121 胡蝶の夢
もう、正直、踏切や所作に構っていることはできなかった。わたしは岩室の中にしまってあった手桶に、槽から蝶酒を汲むと、這うようにして酒舟石まで上がった。手桶の中身を酒舟石に空ける。とろり、と、広い底面に白く濁った甘酒のような液体が広がった。甘酒のふんわりした香りに混ざって、ミントのようなさわやかな植物性の香りがする。七曜蝶が幾羽も飛んできて止まり、ゼンマイのようなくちを伸ばして蝶酒を吸った。ひとしきり飲むと、その個体は飛び去り、また別の個体がやってきて止まる。
「明日と明後日、あらためて来るのは、無理だな」
わたしは独り言をつぶやいた。足が脳と直接接続してしまったかのように、ずきずきとした痛みがつむじの上まで駆け抜ける。辺りを見回して、れおくんを止めようとしてとっさに飛びついたときに落としたヒノキの杖を見つけた。
これで、斜面の往復が少しだけ楽になる。杖にすがってわたしは何度も蝶酒を汲んでは酒舟石に戻った。途中、一、二度転んで、桶の中身がこぼれてしまった。すると、その水たまりにもあっという間にチョウがやってきて、液体を飲んだ。一心不乱に飲んでいるチョウは、はたりはたりと羽をゆっくり広げたり閉じたりする。地味な裏面と色鮮やかな表面が交互に見えて、かわいらしかった。
うん。この子たちは、昆虫だけど、かわいいって言ってもいい。はじめて、ツクモの気持ちがちゃんとわかった気がした。
本来は三日かけて酒舟石に移す蝶酒を、気合ですべて移し終わるころには、わたしはほとんど気力だけで歩いている状態になっていた。どうしても三日間の神事が行えない時には、簡略版として一日で蝶酒を運ぶこともあったらしい、と、父に聞いておいたのは幸いだった。明日、ふたたび山道を戻ってきてこの重労働をするのはさすがに無理だろう。
酷使したせいか、止まりかけていた血がまた出ていたようだった。足元がぬるっと滑る感覚に下を見ると、右足の足袋が血で赤く染まっている。包帯とガーゼも、血でぐっしょり濡れていた。
わたしはなんとか岩室に戻ると、手桶と柄杓を片付けて、岩肌に寄り掛かった。
「少しだけ休憩」
疲れにこらえきれず、誰が見てるわけでもないしいいや、とばかり、地面の上にごろりと横になってしまった。
冷たい土が、頬に心地いい。
瞼が重くなる。今寝たらまずいかな。でも、少しだけ眠れば、ちょっとは体力が回復するかも。歩いて神社まで帰らなくちゃいけないんだし。
目をつぶるだけ。一瞬だけ。
目をつぶったとたんに、身体中の力が抜けていく。
あ。これ、ヤバいやつだ。試験勉強中によく、この状態になった。電池切れだ。一瞬が一時間とかになっちゃうやつ。
だが、抵抗する暇もなく、その次の瞬間、わたしの意識は泥沼の中に引きずり込まれるように消えていった。
◇
ふと気がつくと、暗闇の中だった。わたしは確かに不思議な声を聞いた。
『あやなりさま』
鈴を転がすような声だった。嬉しそうだ。
『あやなりさま、やっと、来てくださった』
誰? 誰のこと言ってるの?
わたしは辺りを見回した。闇の中で、白い衣がふわりと踊る。複雑なステップを踏んで、厳かに礼をする若い女の人がいた。
凛としたまなざし。
なぜだか、この人が宮守芳さんだ、と確信した。
『ずっと待っておりました。わたくしは先に行くけど、お千香をちゃんと見届けたら、紋成さまは来てくださるって思っていました』
違うよ。さっき来たのは、ツクモだよ。
芳さんの好きな紋成さまじゃない。残念だけど。
芳さんはずっとここにいたの?
