119 急斜面
「ツクモ!」
わたしが叫ぶのと、れおくんが苦しそうな大声を上げるのが同時だった。
「文史朗! 早く宮森を! そこらにスズメバチがいるから気をつけろ!」
谷の入り口のほうから、木立ちの間に、走るように道を急ぐツクモの姿が見えた。
「金山! ふみちゃん!」
ツクモもわたしたちの姿を見つけたのだろう。再び声を上げる。
「文史朗! 宮森は足を怪我してる。早く走れないから、おまえが連れて離れるんだ! 香の煙で、ハチは深追いしてこないはずだ!」
れおくんは必死で叫んでいた。七曜蝶の群れは、渦を巻くようにわたしたちを取り囲んでいた。れおくんの呼吸音がやけに耳についた。ぜいぜいと喉をこするような音。
わたしははっとした。
七曜蝶は、散虫香が焚かれているから、獣道のところまで上がりたがらないんだ。そして、緊張状態がマックスのわたしがここにいて、チョウたちを引き寄せている。だから渦を巻いているんだ。
れおくんは明らかに息が苦しそうだった。怪我のせいだけだとは思えない。チョウのアレルギー症状が出てしまっているのかもしれない。
こんな特異体質、何が何でもコントロールしてやる。わたしが感情をコントロールできなかったせいでれお君の具合が悪くなるなんてだめだ。
何か、何かわたしにできること。
わたしは、とっさに、心の中で七の段を唱えた。七九、から始めて、逆順に。なるべく丁寧に。
れおくんはわたしにはさっき謝ってくれたけど、ツクモやお父さんにごめんなさいもまだ言ってない。自分のしたことの結果に向き合ってもいない。言うべきことを言わないうちに、倒れさせてなるものか。まだたったの二十四歳なのに、詰んでるとか、もうどうなってもいいなんて、おかしい。量吉さんは、かわいがっていた大事な大事なれおくんに、絶対そんなことは許さないはずだ。してしまったことはきちんと謝って、もう一度やり直せばいいのに、こんなところで諦めさせてたまるか。
胸郭の中で暴れくるっていた鼓動が、少しずつ、トーンダウンするのを自分でも感じられた。けれど、チョウの群れは一向に減らないどころか、ますますその密度を濃くしていた。谷底から、どんどん上がってくるのだ。
「ふみちゃん!」
ツクモの声だ。近い。駆けてくる足音も聞こえた。れおくんがさっき言ってた通り、足はけっこう速いんだ。もう、来てくれた。ツクモ最高。
「ここ! 斜面の下!」
わたしは叫んだ。
斜面の上からツクモの顔が覗いた。
「ふみちゃん! 金山、やっぱり来ていたんだな」
「文史朗、彼女を引き上げろ。下から支えるから」
かすれた声で彼は言った。
「恩に着る。ほら、ふみちゃん掴まって」
ツクモは斜面の上、獣道のところに腹這いになって、近くに生えていた木の根本を片手でつかんで身体を安定させると、わたしに向かって手を伸ばした。
「ダメだよ、金山さんの方を早くしないと、チョウがどんどん来てる」
わたしは慌てて言った。
「うん、だから早く、ふみちゃん」
ツクモはなおもわたしに向かって手をさしのべたまま言った。穏やかな、言い聞かせるような口調だった。
「ふみちゃんを引き上げないと、金山に手が届かない。ね、落ち着いて、ふみちゃん」
そうだ。わたしの方が上にいるんだ。落ち着こうとしたけれどやっぱりパニック状態だったのかも。
わたしは両足をぎゅっと踏ん張って、右手でつかんでいた上方の枝をそっと離し、その手でツクモの手に掴まろうと必死に伸ばした。れおくんは、わたしの左の上腕部のところをつかんで、斜め下から支えてくれていた。ツクモの手まで、あと少しなのに届かない。ツクモがぎりぎりまで手を差し伸べた。
「スリーカウントで受け取れ!」
れおくんが唸るように声をあげた。有無を言わさず、カウントをとる。
「いち、……に、さんっ!」
さん、で、彼は掴んだわたしの腕に力を込めて、上に放るように押し上げた。上に向かって伸ばしていたわたしの右手をツクモがはっしとつかむ。次の瞬間、ずるり、と土が滑るような音がした。はっとして振り返ると、れおくんがさらに数十センチ、斜面の下に向かって滑り落ちかけたところだった。わたしを押し上げた反動だろうか。
「れおくんっ」
わたしの悲鳴に、れおくんは顔を上げてわたしをにらんだ。
「何してる、早く上がれ」
「ふみちゃん、こっち見て」
ツクモがわたしに声をかけると、腕一本の力で思い切りわたしを引き上げた。わたしもとっさに自由になった左手を伸ばし、触れた木の根をつかんで、身体を上に持ち上げる。次の瞬間、わたしは獣道に転げ込んでいた。
助かった、と思う間もなく、わたしは斜面の下をのぞき込んだ。れおくんの顔色は蒼白だった。チョウは次から次へと無数に飛んできている。もう、散虫香のことなんか気にしていられない、という勢いで、辺りをつむじ風みたいにぐるぐる、飛び回っていた。スズメバチは、七曜蝶のあまりの数に圧倒されたのか、いつの間にか辺りから姿を消していた。
「ツクモ大変なの、れおくん怪我してる、呼吸もおかしいの」
