13 チョウとガと(前)
調査は、わたしの見立てでは、難航を極めていた。
難航というのだろうか。多分、ツクモには異論があるだろう。でも、始めてから数時間、もう昼すぎだというのに、スタート地点から二百メートルくらいしか進んでいない。
虫が多すぎるのだ。いつ終わるか想像もできない。
見つけるたびにツクモは歓声を上げて撮影する。ずっと、マックスのハイテンションだ。
ビーティングネット、とか、シフター、とか、わたしには耳慣れない名前の道具を次から次に取り出して、ツクモは小さい方では五ミリ以下、大きいものでは数センチ以上の、主にカナブン・コガネムシ型の何かを捕まえまくっていた。時折、ガやチョウのハタハタ飛び回る系のものも。
いちいち名前を教えてくれて、わたしがその都度メモを取るのだが、とにかく情報量が多すぎる。わたしは、早々に覚える努力を放棄していた。もう数えるのすらやめているけれど、手元のメモのボリュームからして、数十種は記録したはずだ。
沢に向かって、それでも少しずつ下っているせいで、木々は少しずつまばらになり、木洩れ日の量が増えて、明るい地点に出てきつつあった。かすかに水音も聞こえ始めている。
「ふみちゃん、そこストップ! ちょっと下がって」
言われてわたしが三歩ほど下がると、ツクモは、つい先ほどまでわたしが立っていた位置の横にある朽ち木のあたりで、柄の短い捕虫網を素早くふるった。流れるような動きでそのまますくい上げるように手首を返し、網の口がふさがるようにした。
「えー、何かいた?」
わたしにはぜんぜん見えなかった。でも、ツクモが持っている捕虫網の袋の中では、たしかに何か小さめの生き物がひらひらともがくように動いている。
「ジャノメチョウだ」
ツクモは歓声をあげる。
「珍しいの?」
「ううん。よくいる。ああ、もうこのつぶらな眼状斑点! 相変わらず暴力的にかわいいなあ」
ちょっともう、単語が分からないのもさることながら、前後のつながりがまったく理解できない。よくいる、という地味な昆虫でこれだけテンションを上げられるツクモはすごい、と正直変なところで感心してしまった。
「ふみちゃん、バタフライネット」
言われてわたしは手に持っていたネットをかかげた。ツクモは、先客のチョウが逃げないように慎重に入れ口を開けると、捕虫網からそっとつまみだしたジャノメチョウを入れた。満足げにネットを眺める。
「うーん、そろそろここも定員いっぱいかな。撮影して逃がしてやらないと。チョウは動きが激しいから、きれいに撮るためにこの前の麻酔を使うんだ」
今入れられたばかりの、淡い茶色の地味なやつが、ひらひらとネットの中で飛び、落ち着く場所を見つけたのか網目に足を掛けて止まった。羽を閉じると、ジャノメという名前の由来だろう、小動物の目玉のような黒い斑点が見える。モンシロチョウより一回り小さいくらいだろうか。
「って、これ、ホントにチョウ? ガの色じゃん」
チョウは百歩譲ってまあ、かわいいと言ってもいいと思う。遠目なら。でも、ガはちょっと怖い。夜、網戸に大きいのが止まっていると、正直ぎょっとする。毒があるっていうし。
今このネットの中にはガも何羽か入っている。ツクモがさっき捕ったやつだ。軍用飛行機みたいな三角形をしている。色も、樹皮や落ち葉に紛れこむ迷彩のような茶色のまだらだ。小さいけれど、太い胴と辛口のカラーリング、シャープなフォルムがあいまって、戦闘力が高そうで威圧感がある。正直、網越し以上にお近づきになるのはご遠慮したい。
「ガとチョウの違いってなんだと思う?」
聞き返された。
「うーん。色がきれいで、昼間の明るいところを飛んでるのがチョウ? ガは夜か日陰でしょ。あと、ガは角がちょっとぞっとしない形」
中国文学では、美人の形のいい眉を『蛾眉』と称して、ガの触角になぞらえたりする。あのセンスも理解できない。
「うんうん、いい線いってる。ふみちゃん、昆虫苦手とか言って、ちゃんと見てんじゃん」
「田舎だから、嫌でも目に入るんだよ」
わたしは唇のはじを下げた。慣れないから苦手なのではない。よく見るからぞっとするのだ。
「結論から言うとね、ガとチョウはあんまり違わない。区別することに労力をさく方が無駄。一応、ふみちゃんの言う通り、チョウは日中に行動する種が多いし、触角がこん棒状になってるところを見分けるポイントに挙げる人もいる。ほら、ジャノメちゃん見てみて。触角の先が、マラカスとか、マーチングバンドの子が持ってるバトンみたいに丸くなってるだろ」
わたしはネットの中のジャノメチョウを目を凝らしてよく見た。確かに、ツクモの言うとおりだ。まっすぐ伸びた触角の、細い柄の先端が膨らんでいる。
「ガの触角は、すっと先細りの形だったり、葉脈みたいに、真ん中の軸から両側にいっぱい毛が生えている形だったりする。でも、セセリチョウなんかは、触角が先細りだけどチョウの分類に入ってるしね」
ツクモは、淀みなく説明しながら、木洩れ日がさす下ばえが少ない空き地を選んで、先ほどから下ろして木の根本に立てかけていたリュックサックを運んだ。
「確かに、ガは夜行動する種も多くて、色は相対的に地味なものが多い。夜間には、羽の色が、コミュニケーションの手段として弱いからだろうね。夜行性のガは、フェロモン、つまり匂い物質でコミュニケーションするものが多いんだ。でも、今ふみちゃんが見ているジャノメちゃんも、もっと明るいところにいるセセリちゃんも、チョウだけど色は地味な茶色。逆に、大型のガのオオミズアオなんかは鮮やかなミントブルーだし、もっと派手な色柄のガもいる。これも例外が多すぎて、見分けるポイントとしてはあまり役に立たない。そもそも、ガにも昼行性の種がいるし、チョウにも夜行性の種がいる」
口ではわたしに説明しながら、手は忙しそうに、リュックサックの中から出した『撮影セット』を準備している。白いボウル、脱脂綿、薬品瓶、カメラ。道具は広げられたピクニックシートの上に並んだ。
「じゃあ、毒は? ガって羽の粉のところに毒があるんでしょ」
「ああ、その話ね」
ツクモはそりゃあもう嬉しそうに笑った。














