126 窓を叩くもの
どんどん、と窓ガラスを叩く音。張り上げた声が聞こえる。
「あれ、郁子ちゃん、お客さんかい」
窓ガラスの向こうにいるのは、待合室三人娘にして、羽音木ゴシップ連絡網の中心メンバーの一人、ご意見番のスエヨさんだった。
この場合、わたしたちは家の中にいるんだから、『お客さん』なのは、後から来た訪問者本人だろう。でも、そんなツッコミが通用する相手ではない。
わたしはリビングから庭に面している、掃き出しのガラス窓のところに歩いて行って、サッシを開けた。けがした足をかばいつつ、ひざをついて、挨拶する。
「こんにちは、スエヨさん」
「お客さん来てたんだ。窓からで悪かったねえ」
ちっとも悪いと思っていない口調で言って、笑う。
この辺の人はまず玄関から訪ねてこない。うちのインターホンなんて押すのは、ツクモか押し売りか宅配業者だけだ。近所の人は、まず庭先に回って、居間を覗いて在宅を確認する。昔ながらの、縁側があったころの生活習慣の名残だ。プライバシーなんて言葉よりも、この生活習慣のほうが伝統が長いのだ。
生家が民宿を営んでいた母などは、この農村の習慣になじむのにしばらくかかったと言う。
「宮森さんとこは、今年、ナスがもうダメんなったって聞いたもんだからさ」
「ああ、畑の? うん。わたしもお父さんもけがのせいで水やりできなくて、その前からしばらく雨も降らなかったでしょ。気がついたらナスの畝、全滅しちゃってた」
家庭菜園で申し訳程度に作っている野菜の話である。
「ナスは水を食うからねえ。うちはまだ沢山とれるんだ。食べきれねえから、持ってきた。ほら」
スエヨさんは電動の歩行補助車のかごから大ぶりのナスを一抱え取り出すと、フローリングの上にごろりごろりと転がす。そのままスエヨさん自身も開いた窓のかまちに腰掛けた。
「はあ、疲れた。シルバーカーがいくら電動でも、ここは年寄りには坂が長すぎるねえ」
「電話してくれれば後で取りに行ったのに」
「まあ、ばあちゃんも暇だから。体動かした方がいいから」
ほんの一瞬前の発言とは矛盾したことを言うが、本人は気が付いていない。
「お兄さんも持ってくかい。無農薬じゃないけど、産地直送だよ。朝採りどころか、さっき採り」
部屋の奥に向かって言って、自分でからからと笑う。冗談のつもりらしい。
ツクモはきょとんとしていたが、呼ばれたと思ったのか、わたしの隣まで出てきて行儀よく座った。
「お兄さん、祭りの日に来てた学者の先生でしょ。郁子ちゃんのお供してた。あれも調査かなんか?」
色々の騒動は、基本的には集落の人には黙っていた。金山さんのことも、とりあえずこの辺をよく知らないままハイキングに来て道に迷い、斜面を落ちかけてスズメバチに襲われた人のようだ、くらいに説明したらしい。幸いというべきなのかどうか、外見から彼がれおくんだと気が付いた人はいないようだった。ツクモと飯田さんは、学術調査の一環で、ご神域の手前まで同行して見学した、ということになっている。
なんとなく事態が呑み込めてきた。スエヨさんは、八月にいったん中断したはずの調査が再開したらしいという話を聞いて、しかもツクモたちが祭りの日にまで来たものだから、調査がどんなものか自分の目で確かめたかったのだろう。それで、おそらく、ツクモがこの目立つ車で集落を通って神社に向かったのを見て、ナスを口実に様子を見に来たのだ。お客さん来てたんだ、なんて白々しく、ここに来て気づいたみたいに言っていたけど。
恐るべし、元気な高齢者の好奇心と行動力。
ツクモは状況がよくわからない様子のまま、猫を被って大人しく答えた。
「はい。今日は、今後の調査計画について、М市立病院で宮森さんと打ち合わせしていたんです。そのあと、郁子さんの怪我のお見舞いに」
「こちらはご近所の森本スエヨさん。スエヨさん、この人ね、調査に来てくれてる築井さんっていうの」
