127 それぞれの道
「ああ、足がしびれた」
スエヨさんの姿が見えなくなると、ツクモは正座を崩して、フローリングの床に長く足を伸ばした。
「……ありがとう」
「何が?」
「田舎、めちゃくちゃでしょ。インターホンも鳴らさずいきなり窓から来て、ガンガン質問して、床にナス転がしてさ。でも、普通に対応してくれたじゃん。スエヨさんの夢を壊さない、礼儀正しい学者さん風の受け答えをしてくれて、真剣な顔で話を聞いてくれて」
「ああ、なんだ。おふくろの友達だって、あんな感じだよ。急に来て、ニコニコしてうわーって好きなことしゃべり倒して帰っていくんだ。中学生くらいの時に、民俗学の入門書を読んでて、あれは来訪神だと思うことにした」
「来訪神?」
「なまはげみたいな。いきなり来て、悪い子はいないかーってチェックして、問題なければそのまま帰っていく。ケーキとかくれるときもあるから、福の神の場合もある。変な集まりにお招きいただいちゃって、強制的に参加することにさせられて、疫病神の場合もある。でも、基本的に神様として対応しないと、後で、祟りがある」
「祟り?」
「おふくろに、すごいがみがみ怒られる。礼儀がなってないとか」
わたしは吹き出した。
「大体一緒だ。本当だね。うちもちゃんと対応しないと、郁子ちゃんは先週機嫌が悪かった、とか、最悪、蒔子さんのしつけが悪い、なんて集落で言われちゃったりするんだよ。でも、向こうにしてみたら親切で言ってくれてることばかりだし、ほら、今日の福の神はナスを持ってきてくれたし。何より、うちのお父さんの仕事は、ここに付き合っていかないと成立しないんだ」
「そうだね。本当に、そうだと思うよ」
ツクモはうなずいた。わたしもツクモに倣って、隣に座って足を長く伸ばした。
「でもね、ありがとう。ツクモはただ礼儀正しくしただけじゃなくて、話を一生懸命聞いてくれたでしょ。スエヨさんは本当に喜んでた。きっと、この先数週間、医院の待合室での持ちネタになるはずだよ。学者の先生とお話しした、こんなおばあさんの話も熱心に聞いてくれて、私が勧めた過去帳も調べるって言ってた、若いのに礼儀正しい子だったって」
「そうか」
ツクモはにこにこしてうなずいた。
「スエヨさんはこの辺では自他ともに認める文化人だからね。謙遜もしてたけど、羽音木のことを外の人に伝えるっていう話題には関わりたかったんだと思う。自分が世の中で何かの役割を果たしていると思えるのは、きっとすごく大切なことだよ。だから、その気持ちを邪険にしたりしないで、折らないでいてくれてわたしはすごくうれしかった」
実際、わたしはツクモの対応にちょっと感動すらしていたのだけれど、そのことを上手く伝えられているか分からなかった。
「お寺の文書に興味があるって言ったのは、別にその場限りのお世辞じゃないよ。神社文書や医院文書でわかったことを、別の史料でも確認できれば、研究の信憑性が高まるし、新しい事実が分かることもある。個人的には、築井紋成、あらため、紋修さんがお寺の記録にどう残ってるかも気になる。……それはそれとして、ふみちゃんにとって、森本さんはすごく大切な人なんだね。森本さんのために、そんな風にお礼を言うなんて」
「うん。わたしの祖父母は、わたしが生まれる前に亡くなったから、みんなが不憫がって、おじいちゃんおばあちゃんの代わりみたいにいっぱいかわいがってくれたの。スエヨさんも、量吉さんも。ツギエさん、トラさん、善三さん、昭さん。他にもたくさんいる」
わたしは窓越しに、木立ちの上に少しだけ見える空を見つめた。
「あのね、信じてくれなくてもいいんだけど。あの日、谷から帰ってきて、足が痛すぎて夜中ずっと、うつらうつら、寝たり起きたりだったんだけど」
「うん」
ちょっと怪訝そうに、ツクモは先を促した。
「窓の外に、見えた気がしたんだ。量吉さんが、にこにこして、ひとつ会釈して、それから、すっと離れていったような気がしたんだよ」
何か、見間違いの原因になりそうな昆虫の一つや二つ挙げてくるかな、と思っていたら、ツクモはさっきのわたしが見ていた辺りの、木立の上の方を見やって、静かにうなずいた。
「……信じるよ。それを見たのがふみちゃんだから。ふみちゃんにとっても大事な量吉さんが、蝶の神様に迎えに来てもらってあの世に行く日だったんだろう。リョウキのこと、心配してたのが解決して、お礼を言いに来たんじゃないか。オレが量吉さんだったら、きっとそうしたいと思うよ」
