116 ガチオタの虫屋
金山さんはチョウを追って、酒舟石を乗り越えた。あと一歩近寄れば、再びチョウは飛び立ってしまうだろう、という間合いで、金山さんは足を止めた。わたしもそっと近づいた。
羽を畳んでとまったチョウのかすかな重みで、細い枝先が揺れている。モンシロチョウよりはやや大きいが、アゲハチョウよりは小さい。あたりの景色に溶け込むような淡く優しい茶色の濃淡で彩られた羽のふちあたりに、小さく並んだ斑点が見えた。こうしてみると、地味で目立たない。飛んでいるときだけ、あの鮮やかな色が見えるのだ。
『遠目には光の玉が点滅しているみたいに見えるはずだ』と、ツクモがいつか言っていた言葉が耳によみがえった。
古文書にあった挿絵どおりだ。令正さんのフィールドノートのとおり。
七つの星をもつチョウ。
金山さんは魅入られたようにそれを見つめた。
「やっぱりいた。……夢じゃなかった。また会えた。本当にいたんだ」
ずっと会えなかった大切な人に会えたときのような、ささやくような声音だった。
本当に好きなんだ。
この人も、このチョウに会いたくて会いたくて仕方がなかったんだ。
「れおくんはあの日、このチョウを見たんだね」
「そうだ。こんなもんじゃなかった。もっと、枝が折れるんじゃないかと思うくらい、いた。次から次に集まってきたんだ。想像できるか。羽の音が聞こえるくらいになるんだ。普通、チョウ一頭一頭の羽の音なんて、聞こえないだろう。それが、何かの加減で、一枝に止まっていた何百頭ものチョウが一斉に飛び立つと、ふうっとため息みたいな音がする。この山の名前が羽音木なのがわかる気がした」
途方もない光景だ。
ツクモもここにいて、今の話を聞いていたら、なんて言うだろうか。目をキラキラさせて、『絶対見たい!』って騒ぐだろう。もっと金山さんに話をせがむだろう。『ここで待っていたら見られるかな』ってうきうきして言うから、わたしが『ご神域だよ』って叱らなくちゃいけなくなるだろう。
「れおくん、本当にツクモとおんなじ。ガチオタの虫屋だね。もっと仲良くなれると思うのに。ツクモはれおくんのこと、友達だって、まだどこかで思っていると思うのに」
怒ったり、イライラしたりした顔は見せるけど、最後まで、島木さんに全部任せるから徹底的にやっつけろ、とは言わなかった。自分で何とかしようとしていた。証拠が一つずつ集まって、それが金山さんを指し示し始めたころから、怒っているというより、物憂げに考え込んだり、悲しい顔をしているときが増えていった。
今だってそうだ。池のほとりで、じっと、物音に耳を澄ませているはずだ。わたしを心配していると言っていたけれど、同じくらい、この人がやけを起こして取り返しのつかないことをしないか、心配しているはずだ。
そんなわたしの思いとは裏腹に、彼は呆れたように小さく鼻を鳴らした。
「そんなわけあるか。今回の件だけじゃない。今までもずっと、僕はあいつが嫌がることをし続けてきた。陰に陽に、しつこく、嫌がる顔を見るためだけにちょっかいを出したことだって数知れない。それでもまだあいつが僕のことを友達だと思っているなら、あいつは底抜けのお人好しだ」
「なんでそんなことしたの。ツクモは自分ではあまり友達がいないと思っているみたいだった。普通にすれば、仲良くできたのに」
「普通になんて、できるか? あいつは、僕の持っていないものを全部持っていた。家族も、学力も、才能もある。運動だって、足が遅くてボール投げもろくに飛ばせない僕よりは、十分人並みにできてた。まあ、あいつは恵まれた体格のわりに動きが妙にぎくしゃくしているし、人と意思疎通するのが苦手だから、球技なんかは結構ひどくて、運動がものすごく得意な方ってわけでもないだろうが。生まれたときから大事に育てられてきて、周囲の大人もみんなあいつをかわいがっていた。誰かに後ろ指をさされた経験なんてなかったはずだ。ここでの小学生時代を知っているんだから、僕がどんなにひどかったか、宮森ならわかるだろう」
わたしはちょっと顔をしかめた。たしかに、小学生の頃のれおくんは、鬼ごっこで鬼になればなかなか抜け出せず、木登りもそんなに早くなくて、男の子たちのからかいの的だった。やっている方はふざけているだけのつもりでも、れおくんの自尊心は周りが思っている以上に傷ついていたのだろう。
ここにいたときから、彼は多分、学習面では人並みよりよほどできたのだろうと思う。ツクモと同じ、ということは、おそらくはとんでもなく高い偏差値を誇っていたであろう私立の中高一貫校に、彼もきちんと合格していたことからもそれは分かる。六年生の九月なんていうぎりぎりの時期で受験勉強を始めたというハンデを負っての中学受験は、金山家の財力や人脈でいくら下駄をはかせてもらえたとしても、決して楽なものではなかったはずだ。学校だって、入学してから落ちこぼれるような生徒はとれないだろうし、実際に彼は落ちこぼれたりせず、大学受験にも成功してみせた。
だが、その能力は羽音木ではおそらく正当に評価されていなかった。山の暮らしでは、とかく学力よりも体力面が優れているほうが、周囲の子どもの尊敬を得られやすいのだ。
