123 魂の眠る場所(後)
ツクモは、背中にわたしを片手でおぶい、身体の前側にリュックサックをひっかけて、わたしの持っていた杖を使いながら器用に山道を下って行った。その足取りは安定していたし、塗り壁並みの体格の背中は広い。わたしは当初の遠慮をけろっと忘れて、すっかり安心してぐんにゃりとその背中にもたれかかりながら、話を聞いていた。
「飯田さんとしては、金山本人には別に縁もないし、そこまで面倒みる義理じゃないって最初は思ったらしいんだけど、鴻巣先生の研究室では以前もそういうことがあって、データの改ざんをした大学院生が、気に病んで自殺未遂を起こして辞めていったことがあったらしくて。鴻巣先生としては、それを反省して相当気を付けていたらしいんだけど、またこういうことがあったものだから、先生自身が心労でかなり消耗していたようだ。飯田さんは、どちらかというとその方が放っておけなくて、介入して丸く収められないかと思っていたみたい」
「飯田さん、兄貴肌だなあ」
「だよね。先生に恩義があるからって言ってた。でも、金山のことも、どうにかなったら気の毒だ、心底からは憎めない、くらいには思ってるみたいだったよ」
「うん。それは、ツクモが金山さんのこと、気にしてたせいもあるんじゃないかな」
飯田さんはツクモのことをすごく気にかけていた。金山さんに何かあったらツクモが辛い思いをする、と思った可能性はある。
「ツクモは? 金山さんと話をした?」
「いいや。オレは、すぐふみちゃんのところに戻らなきゃと思っていたから。金山の方も、その場で応急処置を受けたとはいえ、完全に良くなったわけでもなかったし」
ふと思い出した。あのとき、ツクモは金山さんを説得しようとして、彼に返さなくちゃいけないものがあるから上がってこい、と言っていた。
「ねえ、ツクモが金山さんに返さなくちゃいけないものって何? 言ってたじゃん。もしかして、これまでの借りだ! とか言って、一発殴ったりするの?」
「何それ?」
本当に意味が分からない、という様子できょとんとされた。
「過去の因縁が色々あるんじゃないの」
「だからって、オレが今あいつを殴ったってどうにもならないよ? それが借りって、何?」
当惑したように首をかしげている。
わたしと話しているときには、金山さんの方はだいぶひどいいじめをした自覚があるようだったけれど、受け手の方がこれでは、一事が万事、思いやられる。彼のしたことと、ツクモが受け取ったことには相当すれ違いがあったのだろう。
無数にあったはずの金山さんの嫌味や嫌がらせの何割かは、幸か不幸か、完全に受け止めそこねられて虚空に消えていたのではないか。完全に間違った手段や方向性だったとはいえ、コミュニケーションが虚空に消えてしまった十代の金山さんも辛かったのかもしれない。そこでそんな無駄なことはやめればよかったのに、彼はそのきっかけをずっとつかめないでいたのだ。
そして、全く意味も分からず、苛立ちや落胆といった、金山さんの感情の波動だけは受け取っていただろうツクモも、自分が何かしたせいなのかと気に病んだりもしたようだし、何割かの嫌味や嫌がらせはもちろん直撃で受けてもいたようだし、辛かっただろう。
「ごめん。ツクモがそんな比喩言うわけなかったね。返すものって、じゃあ、何なの?」
「令正さんの手帳。ふみちゃんパパに相談してたんだ。お父さんの形見だし、お祖父さんの量吉さんが拾ったものだから、あいつに渡すのが筋だろうと思って。M市立病院に一旦入院するみたいだから、また行ってくる」
羽音木山のフィールドワークの記録として、令正さんの手書きの字がびっしり書き込まれた手帳。確かに、誰が持つより、金山さん――れおくんか、お母さんの順子さんに持っていてほしい気がした。羽音木山と神社の不利益につながらなければ、だけれど、今日のごたごたを経たら、そこは、話し合いで解決できるのではないかという気がわたしにもした。
彼は、おそらく、話が全く通じないタイプの人ではない。相当こじらせたり、突っ張ったりしていたところはあるんだろうけれど、逆に、すべてが明るみにでて、誰が彼に心を砕いてくれていたかがはっきりすれば、変わるのではないか。
ツクモはわたしの重さをものともせず、かなりの早足で歩いていた。わたしたちはヒシの池を通り過ぎて岩の多い沢筋を下っているところだった。
「ねえ、ツクモ、被衣どこに置いて行ったの?」
「うん。今、まさに探してるんだけど。この沢筋でとって、風で飛ばないように石で押さえていったんだけどなあ。見ればわかる位置に置いたはず」
ツクモは首をひねりながら、辺りを見回したが、歩くのはやめなかった。
「とにかく、ふみちゃんを病院に連れて行くのが先だから。見つからなかったら、もう一度探しに戻ってくるよ」
「いや、そこまでしなくても。どうせ古いものだし」
「今見つかれば、それに越したことはないんだけどね」
だが、白い絹で目立つはずの衣は見つからないまま、神社の裏手に登る急斜面の、テーブル状の大岩のところまで来てしまった。動物にいたずらされて持っていかれてしまったのか。
「あれ」
ツクモが声をあげた。
「何?」
わたしが背中から尋ねると、ツクモはヒノキの杖をもった手で岩の上を指した。
「あんなところにある」
白いものが見える。目を凝らしてみると、確かに、わたしがツクモにかぶせた被衣だった。
「風で飛んじゃったのかなあ」
「けっこうしっかりした石で押さえてたんだけど」
ツクモは首をひねりつつも、わたしを岩の上にいったん下ろして座らせ、衣を回収しようとした。わたしはその様子を見ていたが、慌ててツクモを止めた。衣の上に、散っているものがある。
「待って、ツクモ。上に何か乗ってる」
「え?」
「これ、ほら」
一見、数枚の枯葉のようだったが、間近で見ると違った。わたしとツクモは顔を見合わせた。
「ふみちゃん、これ、七曜蝶だ」
産卵を終えたものか、白い衣の上で息を引き取ったようだった。羽を閉じて、優しい茶色の裏羽が見えていたので、はじめは落ち葉に見えたのだ。
「ツクモ、三角紙、持ってる?」
オオミズアオ事件の時に名前を聞いた、チョウの標本採集の時に羽を壊さず持って帰るための紙だ。
「予備が少しだけ」
昆虫採集用のリュックサックではない、と言っていた割に、やはり持っていた。このへんがツクモらしい。
「ここはご神域の外で、これはもう死んじゃったチョウだよ。標本として持ち帰ってもいいんじゃないかな。アレルギーについて調べるにしても、新種かどうか確かめるにしても、これがないと話が始まらないわけでしょう」
「うん、持って帰って、ふみちゃんパパに相談しよう」
ツクモは宝物を扱うように、そっと、チョウを一羽ずつ三角紙に入れた。全部で六羽――ツクモや金山さんの言い方なら、六頭分のサンプルが集まった。
わたしはご神域のほうに向かって手を合わせた。
「もしかしたら、谷の守り神様が分けてくださったのかも」
谷を守るお役目を自らに任じて御谷守を名乗っていた、芳さんと千香さんのような神様が。紋成さんも、愛する人と、その人が大事にしていた務めのことを思って、この地を守ってくれていただろう。そんな家族三人の魂が、この地にはきっと眠っているのだ。
「人の役に立つように使わないとね」
ツクモも神妙な顔をして、わたしに倣った。














