115 祭りの日の記憶
「いつ、ここに来たの?」
「小六の秋。祭りの日。ヒシの池の近くの藪の陰に隠れて、秀治さんが帰って誰もいなくなるのを待っていたんだ。それで、道なりに進んで行ったら、チョウが現れた。何頭も何頭も。みんな谷の奥に向かっていた。それを追っているうちに、ここにたどり着いたんだ。この辺の木の枝がチョウの重みで枝垂れるほど、たくさんのチョウが集まってきていた。今日はまだほとんどいないけれど」
「れおくん、見たんだね。チョウを」
「見た。でも、捕まえられなかった。網を取りに戻ろうとして、ヒシの池まで戻ったとき、祖父に出くわしたんだ」
「なんで、量吉さんがそんなところに?」
「留守番をしているはずの僕がいなくなったのに気がついて、ひとりで探していたんだ。おまえが山から帰れなくなったあのときから、祖父はずっと、僕がご神域に入ったのではないかと疑っていた。何度も問いただされた。本当に入っていなかったからそう答えていたのに、何度も何度も、繰り返し。だから、その時も、真っ先にご神域を疑ったんだろう」
彼は酒舟石に腰掛けた。ひどく不遜な態度のような気がして、わたしは背筋を冷たいもので撫でられたようにぞくりとした。彼は遠くを見るような目になって続けた。
「僕は別に、おまえと山に入ったころには、ご神域にさほど興味があったわけじゃなかった。もうちょっと先まで行けばたくさんセミがいるかな、とうっすら期待することはあったかもしれないが、わざわざ入ろうと思っていたわけじゃなかった。だけど、祖父さんがあんまり疑うんで、うんざりしてきたんだ。いくら言っても信じてもらえないし、そもそも、ご神域ってなんだよ、という気持ちが強くなってきていた。しだいに、御鈴祓いのお囃子の練習にも行く気がしなくなった」
「それで、練習を途中でやめちゃったの?」
母は、れおくんがわたしを置き去りにしたことを周りに咎められて、気兼ねして来づらくなっていたのでは、と案じていたのだが、真相は、ご神域に入ったのではと疑われてしつこく問いただされたことに対する反発心だったということらしい。
「もともと、普段から女顔だとか、太っているとか、足が遅いとかで、散々からかわれていた僕にとって、あの装束と化粧は全く気乗りがしなかったんだ。どうせまた笑われるにきまっていた。祖父と母に言われて当初は練習には参加していたけれど、もう、何もかも嫌で仕方なくなっていた。祭りも、この集落も、何もかも。それで、一番禁忌が強くなる祭りの日、みんなが忙しくしている隙に、いっそ本当にご神域の中を見てやろうと思ったんだ」
なんというすれ違いだろう。量吉さんはきっと、彼のことがただただ心配で仕方がなかったのだ。けれど、その案じる心は、孫のれおくんには伝わらなかった。
「ヒシの池のほとりで、祖父は幽霊でも見たような顔でご神域から出てきた僕を見た。最初から疑っていたくせに、信じられないという様子だった。それから、ひどく叱られて家に閉じこめられた。そんなことをして、顔が腫れてくるぞ、と繰り返し脅された。祖父は、夜、僕が布団に入って寝たふりをしてからも何度も様子を見に来ていた。母も、しつけが足りないと厳しく責められていたようだった」
やはり、量吉さんは顔が腫れるのを心配していた。目撃した令正さんの顔が腫れていたのが、脳裏から離れなかったのだろう。怒った、脅したというより、気が気でなかったというのが実際のところだったのだろうと思う。だが、寡黙で昔気質だった量吉さんが、心配しているという内心を身内に見せるのが下手だったであろうことは想像に難くない。
「その日から、僕が寝るのを待って、二人はずっと何事か話し合っていた。程なく、僕は母からあの家を出ることを告げられたというわけだ。それまで、母は決して僕の父親について話をしようとしなかったのに、ある日突然、父方の祖父の家に行くと言われた。その日から、僕は、名前も住む場所もなにもかも、変えられた。金山の祖父から、それまでの暮らしはすべて否定され、さげすまれた。L県の田舎育ちで、洗練されていない、と。金山の名字を背負おうというのに、何もかも付け焼刃だと」
「でも、れおくんの森崎の姓は、古文書にも書いてある古い名字なんだよ。八百年以上前の」
「桐江さんのパーティで、そんなことを言っていたな。これで、また、僕の人生はひっくり返されたわけだ。金山の暮らしで否定されて俺自身さげすんできた森崎の姓から、森崎は金山よりよっぽど古いんだぞ、と、しっぺ返しをくらったわけだよ。そんなこと、誰も教えてくれなかった。それを知っていたら、金山の祖父に何を言われても、せめて腹の底ではあの強欲なジジイを笑ってやれただろうか」
「量吉さんは森崎家のルーツについては知らなかった。それに、れおくんのことを怒ったり、れおくんよりもしきたりを大事にしたりしていたわけじゃない。誤解なんだよ」
「誤解? 誤解なんて一つもないだろう。片や迷信に凝り固まった村、片や家柄と富に固執する強欲なジジイが支配する家があっただけだ。その間で僕はただただ、振り回された」
「量吉さんが祟りを恐れていたのは、迷信からじゃない。れおくん――金山さん、ツクモのメール、読まなかったの?」
「ツクモ? メール?」
「築井さん。メールしたって言ってた」
虚を突かれたように、彼は視線をあげて、わたしを見た。初めてまともに目が合った。
「あんな話し合いの後で、あいつが俺にどんな用が?」
「大ありだよ。れおくん、鍵もかけないで行っちゃったでしょう。ツクモは、れおくんのおじいちゃんである量吉さんの家が、空き巣なんかに入り込まれたりするのは忍びなかった。当面手元にあったもので鍵を掛けたから、そのことを伝えようとしたんだよ。他にも、祟りとチョウのことで伝えようとしてたことがあって」
彼は苦々しい顔をして鼻を鳴らし、わたしの話を遮った。
「人がいいにもほどがある。しかも、祟り? ばかばかしい。ここに人を近づけない方便に決まっているだろう。まさか本気で信じているのか?」
この人は、ツクモのことをどう思っているんだろう。どうしてこんなに憎々しく語るのに、彼に関わるのをやめないんだろう。わたしが、そう尋ねようと思って、口を開きかけたときだった。
ふわり、と、わたしと金山さんの間を通ったものがあった。
ちかちかと、宙を瞬くように浮かぶ、ブルーと白と濃いオレンジの明滅。それは、酒舟石のある空き地のへりまで上下に波打つような軌跡を描いて飛び、枝垂れたヤマザクラの枝先にとまった。
「七曜蝶!」
わたしが小さく叫ぶのと、はじかれたように金山さんが立ち上がるのが同時だった。