お年寄りたちの中には、未婚の母だった順子さんのことを口さがなく言う人もいた。そんな空気を敏感に察した一部の子たちからは、ちょっと距離を置かれがちだったりもしたのだろうか。わたしは学年もずいぶん離れていたから当時は気づかなかったけれど、今になってみれば十分想像はできる。勉強ができることを妙にやっかまれたり、鼻にかけていると非難され、逆に苦手な運動面をことさらにあげつらわれた経験もあっただろう。
神社の娘として周囲からは少々の遠慮や気遣いとともに扱われ、運動も勉強もまあまあ人並みだったわたしと、得意なことと不得意なことの差が大きく、周囲で好意的に見守ってくれる人の少ない彼とでは、この田舎の生活が全く違って見えただろう。わたしが彼よりも優れていたことなんて、実際にはほとんどない。ほんのちょっとした初期条件の差が、坂道を転がる雪玉のようにどんどん大きくなっていってしまうことが、世の中にはあるのだ。
わたしは、喉の奥に重い固まりが詰まったように感じて、何も言えなかった。
彼は、そんなわたしの様子などまったく意に介していないように、淡々とした口調で続けた。
「金山の祖父は僕が文史朗に負けるのが許せなかったし、僕は僕で、周囲には苦労を悟らせずに、金山家での生活や学校での付き合いについていこうと必死だった。苦労しているなんてばれたら、またどうせ、見下されるに決まっていたから。だからといってもちろん、そのストレスをあいつに向けて、嫌がらせばかりしてきた自分の行いを正当化できるとは思っていない。全面的に僕が悪い。けれど、あの時、違った態度を取れたかと言われれば、そんな風には思えない」
彼はじっとチョウを見つめた。はたりはたりと、チョウは静かに羽を広げたり閉じたりしていた。そのたびに、白と群青と茜色の表羽が木漏れ日にちかちかと光るように見えた。
「いつだって、文史朗を見て、あんな風になれればいいと思っていたんだ。率直で熱心で、僕がいくら嫌なことをしても次の瞬間にはひょうひょうとして他のことで笑ったりしていて。僕の仕掛けた嫌がらせなんてあいつは半分も認識していないんじゃないか。嫌味を言われたとも思っていなかったりして。そのたび自己嫌悪が募って、結果、次にもっと手ひどい嫌がらせをしてしまうんだ。自分でも、本当に嫌な奴だと思っていた。やめたかった」
分かるような気がした。ツクモはいつも、どこまでもまっすぐで素直だ。周りにいると、その純粋さに、あれこれ不純なことを考えてしまう自分が情けなくなることはあると思う。
「いつだって自分が嫌だった。変わりたい、こんなことはもうやめたいと思っていて、なのに変われないのが一番嫌だった。おまえを山の中において帰ったあの時だって、それがどんなにひどいことか、わかっていた。なのに、どうして、いつも僕は間違えるんだろう。どうして、正しいほうを選べないんだろう。怒られるのが嫌だとか、そもそも周囲が悪いんだとか、環境のせいにして、目先の楽な道を選んでずるずると流されてしまうんだろう。そんな弱さが自分で許せなかった。もう僕は詰んでいるんだ。飯田さんのメモをもらって、やっとわかった。どこにも行けない。消えるしかない。その前に、ここに来たかった」
飯田さんのメモ?
島木さんが渡したあれか。みんなで首をひねった。なんだか、さっぱりわからない。
ほとんど、独り言のような言葉だった。けれど、その切迫感には否が応でも気づかずにはいられなかった。
最初に出会った日から今まで、彼から発せられていた、苛立ちや憎しみや執着の波動は、チョウが一羽一羽増えてくるごとに、はたりはたりと浄化されて、真っ白になって、消えていくようだった。そのすべてが消えてしまって、この自己否定と虚無感だけが彼に残ったら、彼はどうなってしまうのだろう。
わたしの記憶に、ふと、先ほど彼が岩室の中に無造作に転がしたリュックサックの映像がフラッシュバックした。ザイル。登山用のロープだが、クライミングを楽しむような岩場もない、ごくごく普通の里山に、なぜそんなものを持ってきたのか。
背筋を冷たいものが駆け下りた。
本来、命を守り、つなぐためのロープ。だが、彼の意図はその逆ではないのか。
もし、このチョウに会うという願いを遂げた後で、彼が死ぬつもりだとしたら。
それは、彼自身の終わりというだけではない。身体が弱いという順子さんを、その事実は内側からむしばむだろう。ツクモのやっと友達付き合いに開きかけたばかりの繊細で傷つきやすい心をこわし、晩年の孤独にも耐え抜いた量吉さんの切なる願いをむげにしてしまうだろう。わたしや父は、平静な心でこの山を歩くことは二度とできなくなるだろう。それは、わたしのあずかり知らぬ人まで含めれば、彼の身の回り十人以上を巻き込む破滅のはずだ。
それだけは、させてはならない。
いてもたってもいられなくて、わたしは必死で考えた。この人を、こちらの――理性と人間関係の世界に繋ぎとめることは何だろう。
とにかく、話しかけ続けるしかない。
わたしは極力平静な口調で、最初に思い浮かんだ疑問を口にした。
「子どもの頃にこのご神域に来たんだよね。でも、今になってもう一度、ここのことを気にするようになったのはなぜ? なぜ今年、こんな無理をしたの?」














