14 チョウとガと(後)
「じゃあ、毒は? ガって羽の粉のところに毒があるんでしょ」
「ああ、その話ね」
ツクモはそりゃあもう嬉しそうに笑った。
できの悪い子どもを前に、腕まくりした小学校の先生みたいだ。この前、アオスジアゲハを撮影するのに使っていた白いボウルに、同じように薬品を含ませたコットンを仕込みながら、説明してくれた。
「ガは全部毒があるって思ってる人もいるけど、毒がある種類のガは、ごく限られたグループにすぎない。鱗粉の間に細かい毒のある毛が生えているんだけどね。ほら、ケムシで刺すって言われてる種類のがいるだろ。あれが成虫になっても、羽や身体に毒の毛が残っていて、触ると手について痛みやかゆみがでるんだ。鱗粉に毒があるわけじゃないよ。それに、毒のない種類のガも多い。逆に、毒のあるチョウも結構いるんだ。オオゴマダラとか。色柄が鮮やかで、きれいなチョウだよ。なんで鮮やかかっていうと、まさにその毒があるからなんだ。食べられないように、捕食者に対して積極的にアピールしていると考えられている。こちらは触っても何ともないけど、鳥なんかが捕食すると、かなり苦しむことになるから、鳥も学習して手を出さなくなる。マダラチョウは、幼虫時代に食べる草に含まれている毒を身体の中に蓄積して活用しているんだ。身体構造そのものに毒を作る機能があるわけじゃないんだよ」
はあ、とうなずくしかない。
「つまり、チョウは好きだけどガは嫌い、という発言はナンセンスってことなの?」
そうそう、と彼は笑う。ガを一羽、つまみ出すと、慎重に器に入れた。大人しくなったところでアクリル板をいったん外し、カメラを構える。しゃべりながらも、ツクモの手はいっさい止まらなかった。
「アイドルグループの、誰それちゃんは好きだけど、誰それちゃんは嫌い、って言ってるみたいなもん。五十歩百歩。もちろん、アイドルの応援と一緒で、ファンがみんなグループ全体を応援しなきゃいけないわけじゃないから、そういう好みの表し方があってもいいけどね。他のジャンルが好きな人からしたら、結局同じ穴のムジナ」
でも、百歩譲ってチョウはきれいだと言っても構わない、という程度のわたしと、昆虫をいちいち、ちゃん付けで呼ぶガチオタのツクモの間には深くて越えがたい谷がある。はずだ。そう思いたい。
「じゃあ、ツクモは箱推しどころか業界推しのガチオタだね」
わたしが言うと、ツクモはきょとんとした。きょとんとしながらも、手は動いて次のチョウを撮影する準備にかかっている。つくづく器用なヤツである。
「アイドルのファンで、その中で個人じゃなくてグループ全体を好きな子を箱推しっていうの。いろんなグループを好きな子は、いわばアイドル業界全体推しでしょ。ガチオタはわかるよね?」
普通に会話に出てくるスラングだと思うけれど、こいつにはイマイチ、世間の常識が通用する気がしない。
「ガチのオタクでしょ。ふみちゃんはアイドルのファンなの?」
あ、さすがに分かってた。わたしは肩をすくめた。
「別に。友達に何人かそういう趣味の子がいるだけだよ」
「ふうん。確かにオレは昆虫全体、分け隔てなく好きだな」
「見てりゃわかる。語りたがるのもオタクの証拠」
「まあね」
ツクモはくすくす笑った。へえ、と思った。
怒るかな、と思っていたのだ。
これだけの知識を持っていて、それも噛み砕いてちゃんと素人のわたしが理解できる説明ができる。技術だってある。ツクモは、ねらった昆虫はほぼ一撃で捕獲していたし、写真撮影も手際がよかった。今だって、説明しながらも次々とガとチョウの撮影を済ませ、麻酔が切れたものからひらひらと飛び立っていくにまかせていた。
知識、技術、愛着にもとづいたモチベーションの三位一体。要するに、才能がある、というのはこういうことをいうのだろう。それが職業と一致していれば、これは天職というよりほかない。よく、これが仕事としてある程度通用するレベルまで極めたものだとは思うけれど。本人の熱意と周囲の理解、どちらもスケールが大きい。
ここまでの数時間で、わたしは、とにもかくにも、ツクモは昆虫を扱うプロだということは認めざるを得ない、という結論を出していた。
プロの仕事を、趣味の世界と比較されて、年下の素人からオタク呼ばわりされたら、イラっとするんじゃないか。そう思ってはいたのに、そんな失礼なことをわたしが言ったのは、単に、苦手な昆虫にさらされ続けたこの数時間のストレスからの、子どもっぽい八つ当たりに過ぎない。
「……ツクモ、怒んないの?」
「なんで?」
「オタク呼ばわりされて」
「だってそうだから。この業界、いかに自分がオタクかでマウント取り合ってる連中、山ほどいるよ。語りまくって知識自慢して、どっちがレアもの捕ったことあるとか比べてさあ。オタクっていう言葉を使わないだけで。あ、喜んで自称する奴もそれなりにいるかも」
ツクモは次に仕込んでいたジャノメチョウの写真を撮りながらちょっと顔をしかめた。何かを思い出したようだった。
「学生時代の知り合いでさ、すごい語りたがりで、すごいドヤってきて、超面倒なヤツいる。アイツはオタク呼ばわりされたら怒るかも。でも、オレは胸張って自分はオタクだって言ってくれるヤツの方が付き合いやすい。自覚のあるヤツの方が情報交換と自慢合戦の区別がちゃんと付いてて、無駄なマウントとらないし。そもそもオレだって、会社の本業は別なんだから、アマチュアといえばアマチュアだし」
「……何というか、色々あるんだね」
「だいたい昆虫より人間の方が厄介なんだ。人間は何考えてるか、どうしてそうなるのかわかんないときが多い」
その口調があまりにしみじみしていたので、わたしは思わず笑ってしまった。
「ツクモは昆虫側の人間なんだ」
「そうかも。ふみちゃん、オレが怒るかもって心配してくれたの?」
ツクモは顔いっぱいに笑顔を浮かべた。嬉しそうだ。
「別に」
わたしはそっぽを向いた。気を回して損した気分。
「なんだ。ありがとう。ふみちゃん、かわいい」
帽子の上から頭をぽんぽんなでられた。
「違うって言ってるじゃん! やっぱり、ツクモは昆虫側だよ。人間のわたしのことはわかってないっ」
「そうかなあ」
ツクモは笑った。こういうところが腹立つんだ。
でも、思いがけない仕草に、頬が熱い。笑顔で頭ぽんぽん。さっきからの説明も噛んで含めるような口調だから、これだってどうせお子様扱いだってわかってはいるけど、うら若い乙女には刺激が強い。
くそう。ツクモのくせに。
麦わらのつばの陰で、暑さをこらえるふりで顔を扇いだ。
しっかりつばが大きい、適切な帽子を支給されていてよかった。この涙がでるほどダサい帽子に感謝することがあるだなんて、二時間前には思いもしなかった。
「あ、モンキアゲハだ!」
ツクモが何かを見つけて、さっと網に手を伸ばした。一瞬で、楽しそうにわたしをからかっていた表情から、獲物に夢中な昆虫オタクの表情に変わった。視線の先をたどると、木立の間にひらひらと踊る黒っぽいチョウの影がわたしの目にも見えた。
昆虫の登場に、こんなに感謝することがあるだなんてことも、思ってもみなかった。














