120 やれるときにやれることを
ツクモはリュックサックから応急手当のキットを取り出すと、わたしに向き直った。
「傷、見せて」
わたしの装束は、ひざくらいまでをしっかり着重ねてあったが、足さばきの良いようにひざ下は薄い小袖一枚だった。そのせいか、右足の、ひざの横あたりからふくらはぎの側面を通ってくるぶしの近くまで、折れた枝に引っ掛かったらしい大きな傷があった。
「太い血管の損傷はないと思う。血は止まってきてる。でも、そこそこ深いから痛むよ。帰ってお医者さんに診てもらわないと」
自分の傷みたいに痛そうに顔をしかめながら、ツクモは封を切ったばかりのペットボトルからミネラルウォーターを傷口に注ぎ掛けて、細かい石や砂を洗い流した。
「ガーゼ、直接つけると張り付いちゃって取るとき痛いから、とりあえず病院で見てもらうまではラップね」
言いながら、リュックサックに入れていたらしい台所用のラップを引き出して傷口に貼り付け、その上からガーゼで押さえて少し強めに包帯を巻いていく。
「ツクモ、すごい手際いい」
「慣れてるから。山歩きしてたら、基本、自分たちで最初の手当しなきゃいけないからね。でも、自分じゃなくてふみちゃんがけがするのは絶対慣れないと思う。自分がけがするより百倍やだ」
口角を下げてぶつぶつ言う。
「……ごめんなさい」
「ふみちゃんが悪いんじゃないんだから、謝らないの」
包帯を巻き終えたツクモは、わたしがあっと思う間もなく、両腕でふわっとわたしを抱き寄せた。わたしの肩におでこをつけるようにして、小さい声で言う。
「もっと大変なことになってたらどうしようと思った。これで済んでよかった」
背中にふれる指先だけに力がこもって、わずかに震えている。
どれだけ心配してくれたんだろう。
わたしは目を閉じかけて、はっと見開いた。
ツクモの肩越しに見える、七曜蝶。どんどん、数が増えてきている。その動きに違和感があった。
わたしのまわりをふわふわと離れがたそうに飛んでいるやつ。これはいい。わかる。今、結構どきどきしてるし。
酒舟石のほうに飛んでいくやつ。これも、れおくんが言っていた通りだ。
だが、少なからぬ数のチョウが、谷の出口のほうに向かって飛んでいくのだ。全体の半分にも満たないが、決して無視できない数の、青と白の点滅。そこここに、茜色がひらめくのも見える。
「ツクモ。七曜蝶が」
ツクモはわたしの背中に回していた腕を解いて、辺りを見た。息をのむ。
「すごい。こんなにたくさん」
「まだ終わってない。済んでないよ!」
わたしは叫んだ。
さっき、れおくんと斜面の途中にいたときの光景が脳裏によみがえった。チョウはわたしとれおくんの周りを渦を巻くようにして飛んでいた。斜面から落ちる恐怖で感情的に高ぶっていたせいで、わたしの特異体質が呼んでしまっているのだと思っていた。
でも、それだけではなかったとしたら?
わたしの血は止まりかけている。れおくんはわたしよりけがが深く、傷の数も多そうだった。シャツの背中に大きく血がにじんでいた。その血の匂いに、チョウがつられてしまっているとしたら?
「チョウが谷を出ていっちゃう!」
ツクモもチョウの動きを観察していた。
「あいつと飯田さんについていってるんだ」
「わたし、神事をやらなきゃいけない」
わたしは立ち上がろうとした。体重を掛けると、足に鋭い痛みが走る。
「その怪我じゃ、無茶だ」
ツクモがあわててわたしを支える。
「ううん。やらないと、金山さんが死んじゃう。呼吸がおかしくなってきてた。チョウを呼び戻してやらないと。あの子たちがこんなにたくさん発生しているのは、去年のこの産卵期に人工的に作った餌をもらっているからだよ。お父さんが奉納したの。チョウは谷の神様だから」
「餌?」
「『蝶酒』。米と茶を発酵させて作る」
「アミノ酸か」
「だから、わたしが今年の分を奉納しないと、あの子たちは餌が足りなくて谷から迷い出てしまう」
宮守芳が蛇の目が淵で姿を消した年も、二年越しの記録的な不作で、米を使った神事ができなかった、と記録にあった。そのせいで、チョウは谷から迷い出ていたんだろう。そこに、刃傷沙汰があった。血の匂いと、宮守芳の放つ香気に引き寄せられたチョウは、蛇の目が淵に集まってきた。
「このまま、チョウに追いかけられ続けたら、いくら逃げても、れおくんの症状はひどくなる一方だよ。何とかしなきゃ」
チョウを呼び戻す。蝶酒を奉納する。れおくんをちゃんと人里まで連れて行ってもらう。
さあ。どうする。考えろ、郁子。
やれる人がやれるときにやれることをやる。置かれた状況で、最善を尽くせ。
わたしは頭から被っていた被衣を脱いだ。ゆったりとした大きな着物だ。
「ツクモ」
呼びかけて腕をのばし、わたしのほうに向きなおったツクモの頭の上からふわっとそれをかぶせた。
意表をつかれたのか、ツクモの動きが止まった。きょとんとした顔でわたしの様子を見ている。
場違いだと分かっていたけれど、わたしは微笑んだ。五月人形みたいに整った顔立ちだから、まるで、お芝居に出てきた、五条大橋で弁慶と出会った時の牛若丸みたいだった。まだ少年の牛若丸は、水干に被衣姿で出てくるのだ。ツクモ、すごく似合う。たぶん、わたしより似合うんじゃないか。
