屋さんが手提げにいれてくれていたおしぼりで手を拭きながら、眉をひそめる。
「何が?」
「昆虫の動き」
「どういうこと?」
「今は夏で、ここは手付かずの山林だ。昆虫が多いのは当たり前と言えば当たり前なんだけど――」
ツクモは、クリップボードを取り上げた。
「この種類、この数はかなり多い。これまでのこの種の調査と比べても破格といっていい。しかも、動きが変なんだ。やけに近い。向こうから飛び込んできてると言ってもいいくらいだ」
「人の来ない山だから、警戒心が薄いんじゃない?」
「個体が学習したり、行動の世代間伝達がある哺乳類ならともかく、人の来る来ないで行動が変わるかなあ」
ツクモは納得しない顔だ。わたしにはいまいちよくわからない。
「どうして?」
「イノシシが、猟師の仕掛けたワナを見破って避けるのは、ワナにかかりそうになって嫌な経験をしたからだし、ゴミ箱を漁るのは、そこに美味しい食べ物があったといういい経験をしたからだよね。これが学習だ。もしかしたら、連れている子どもにも、避けるべき仕掛けや、楽な餌場を教えているかもしれない。これが、世代間伝達。でも、一年限りの命が多くて、子育てをしない昆虫は、一般的には哺乳類ほど複雑な学習や世代間伝達はしないと考えられている。昆虫は、もっと、環境から与えられた刺激に、本能的で単純な反応をする。見た目が複雑な行動も、ある特定の刺激が引き金になって、複雑な行動があらかじめセットになっているプログラムが実行されるだけなんだ。環境の方が変化しても、行動セットを変えるのは難しい。遺伝的なものだから。昆虫の行動の引き金は、哺乳類のそれより、もっとシンプルだ。特定の色や光、気温や水温、化学物質、日照時間。そういったものをきっかけに行動が始まる。ここの昆虫の動きが独特なら、その要因はここの環境の何かにあるはずだ。昆虫自身ではなく」
ツクモは考え込んだ。
「最初から、違和感があったんだ。でも法事の日、お寺の時には違和感までは感じなかった。それより後、ふみちゃんに会った、あの公園のあたりからだ。それから、駐車場でも。ずっと気になってた。……ねえ、ふみちゃん。神社のお守りは今日も持ってる?」
わたしはシャツの胸ポケットの上から、お守りを押さえた。蚊に刺されるのが嫌で、昆虫採集なのに虫除守を持ってきてしまったのだ。たくさん捕れてるから問題ないと思っていたけれど。改まって尋ねられると、ばつの悪い気分だ。
「ごめん、ツクモ。昆虫を捕るっていうのはわかっていたんだけど」
「いや、持ってきてるのはいいんだ。蚊やマダニに刺されて、最悪、体調を崩したら調査どころじゃないしね。普通の調査だって虫よけスプレーくらい使う。それはいいんだけど」
やっぱり気になる、と独り言のように呟く。
「ねえふみちゃん。どうしても、試したいことがあるんだ」
「何?」
「失敗したら、それだけのことだ。だから、やってみてもいい?」
じっと目を見て言われて、わたしも緊張した。少し長めの前髪の向こうからこちらを見つめる目は真剣そのものだった。
「……危ないことじゃないよね」
「もちろん。何かあっても、ふみちゃんはオレが全力で守る」
人が悪い。どうしてこういうフレーズを、何の他意もなく百パーセント真剣に言えるんだろう。こっちは何の免疫もない、うら若き乙女である。こういう暴力的なまでに外見に恵まれた人は、周囲のために、もっと発言を自重していただきたい。
絶対、口説いてるわけじゃないってわかっているのに、心臓は勝手に胸郭の中で暴れている。ドラマや映画で、あこがれていた台詞ナンバーワンだ。
わたしは犬張り子のようにこくこくとうなずくしかなかった。
ツクモはリュックサックから、ジップ付きの厚手のポリ袋を取り出した。
「お守り、貸して」
わたしは催眠術に掛けられたように、ポケットから出したお守りをツクモの差し出した袋の中に落とした。
ツクモは端から指を滑らせて、ジップをきっちり閉めた。
「たぶん、これだけじゃない。もう一つ条件がある」
ツクモはバタフライネットを手に取ると、ファスナーを開けて、トンボを一匹取り出した。羽を揃えて持つ。
「ふみちゃん、このトンボの名前、知ってる?」
「朝、言ってたよね。オニヤンマ?」
「そう。日本でふつうにみられる種としては最大級のトンボだ。手を出してくれる?」
わたしは右手をそっと目の前に差し出した。なぜか、抗えなかった。