わたしはツクモの袖をつかんで早口で言った。
「わかった。宮森さん、下がって。助けるから」
すぐに応じたのは飯田さんだった。下からは見えなかったけれど、ツクモがわたしを引き上げたとき、ツクモまで落ちないように支えていたらしかった。
「モンシロ! ロープ持ってきたか!」
「ザイルがある」
ツクモは急いで自分のリュックサックを下ろして、頑丈そうなロープを取り出した。
飯田さんがすかさず伸ばしてチェックする。
「これじゃ足りない。何か、継げるものないか」
「今さがしてる!」
不安をかみ殺すように奥歯を食いしばって、ツクモが応じる。なにか代わりに使えるものを求めてだろう、その視線が左右をさまよう。
「ツクモ、岩室の中! れおくんのザックにもザイルがある!」
「わかった!」
わたしの一声に、ツクモははじかれたように立ち上がると、岩室に駆け込んだ。
飯田さんはツクモからザイルを受け取ると、先端についているクリップみたいな金具をぐいっと引っ張ったり、巻いてあった部分をほどいて全体を改めたりして、簡単に強度を確かめた。
「二本か。かえってちょうどいいな」
飯田さんはツクモのザイルのクリップを自分のベルトに繋いだ。片端を丈夫そうな立木の幹にくるっと巻いて、手際よく結わえる。飯田さん自身のための命綱ということか。もう一本は、片端を同じように立ち木につなぐと、残りのロープを巻いて肩に掛けつつ、身軽に斜面を下り始めた。迷いのない、確実な手足の動かし方だった。
「飯田さん、なんで、ここに」
れおくんはあえぐような息の下からいった。
「おまえに用があったからに決まってんだろ。寝ぼけたこと抜かすな。メールで連絡しろって、島木さんからメモ渡してもらってただろ、ばっくれてんじゃねえ」
飯田さんは最高に口汚く悪態をつきながら、れおくんの傍らまで降りた。
「やめてくれ。宮森はもう助かった。これ以上間違えなくて済んだんだ。飯田さんを危険にさらしてまで助けてもらう価値なんて僕にはない。僕はもうこのまま落ちた方がいいんだ」
絞り出すように言ったれおくんの首根っこをがっちり押さえこんで、飯田さんは吠えた。
「血迷ったこと言ってんじゃねえよ。ここは宮森さんちの神社の裏山で、おまえが行方不明だの転落事故だの起こせばとんでもなく迷惑がかかる。それに、研究不正をしてた指導院生がまた音信不通になったあげくに消えでもしてみろ、鴻巣先生は今度こそ立ち直れなくなる。おまえは知らねえだろうが、今だって何年も病院通って薬飲んでやっとよくなってきたところなんだよ。価値がなんだ。てめえの甘ったれた感傷なんぞ知るか! 勝手な真似は許さん。つべこべ言わずとっととお縄に掛かりやがれ」
研究不正? また音信不通? 耳慣れない単語がぽんぽん出てきて、わたしは混乱した。
「飯田さん、それじゃあヤンキー通り越して、もはや岡っ引き」
ツクモは飯田さんに容赦なくつっこみを入れてから、金山さんに向き直った。
「リョウキ、上がってこい。オレも、君に返さなきゃいけないものがあるんだ。それに、このまま君が下に落ちたら、その説明をおふくろとより子さんにするのはオレだ。おふくろは君を気に入ってるから今度こそオレは八つ裂きにされる。その上より子さんに泣かれてみろ、オレはまったく手も足も出ない。超苦手分野を押し付けていかれても、どうしていいかわかんないよ。勘弁してくれ」
ツクモのお母さんと、自分の母親の名前を出されて、れおくんはひるんだようだった。
「おとなしくしてろ。おまえが暴れて俺が落ちたら、それこそこっちだって妻子が泣くんだよ」
ダメ押しのように飯田さんは凄むと、金山さんのわきの下にザイルを通してしっかり結んだ。今度は、彼も抵抗しなかった。
「モンシロ、上げろ!」
ツクモが両手でザイルをつかんで、渾身の力で引き上げた。飯田さんも下から押し上げる。二人がかりでどうにか引き上げたれおくんは、力なく獣道に横たわった。
その周りをふわりふわりとチョウが飛び回る。
「とにかくこいつ、連れてくぞ。モンシロ、スマホに電波入ってるか」
ツクモは首を横に振った。
「救急車は電波入ってからか。集落の医院に、アレルギー発作用の注射薬くらいあるだろ。とにかく急ぐ。ここじゃ埒が明かない」
飯田さんはぐったりしたれおくんをおぶうように担いだ。
「あ! あります。あるはずです。医院に薬。集落の中に、スズメバチのアレルギーを持っている人がいるんです。いざというときのために、院長先生はきっと、緊急時の薬、ストックしているはずです」
慌てて言ったわたしに、飯田さんはにやっと笑って親指を立てて見せた。
「よし。ならとにかく、集落の医院だな。神社まで行けば車も使えるだろう。モンシロ、そのザイルで固定して」
言われて、ツクモは急いで立ち木からザイルをはずすと、それで飯田さんの背中にれおくんをくくりつけた。
「先に行くぞ。おまえはまず宮森さんの足の手当」
飯田さんはツクモに言うと、ゆっくりとだが、確実な足取りで歩き始めた。