スエヨさんがどれだけ人の名前を覚えてくれる気があるかは未知数だったが、わたしは一応双方を紹介した。スエヨさんは覚える気がなければ、お兄さん、学者の先生、あの若い人、のどれかを使って会話を全部済ませてしまうだろう。
「調査って、郁子ちゃんがアルバイトするって、蒔子さんが言ってたのでしょ? この前、昔話聞いてたやつも? ほら、医院で」
「あ、その節はありがとう。そう、昔話の調査っていうか、神社の古い記録の調査と、あと、昆虫ね。虫捕まえるの」
わたしがざっくり応えると、スエヨさんは興味深そうに身を乗り出した。スエヨさんは集落の中では知識人的な存在だ。若いころはふもとの町まで下って書店勤めをしていて、社員割引で安く買えたのをいいことに、本をたくさん読むのが好きだったとよく言っている。今でも、新聞やテレビでニュースは欠かさずチェックしているし、目が疲れるとこぼしながらもお気に入りの作家の本は出ると必ず読んでいる。
「じゃあ、築井さんは大学の先生か何かかい?」
「違うよ。会社の研究所にお勤めなの。ほら、S市にツクボウの研究所があるんだって。そこ」
「ああ、ツクボウの人。じゃあ、浄雲寺さんにお墓があるねえ」
わたしは驚いた。
「スエヨさん、そんなこと知ってるの?」
「知ってるさ。十三年ごと、盛大にお年忌をするでしょう。お寺の大奥さんがまだ元気だったころ、ときどき、手が足りないときにはお茶を出したりする手伝いに行ったんだよ。今じゃ、若奥さんが全部切り盛りしてるから、行かなくてもよくなったけどねえ」
「七月に、その法事でここにきて、そのご縁で調査をお願いすることになったんです。じゃあ、うちも、森本さんにずいぶん前からお世話になってたんですね」
猫かぶりツクモがスエヨさんの目を見てにこにこすると、スエヨさんは目を糸のように細めて、嬉しそうにうなずいた。
「ここの築井さんのお墓は、明治以前のものですからね。そんな前のご先祖まで、年忌供養をするなんて、信心深いのはとてもいいことだってお寺の大奥さんもよく言ってたんですよ。大奥さんが元気だった頃にはね、お寺の倉の虫干しをやるっていうんで、手伝いに行ったこともありますよ。お寺にも、過去帳みたいなの、あったんじゃないかしら。気になるなら、私も声を掛けておいてあげるから、住職に頼んでみたら」
ツクモの調査は、蝗害の記録や、虫封じのお祭りの儀式みたいなのが対象で、さすがにお寺にある過去帳――明治以前の戸籍のようなものだ――は範囲外だろうと思って、ツクモをちらっと見たのだが、彼はスエヨさんをじっと見つめて、世紀の大発見の手がかりを聞いたみたいに重々しくうなずいた。
「機会を見つけて、住職にお願いしてみます」
「こんなおばあさんの記憶よりもね、お寺にある、書いてあるもののほうが確かですからね。まあ何のお役にも立てませんで、すいませんけどねえ」
「そんなことないですよ。こうしてお話を伺えて嬉しいです。お寺に記録があるってことも教えていただけたんだし、住職に伺うにも、森本さんのご推薦があるとありがたいです」
ツクモが言うと、スエヨさんは若い娘のように華やいだ笑い声をあげた。
「まあ、学者の先生は、やっぱり言うことがお上手ですね」
スエヨさん、話し方もいつもより方言が控えめで、かしこまっている。
知識人を自認するスエヨさんにとっては、若くてイケメンの『学者の先生』とお話ししている今の状況が、芸能人や有名人とおしゃべりする、みたいな、非日常のうきうきする出来事として受け取られているみたいだった。
もしかしたら、調査の話を聞いたときから、学者先生が羽音木に来るんなら、と楽しみにして、捕まえておしゃべりをする機会を狙っていたのかもしれない。
スエヨさんはひとしきり聞きたいことを聞いて、すっかり上機嫌で、また何か思い出したことがあれば教えてくれる、と言って帰っていった。