「おねがい、手伝って」
わたしはツクモの頭から被せたままの衣の両襟をつかんで、ぐっと引き寄せた。引かれて反射的に身をかがめたツクモの首のあたりに片手をかける。もう片方の手で、落ちないように被衣を掴んだまま、わたしは思い切り背伸びして彼の唇に自分のそれを重ねた。
唇を起点に頭のてっぺんからつま先まで、電気が走ったみたいに甘くしびれる感覚。
鼓動が一気に早くなる。
戸惑ったように身じろぎしたけれど、彼はわたしを止めたり身体を離したりはしなかった。おずおずと片手をあげ、大きな手のひらでわたしの頬にそっと触れる。耳の後ろに当たる指先の感触がくすぐったい。
ああ、大好きな人にキスするのって、こんなに嬉しくて、どきどきして、そわそわして、あったかくて、優しい気持ちになるんだ。いろんな気持ちがごちゃまぜになって、洪水のように一気に水位を増して、わっと胸の中にあふれてくるような気がした。心臓と胃がダンスでも踊っているみたいに、身体全体が落ち着かない。
耳元で、かすかな音が聞こえる。一つ一つは聞こえないほど小さいのに、何百何千と集まってきたチョウの羽音が重なり合っているのだ。顔のすぐそばをかすめて通ったチョウがいたのか、空気が細かく振動する。
思った通りだ。
「ありがと」
わたしは唇を離して囁いた。
「今、多分わたしが一番どきどきするのがこれだと思う」
ツクモのよく動く切れ長の目が、今は完全に驚きの表情でじっとわたしを見ている。
本当は、このままぎゅっと抱きついて、好きだよって言う場面だろう。でも今は、やらなくちゃいけないことがある。
「チョウ。戻ってきたでしょ」
「……あ! そういうことか!」
自分からは何度もハグしたりとかしたくせに、わかってなかったのか。
「わたしは神事をやらなくちゃ。ツクモは、飯田さんを追いかけて」
「でも、ふみちゃんのその足じゃ……」
わたしは最後まで言わせなかった。
「できるよ。こんなの、かすり傷だよ。わたしがやらなきゃ、やる人がいないもん」
足もとで、何かが引っ掛かった。見ると、応急処置セットを出して、ファスナーを開けたままになっていたツクモのリュックサックだった。わたしの足が当たって倒れた拍子に、中から飛び出したものをみて、わたしは目を見開いた。
「ツクモ、虫除守持ってきたんだ!」
ジップ付きの袋のなかにあったのは見慣れたつづれ織りの古風なお守り袋だった。ツクモが分析用と自分用に二つ欲しいと言ったとき、虫が捕れなくなっちゃうからいらないでしょ、ってわたしはからかった。それに応えて、ツクモが、何かの役に立つかもしれないからねって言った、あのもう一つだ。
「最高。これ持って、飯田さんを追いかけて。これがあれば、チョウが多少追いかけてきたとしてもよけられる。飯田さん一人で、ぐったりした大人の男の人をかついだままで、沢筋の大岩から神社の裏手のところの斜面を上がるのは危ないよ。ここはわたしがやるから、ツクモは飯田さんと一緒にれおくんを助けて」
「うー、でも、ふみちゃんが」
被衣の下で、ツクモの目に、葛藤の色が浮かぶ。
「友達なんでしょ。今でもツクモは本当はそう思ってるんでしょう」
彼は息をのんだ。
「本来すべきこと以上に何かをしてあげたいと思ったら、友達だよ。ツクモはさんざん意地悪されて、大事な資料を盗まれて、あの人に何もしてやる義理はない。それでも、あの人の何かを信じたかったんでしょう。このまま死んじゃったら、辛いんでしょう。それだけで、友達の理由なんて十分だよ。それに、あの人はわたしを助けて、斜面を上げてくれた。自分が落ちかけても」
「確かにあの時、オレはあいつに恩に着るって言った」
ツクモは頭から被せられたままの白い衣の下でうなずいた。
「わたしも、助けてもらった借りがある。だから、わたしの分まで、おねがい」
七曜蝶は次々に集まってきていた。はたはた、はたはたとわたしの周りを飛び回る。
「その被衣をかぶったまま、チョウが少ない、鱗粉がかからないところまで行って。目立つところに置いておいてくれれば、わたしが帰りに回収する。れおくんの所に行くときには、鱗粉はできるだけ身体についてないほうがいいでしょう」
「ふみちゃん、すごい。今日すごく冴えてる」
感嘆したようにツクモが言ってくれたので、わたしは胸をはった。
「でしょ。たまにはわたしだって、いいところ見せないとね。さあ、お互い、やることやろう!」
ツクモはもう一度、わたしの目を覗き込んだ。
「ふみちゃんが、たまになんかじゃなく、いつも頑張り屋さんなのは、とっくに知ってる。オレはふみちゃんのいいところしか見たことないよ。もう一度、絶対迎えに来るから、無理はしないで」
何か言葉で返事をしたら、ギリギリで張りつめている糸が切れて泣いてしまいそうで、わたしはただうなずいた。
本当は足はめちゃくちゃ痛いし、うまくできるかわからなくて怖い。でも、やらなくちゃ。
わたしがじっとしていたらツクモは行かないだろう。
「じゃあ、始めるね」
わたしは極力足の痛みを見せないように、岩室に向かって歩き出した。
「オレも行ってくる」
ツクモの言葉を背中で聞いて、わたしはげんこつを握って空に向かって高くあげた。