「ツクモ、科学者なのに、霊の存在を認めちゃうの?」
無条件に信じてくれたのが嬉しくて、でも、そう言うのがちょっと照れくさくて、わたしが茶化すと、ツクモは少し笑った。
「勘違いしている人が多いけれど、科学的な世界観と霊的な世界観は両立するんだよ。一つの現象を、違う方向から照らしているだけなんだ。霊的な世界観は、それはそれで、人間社会の中で深められてきた物事の理解のしかたなんだ。そこから発展している学問だってある。物事を理解するときに、その両方の見方を行き来できるのは強みなんだよ」
思いがけず、真面目な返答だった。やっぱり、ツクモはツクモだ。わたしが茶化したなんて思ってもいないのかもしれない。
「お父さんにはまだ言ってないんだけどね。やっぱり、神職、継ぐと思う」
するっと、言葉が先に口をついて出てきて、自分でも驚いた。あの日、夢の中で、後に伝えていくと芳さんに約束した。本当はその時に、気持ちは決まっていたと思う。でも、その事をはっきりと自覚したのはこれが初めてだった。
ツクモも目を見開いて、わたしを見た。
「そうなんだ」
「うん。他にやる人がいるならともかく、ここをやる人がいないのに、わたしが他所で仕事をしている図が想像できない。お父さんも、今は元気だけど、こうして何かあればピンチになる。だから、ちゃんと勉強しようと思って。大学出たら、他の大学に行き直さなきゃいけなくなるけど。今の文学部はやりたいことがあって入ったから卒業はちゃんとしたいし、その後ってことにはなるけど」
「うん」
「ごめんね。なんで、ツクモにこんな話してるのかわかんないけど」
「だから、ふみちゃんのその謎の謝る癖、やめようよ。オレは話してくれて嬉しかったよ。オレも、思ってたことがあるんだ」
「何?」
「ちゃんと会社の制度調べて、多分あるはずだから、会社に籍を残しつつ、大学院の社会人入学枠に入って博士号まで取ろうと思って。この業界でそれなりの仕事をしたければ、やっぱり目に見える形として学位は必要だって、この二年で身に染みてわかったし。世間知らずのおふくろに何か騒がれたところで、何が自分のやりたいことか考えたら、そういう形で長い目で見て会社に貢献できればいいじゃないかって思ったんだ。どうせ今は平社員なんだし、この際使える制度は全部使ってやろうかと」
「えー、いいじゃん! ツクモはちゃんとやれば取れるでしょ、きっと」
「これね、ふみちゃんのおかげなんだ。置かれた場所で、できることを全力でやるって、ふみちゃん言ってただろ。オレ、ほんとに自分は全力でやってたかなって思ったんだ。説明がうまくできないからって途中であきらめて、どこかで上手くいかないのを人のせいにしつつ、自分のやりたいことを棚上げしてたんじゃないかなって。今までもときどき、飯田さんにはそういうこと言われてたんだよね。でも、全然ぴんと来てなくて、正直うるさいなって思ってた。けど、ふみちゃんを見てたら恥ずかしくなった」
「そんな大したこと、してたわけじゃないよ」
真正面からほめられて、またちょっと照れくさい。
「まあ、これは、ふみちゃんがどういう気持ちでやってたかというより、オレがふみちゃんを見てどう思ったかの問題だから」
「そうか。じゃあ、お互いに忙しくなるのかな」
「んー、そんなに変わらないだろ。今までだって、仕事の合間に自分の研究してたわけだから、その時間を院の入試とかの準備にあてるだけだし。ここの調査は他の人に完全に譲る気はないけどね。面白そうだし、絶対関わりたいから、そのための時間はちゃんと確保するつもり。ふみちゃんだって、もともと予定してた就職活動が編入試験か入学試験の勉強に変わるだけじゃないの」
「そうか」
なんとなくほっとして、わたしは笑った。
ツクモが言うと、本当に、何とかなる気がしてくる。大それた決意とかじゃなくて、当たり前のことのように思える。
「本当は、もう一つ、言おうと思っていたことがあって」
ツクモは言いさして口ごもった。
「なに?」
わたしがうながすと、目をそらす。それなりに日に焼けているけれど、もともとは色白の、耳のあたりの肌が赤い。
わたしはそれ以上何も言えなくて、息をつめて、次の言葉を待った。