わたしの心の声が聞こえたみたいに、彼女はこちらを振り返った。
落ち着いた雰囲気の、きれいな人だった。長い黒髪を、背中のあたりでゆるく結んでいる。
二十代の半ばか、もう少し上くらいだろうか。
『わたくしは、谷を守って、胡蝶の神様にお仕えしていました。胡蝶の神様は人が苦手で、近寄れば神罰がある。七曜神社のものしか、お世話ができぬのです』
こんな寂しいところに、ずっと、一人で?
『いいえ。紋成さまは、必要なものを持って、たびたび訪ねてくださいました。途中からはお千香がいたし、最期は、紋成さまとお千香が見守ってくれたから、寂しくも怖くもなかった』
白い衣の女性は、そっと顔の前で掌を合わせて、夢見るように微笑んだ。第一印象のしっとりと落ち着いた雰囲気とは違って、少女のような仕草だった。
『ここにいて、胡蝶の神様が好きな木をお世話して、お守りして、里の人たちの魂をお導きくださいとずっとお祈りしていたの。神社の者の、大切なおつとめです。わたくしが里でできることはもうなかったから』
みんな、あなたがいなくなって悲しんでいた。戻ってきてくれたらいいのにって思っていたんだよ。奥方様も、良順先生も、お寺の住職も、氏子のみなさんも。いつあなたが帰ってきてもいいように、ずっと、お祭りを続けていたんだよ。
『だから、お千香が戻れたのね。待っていてくださったから。わたくしは帰れなかったけど、お千香が帰れてよかった』
彼女はまた静かに微笑んだ。
胡蝶の神様にお供えする、蝶酒の作り方を考えたのは、芳さん?
『ずっと伝えられてきたことです。それを、もっとやりやすいように、胡蝶の神様に喜んでいただけるように、わたくしがさらに工夫して、お千香に伝えました。よく見ていたら、神様がお好きな木が分かる。そういうものを加えるようにして。そうして考えたことをお千香が、後継ぎに。そうやって、ずっと続くように』
そして、おじいちゃん、お父さんから、わたしまで伝わったんだね。
『さっきお供えしてくれたのは、あなたですね。わたくしの孫娘』
ひ孫のひ孫のひ孫のひ孫、くらいかなあ。前、数えてみたんだよ。
もう、大丈夫だよ。みんなちゃんと後に伝えていくから。
芳さんの大事な紋成さまは、どこにいるんだろう。
芳さんのむこうに、大きい白い影と、小さい白い影が見えた。近づいてくる。
大きい影はがっしりした肩幅のごつごつした姿だ。小さい白い影は、その胸下くらいの身長。
近づいてくると、武家の髷を結った男性と、小さな女の子であることが分かった。
『お芳どの。やっと会えた』
そういった男性の顔がやっとはっきり見えて、わたしは驚いた。五月人形みたいな切れ長の目。形のいい唇。表情こそ静かで穏やかで、よく動くツクモのそれとは全然違ったけれど、顔だちはツクモとそっくりだった。
芳さんははっとしたように振り返った。
『紋成さま』
駆け寄る。男性が手を引いていた小さな女の子が、芳さんに手を差し伸べた。
『お母さま。お迎えにきました』
『お千香ね。お千香なのね』
『はい。お母さまの娘の千香です』
千香と名乗った女の子は、全体としては少女の姿だったけれど、表情や身のこなしは七歳くらいの少女にも、若い娘にも、人生の苦労をいろいろ知った中年くらいの女性にも見える不思議な雰囲気をまとっていた。
『二人とも、どこにいたの』
『それがしは、ずっと、お芳どののそばにいました。隣に。お千香が連れてきてくれたのです』
紋成さんは、芳さんを見て微笑んだ。
『そうなのですか? ずっと隣に?』
『ええ。こうして、共にここを去れる日をずっと待っていました。参りましょう、お芳どの。母上も、先生方も、もう、あちらで待っておいでです』
『わたくし、ずいぶん、遅れてしまったのね』
『そんなことはありません。一瞬の、昼寝の夢程度の時間ですよ』
『それでも、長い間、離れていたような気がする。わたくし、お話ししたいことがたくさんあります』
芳さんも、紋成さんを見て、嬉しそうに微笑んだ。それから、幼い千香さんを挟んで、三人で、闇の向こうに消えていった。