「この子は、肉食の昆虫だ。蚊やハエを捕まえて食べる。稲につく害虫もとって食べるから、昔からお皿や着物の柄にもなって、親しまれ、愛されてきた。怖くない。ふみちゃんは、こいつの獲物じゃないから、噛まれたりしない」
ツクモはわたしの手に、トンボを静かに近づけた。羽を押さえられた昆虫は、必死で逃げようとしていた。脚が、死に物狂いに動いて、わたしの指に触れる。とげのある脚がもつその独特の感触に、首筋の後ろの毛がきゅっと逆立つ気がした。
怖い。
ツクモが手を離した。トンボは一瞬わたしの指にぎゅっと掴まって、それから、あの、ぶんという羽音を立てて宙に飛びあがった。指に、トンボの思いがけず強い力の感触が残る。さっきとは全く違う音色で、心臓はばくばくと鳴っていた。トンボは一瞬その位置にはばたいたまま止まり、わたしの周りをぐるっと二周回った。それから沢のほうへ向かっていった。
頭上の木でうるさく鳴いていたセミが、急にその声を止めた。
一瞬の静寂の後、がさがさっと音を立てて、何かが落ちてきた。それが何であるかを認識した瞬間、わたしは悲鳴をあげた。
「いやああっ! セミ、セミはやだ!」
鳴き止んだセミが、わたしの目の前に飛んできたのだ。シャツの袖に止まったセミを振り払おうとするが、離れない。
わたしはパニックになって、とにかく目の前にあるものにしがみついた。
「大丈夫、今とるから」
耳に直接響いたのはツクモの声だった。
あろうことか、ツクモに飛びついてしまったのだ、とその時気が付いた。でも、セミの恐怖には勝てなかった。ツクモは、わたしが暴れないようにだろう、左手でわたしを自分の胸に抱きとめると、右手で袖にとまっていたセミをつまみ上げた。パニックになりすぎて、呼吸が上手くできない。しゃくりあげるみたいになって、吸っても息が上手く入らないような感覚だ。妙に覚めてしまった頭の一部分で、ツクモの指、細くて長いな、と、どうでもいいことを考えた。
ツクモはどうらんにセミを放り込むと、泣き出した赤ん坊をあやすみたいに、わたしの背中をとんとんと撫でた。
「もう、セミはついてないよ」
わたしを塗り壁みたいに頑丈な自分の胸板に抱き寄せたままで、空いたほうの手を伸ばして、お守りを入れたジップ袋を拾い上げてわたしのひざに落としてくれた。
「それ、開けて、出して。ゆっくり息吐いて、吐ききってから吸って」
わたしは言われるがままに、守り袋を取り出した。無意識のうちに握りしめると、すうっとする薄荷と柑橘の、おなじみの香りが立ち上った。ほうっとため息をついて、それから香りを深く吸い込んだ。
「もう、大丈夫。ごめん、ふみちゃん。本当にごめん」
ツクモは一瞬だけ、両腕でぎゅっと私を抱きしめた後で、手を離した。小さい子をなだめるときの、穏やかで優しい仕草のようだったと思う。
だが、わたしの背中を最後にぽんぽんとやさしく叩いたツクモの手が、離れるときにさっと何かを引きはがしていったのに気が付いてしまった。
つまんでいたそれを、どうらんとは別の小型のアクリルケースに入れて、通気性のある蓋をさっと閉めている。つやつやした、黒っぽい昆虫だった。じっと見る気もしなかったけれど。
「……背中には何がいたの」
「ん、たいしたことない。通りすがりのコクワガタ」
「たいしたことあるわっ! セミとクワガタに同時に止まられるなんてどんなレアな状況よっ」
思わず言い返してしまった。どんなトリックでからかわれたんだろう。無神経ないたずらにもほどがある。無性に腹が立った。
もちろん、怖いものは怖い。でも、しょせんセミはただのセミで、噛みつくわけでも刺すわけでもない。なのに、こいつの前で悲鳴を上げ、あまつさえ飛びついてしまった自分にも、同時にひどく苛立ちを感じた。
「本当にそうなんだよ。とんでもなくレアな状況だ。嫌な思いをさせて悪かった。ごめん」
ツクモは相変わらず真剣な表情のままだった。
……あれ? からかったんなら、ここは笑うところじゃない?
ツクモは今までのほんの短い付き合いの中でも、何度もわたしをからかったり、わたしの反応を面白がって笑ったりしてきた。そのときの様子とは、全然違う。
こんな風に謝られると肩透かしだ。
「いや、トンボもセミもクワガタも、冷静に考えたら実害がある訳じゃないんだから、もういいよ。いいけどさあ。こんないたずらは止めなよ。モテないよ」
「たぶん、トリガーは、お守りとふみちゃんだ」
ツクモは奇妙なことを言った。そのあと、考え込んでしまって、わたしがそのことについていくら聞いても教えてくれなかった。














