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昆虫オタクと神社の娘【完結済】  作者: 藤倉楠之
終章 祭りのあと
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125 オオミズアオのカード

 顔を合わせてしゃべるのは、あの祭りの初日以来一週間ぶりだった。翌日から、ツクモはもう、金山さんの対応や、チョウの分析の手配に忙しく動き始めていて、こちらに来る機会がなかったのだ。


 電話では何度も話していて、逆に、聞かなければならないその後の顛末などはほとんどそれで済んでしまっていたせいで、会話の切り出し口がわからない。


 わたしがとにかくコーヒーを注いで時間を稼ごうとキッチンに向かいかけると、ツクモが止めた。


「ふみちゃん、まだ、歩き回ると足が痛いだろ。座ってて。前借りたところのマグカップ借りていいよね?」


 わたしをダイニングテーブルにつかせると、二つマグカップをとって、コーヒーを注いできてくれた。


「淹れておいてくれたんだ。いい匂い。ありがとうふみちゃん」


 わたしの隣、ここで食事をとった時に自分が指定された椅子を引いて座る。普段はついついものを置きがちになってしまうその予備の席は、なんとなくわたしが片付けを続けて、先週からずっと、いつでも座れる状態のままになっていた。


 吾亦紅とバラのアレンジメントを置いただけで、いつものテーブルが何だか垢抜けて、初めてのカフェに来たみたいだ。わたしはどことなくそわそわした気分を抱えて、わずかな空気の動きにも反応して長い茎の先でゆらゆらと揺れる、小さな赤い鞠のような花を眺めた。


「大学、いつから?」


「今月の最終週から。夏休み、始まった時はあんなにあると思ってたのに、もう一週間しか残ってないよ」


 口を尖らせた私に、ツクモは笑った。


「結局、この妙な騒動で終わっちゃったことになるんだ」


「そうだよ! 来週、友達と行くつもりだった旅行もキャンセルしなきゃいけなかったしさ」


「旅行?」


 怪訝そうに聞き返された。


「由奈ちゃんと、学部の友達の女の子たちと、日帰りバスツアーでギャラクティック・スタジオ・ジャパンに行くつもりだったの。でも、この足でしょ。キャンセルするしかなくて」


「ああ、そうなんだ。それは残念だったね」


 にこにこしてやけに明るい口調で言う。

 全然残念だと思ってない。まあ、他人事だろうけど。


 わたしはテーブルの上に置いた箱からプリンを二つ取り出した。ついていたプラスチックのスプーンも添えて、一つをツクモの前に、もう一つを自分の前に置いた。昔ながらの卵の黄色が濃い生地に、針の先でついた点のように小さなバニラビーンズが散っているのが器のガラス越しに見える。


「あ、残りしまっておこうか。冷蔵庫開けてもいい?」


「じゃあ、お願いします」


 残りのプリンを冷蔵庫にしまったツクモは、何かを思い出したように、机の傍らに置いていた自分のバッグを探った。


「忘れるところだった。これ、預かってきたんだ」


 差し出されたのは、クリーム色の横長の封筒だった。普通の封書より少しだけ大きめ。バースデーカードやウェディングカードを入れるのに使いそうな、厚手の品のいい紙でできている。表書きにはわたしの名前だけが細いペンの丁寧な筆跡で書かれ、糊で封を止められていた。


「これは?」


「なぜか、リカさんから。わかる? ガラに来てたんだけど」


「うん。金山さんと一緒にいた人でしょ。高校生くらいの」


「そう。もう三年生になるんだったかなあ。職場宛てに、この封筒がさらに封書で送られてきて、ふみちゃんに渡してくれって一筆添えてあって。ふみちゃんに直接送りたかったけど、連絡先を知らないからって」


 わたしはカウンターの文具入れからペーパーナイフをとってくると、丁寧に封筒を開けた。


 中には、二つ折りにされたカードが入っていた。


 開くと、巧緻な切り絵細工のチョウのようなものが目に飛び込んできた。


「チョウ……じゃないね。オオミズアオ?」


「そうだね。細かい特徴もよく描写してる」


 わたしにカードを見せられたツクモもうなずいた。ブラシか鳥の羽のようにも見える触角が、繊細に切り出されている。リカさんのことを、評判が高まってきている切り絵アーティストなのだと言っていた金山さんの言葉を思い出した。


 オオミズアオは、カードの見開き右側半面にきれいにおさまってデザインされていた。左面には、表書きと同じ、細くて丁寧な筆跡で、メッセージが書かれていた。


『ガラの時には、大変なご迷惑をおかけしました。とっさの出来心とはいえ、あさましいことをしたと、反省しています。あの後からずっと謝りたかったのですが、言い出せずにいました。先日、令生さんからご連絡をいただきました。お怪我をされたと聞いています。早く良くなりますように。心より、謝罪をこめて、このカードを送らせていただきます。伊豆島梨香』


 イズシマリカさん。少しおどおどした、不安そうな様子を思い出した。髪が長くて、声音も少し細くて、たおやかな雰囲気の子だった。わけのわからないいさかいに巻き込まれて、わたしと彼女は、お互いにろくに紹介もしてもらっていなかった。名字すら今初めて知ったことに気がついた。

 突然の雨風に花びらをうたれて、当惑してすこしうなだれてしまった梨の花のような雰囲気だった彼女も、うちには激しいものを秘めていたことになる。あんな場面でなければ、年相応にもっと生き生きと笑顔を浮かべたり、はしゃいだりもするのだろうか。


