114 岩室と酒舟石
谷筋がひとつ変わっただけなのに、そこが神社のご神域だと思っているせいなのか、それとも、本当に生えている植物にほんの少し違いがあるからなのか、なんとなく、辺りに漂う落ち葉や土の匂い、木々の葉の青々とした香りまで、これまでとは少し違うような気がした。
わたしは、緊張に飲まれないように、できるだけゆっくり、深く呼吸をしながら歩を進めた。木立ちにさえぎられて、ツクモと飯田さんの姿はすぐに見えなくなった。こちら側の谷も、一番深いところは沢になっている。そこまで降りきらないうちに、沢と平行に谷をつたう獣道があるはずで、その獣道にそって進むと、自然の洞窟を活かした岩室があるはずだ。
辺りを慎重に見まわしているうちに、これだろうという段差のような獣道が見つかった。そこまで、杖を使ってゆっくりと下り、そのままその道筋に沿って谷の奥へと進路を取った。
多分、合っている。根拠はないが、妙な確信があった。
道幅はさほど狭くなく、楽に歩くことができたが、沢筋のほうを覗き込むとかなりの急斜面で、灌木の間に、ちらりと岩や川面が見えた。
こちらの谷は、ヒシの池から流れ下る沢筋よりよほど深く切れ込んでいて、普段の水量も多いらしい。当然ながら手すりも柵もない。落ちたら、打ち所が悪ければ助からないだろう。わたしは改めて、気を引き締めた。
行く手の岩肌に、ぽっかりとあいた洞窟が見えた。あれが岩室だ。まず、中の祠に参拝する手はずだ。のぞくと、中は四畳半くらいの広さがあり、言われていた通りの古びた木の祠があった。土器で何かを供えた跡がある。
ここまでは順調だ。
わたしは父にたたき込まれた手順を思い出し、古い土器を回収して、雑嚢から出した新しい土器に、しきたり通り、米と茶と榊を盛って供えた。それから、踏切を踏んで、祝詞を唱える。
何とかカンペに頼らず、唱え切れた。ほっとした瞬間、背後で砂利を踏む音が聞こえた。
わたしは驚いて、とっさに振り返った。
明るい洞窟の外を背景に、その表情は見えなかったが、シルエットで誰だかはすぐにわかった。
「……金山さん」
わたしの声は、自分でもおかしいくらい、喉に引っ掛かってかすれていた。
シルエットは感情の読めない声で言った。
「気にせず続けてくれ」
「するなと言われても、気になりますよ。ここで何を?」
彼は、気だるげに室の入り口の岩に肩をもたれかからせた。
「どうしても、あのチョウが見たかった。この目で。父の研究記録によれば、神事をやっているところに次々と集まってくるんだそうだ」
「ギャラリーがいたら、できません。そういう性質のものです」
岩室の奥で叫んでも、ツクモには聞こえないかもしれない。この逆光の状態では、わたしの動きは相手に丸見えなのに、わたしからは金山さんの細かい動きがまぶしくてよく見えないのもマイナスだ。わたしは壁を背にして、彼から目を離さないまま、横合いから入り口ににじりよった。少しでも、光の角度から身体をずらして、目を慣らすためだ。そうしながらも、平静を装いつつ、必死で考えて言葉を繋ぐ。
「ガじゃないんですから、こんな薄暗い洞窟には来ないでしょう。ここから出て、少し上がった木立の中に、石舞台みたいになったところがあるはずなんです。神事の続きはそこで行います。わたしも初めてなので、場所を確認しないと」
「それならわかる。こっちだ」
金山さんはその場に、背負っていたザックを放り投げるように落とした。地面に転がった、登山用の縦に長い重そうなザックからは、寝袋とおぼしき大きな塊が覗いて見え、外側にザイルまで取り付けられていた。かなりの重装備に見えた。何日間か、山の中で過ごしていたのだろうか。
彼はきびすを返すと、岩室を出て、わたしが来たのとは逆の方向、谷筋のさらに奥に向かって獣道を歩き始めた。神事の手順通りなら、ここは儀式通りの所作で蝶酒を汲んで、持って行くところだ。
わたしは迷ったが、手桶ではなく杖を取った。金山さんの狙いがわからない以上、儀式を進めることはできない。それに、今、唐突に大声を出しても、わたしは力では金山さんにかなわない。ツクモたちが来る前にひねりあげられて、人質に使われるのがオチだ。助けを呼ぶにしても、ツクモたちがここに到着する瞬間まで金山さんに感づかれないようによく考えないといけない。
岩室を出た。なるべく光に慣らそうとはしていたが、岩室の薄暗さに一度なじんでしまった目には、陽光が刺さるようにしみた。幾度かまばたきして、にじんだ涙をおさめると、金山さんは行く手で二股に分かれた獣道の片方をたどって、谷の斜面を登っているところだった。もう一方の道筋はさらに細くなりながら、谷の奥、沢に沿って上流の方に向かっている。
しばらく調子を合わせるしかない。わたしは杖を使いながら、彼の後に続いて斜面を上がった。
「ここのことだろう」
谷を上がって、少し平らになったところで金山さんは立ち止まった。
木立が少しまばらになったそこには、父の言ったとおり、大きな石が横たわっていた。上が平らで、おそらく人為的に、くぼみが大きく彫り込まれている。
酒舟石。巨石の遺構として、ほかの地域で同じ名の付けられているものを本で見たことがあった。そちらは、船の字を使って『酒船石』と表記されている、円などを直線で結び合わせたような複雑な模様が石に刻み込まれたものだったが、ここの石はもっとシンプルな造りだった。巨石を彫り削って、大きくくぼませてあるだけだ。丸太の中央をくり抜いて作る原始的な舟を石で作ったようなそのフォルムは、むしろ、写真で見た遺構よりももっと、「酒舟石」の名にふさわしいようにすら思われた。
「昔のままだ」
彼はかがんで石に触れると、唇を歪めるようにしてゆるく笑った。
その横顔に、ようやく、かつてよく遊んだ少年の面影が見えた気がした。量吉おじいちゃんの家で、採ったばかりのキュウリに味噌をつけて一緒にかじったことがあった。ジュンコさんが、手を拭くようにと濡らして絞ったタオルを渡して優しくほほえんでくれたっけ。そのときの、バリバリとキュウリをかじっていた、幼いわたしにはとても大きく、ほとんど大人に近いように見えたれおくん。量吉おじいちゃんの寡黙だけど暖かかったまなざし。ジュンコさんのはかないような笑顔。そのすべてがごっちゃになって、目の前の青年の横顔に重なった。
この人は本当に、わたしの大好きな量吉おじいちゃんの孫で、ジュンコさんの息子で、よく一緒に遊んだれおくんなんだ。
そんなことに気を取られていたせいか、彼の一言の重大性は、わたしの脳に到達するまでに一拍を要した。
「れおくん。昔のままって、どういうこと? 以前ここに来たことがあるの」
わたしの問いに、彼は視線を石に落としたまま、うなずいた。
「あるさ。ご神域なんて、迷信だ」