 わたしはカードを畳んで封筒にしまった。


 高校三年生か。わたしが高校三年生の時、何か失敗をしたとして、こんな折り目正しいカードを自分で書けただろうか、と思う。そしてそれを、人に託してまで、届けるだけの筋を通せただろうか。


「これ、何かあったの?」


 怪訝そうな顔でツクモが尋ねたので、わたしは首を横に振った。


「もう、解決。デザインナイフ、梨香さんが落としたのが、たまたま机の足のひび割れに挟まりこんじゃっていたんだって。それにわたしがスカートを引っかけちゃったみたいなんだよね。気に病んでたんだなあ。わたしがそそっかしかったから、ツクモや島木さんにも心配かけて、悪いことした」


 わたしが盛大な嘘をついているのは、ツクモにも分かったと思う。梨香さんのメッセージとすら辻褄があっていない。梨香さんは「とっさの出来心」で「あさましいことをした」と書いている。うっかり物を落とした人が使う表現ではない。それに、落としてひび割れに挟まっただけのデザインナイフの刃に引っかけた程度で、スカートの生地に二センチもの切り込みを入れられるわけがない。


 ツクモの眉間のしわは深くなった。じっとわたしの目を見る。


 わたしは、精一杯の眼力で見返した。


「解決なの。梨香さんはこうして、お見舞いのカードをくれたし、スカートはお母さんが直してくれたから」


 しばらく、見つめあった後で、ツクモは静かにうなずいた。


「ふみちゃんがそう言うなら。島木さんにも、ふみちゃんがそう言ってたって一言伝えておくね」


 嘘もごまかしも苦手なツクモの、最大限の譲歩だ、ということはわたしにも痛いくらいわかった。ツクモに無用のストレスを負わせていることも。でも、今ここで、金山さんに聞いた梨香さんの話を、ツクモにわたしがすることは、間違っているような気がした。


 いつか、そうしたいと思えば、梨香さんがツクモに言うだろう。それまでは、他の人がいちいち言わなくてもいい、と思う。


「ありがとう」


 わたしが礼を言うと、ツクモはゆるく首を横に振った。


「なぜだかは分からないけど、むしろ、ありがとうって言わなきゃいけないのはオレの方だっていう気がする。こんなわけのわからない状況でそんな風に思うのは初めてなんだけど」


 わたしはこの一件で、知らぬ間に自分が色々変わったような気がしていた。もしかしたら、それは、ツクモも同じだったのかもしれない。


 沈黙が降りた。


「……食べようか」

「……あのさ、ふみちゃん」


 耐え切れなくなって、わたしが発した言葉は、ちょうど同じタイミングで何かを言いかけたツクモの声と重なった。


「なあに?」

「……ううん。食べよう。これ以上、ぬるくならないうちに」


 ツクモは神妙な顔でプリンのキャップに掛けられた薄い紙を止めている細い紐を引っ張って外した。


 二人とも、必要以上にぎくしゃくしていた。もっとしなくちゃいけない話があるのをはっきり知っていながら、そこにたどり着けないでいるのは分かっていた。でも、正直、何をどうしていいのやら、わたしにもさっぱりわからない。


 他にしようがなくて、わたしもプリンを開けて中身をすくった。

 ここのプリンはたまにお土産やおつかい物でいただく。あいかわらず、ぷるんと固めの生地にスプーンがもぐりこんでいく感触が楽しい。オーブンで湯煎焼きにして作るので、一番上の部分が、薄い膜のように少しだけ固く、味も濃くなっているのだ。底に敷かれたカラメルは大人好みの深煎り。


 小さいころは、ここのプリンは上の方だけ食べて、カラメルが出てくると残りは父に押し付けていた。父は、郁子はお子様味覚だから、といつも笑っていた。いつからか、カラメルも食べられるようになって、この苦いのがおいしいんだよ、なんていっぱしの口をきいてみたりもしたけれど。


 あの頃のわたしと、今のわたし。色々変わったようでいて、本質的には変わっていないのかもしれない。上澄みの甘ったるいところをすくってみたものの、全部を味わうところに尻込みしてたどり着けない。苦い経験をする可能性に怖じ気付いている。


 でも、それはもったいないことなんだろう。


 わたしと同じように押し黙ってプリンをすくう、隣の青年の顔をちらっと横目で見た。


 絶対、いつもと違う。緊張してる。さっきから落ち着きがなくて、いつも以上に用事を見つけて立ったり座ったり、そわそわしてる。そう思ったら、なんだか少しほっとした。


 わたしだけが空回りしてバカみたいに悩んでる、わけじゃない。多分。宇宙人みたいなぶっとんだ感性の人だから、何を考えてるかはわからないけど。


「あのね、ツクモ――」


 だが、言いかけたわたしの言葉は、思ってもみない邪魔によってさえぎられてしまった。





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ヘッダ
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フッタ

― 新着の感想 ―
[一言] さ、先に読んでおいて良かった(゜Д゜;) リカさんを二次創作でトンデモない女性にするところだった(ぇ それはそうと……プリンのように甘いこの空間が、カラメルのような苦みで上書きされちゃうの…
[良い点] 描写がほんと素晴らしくって、2人のぎこちなさがひしひしと伝わってきます。 う~、ドキドキする! 緊張感がたまらないですね。 次の更新がものすごく待ち遠しいです。 [一言] ふみちゃん、頑…
[一言] ツクモはやっぱり恋愛方面には不器用ですね。 人間、そう簡単に変わるもんじゃないですね。
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