113 ガムの包装紙
沢筋に下る急斜面に差し掛かって、ツクモはいったん歩みを止めた。ここを下りきったところに、一月半ほど前、ツクモが実験と称してわたしを驚かせ、セミの襲撃を受けた大岩がある。
「ここはゆっくりね。ちゃんとつかまって」
自分は進行方向に背を向けて、わたしの手をとったまま、ゆっくりと一歩ずつ足場を探りながら降り、わたしがついてくるのを待ってくれる。
「なかなか急斜面だな」
飯田さんも、下をのぞき込んで感心したように言った。
「洋服にトレッキングシューズなら、まあハイキングのレベルなんですけど」
「お父さん、毎回和服で来るの?」
「この神事の時だけですよ。それ以外の時は、洋服で、大きなかごをしょって。当然、明治より前は和装だったんでしょうけど、式服なのは祭りの時だけ、普段は平服ということだと思います」
「神主さんの仕事にもいろいろあるんだな。虫除けの神社って、俺は初めて聞いた」
「探せばそれでも、けっこうあるよ」
応えたのはツクモだ。
「そうなの?」
わたしは、自分の生まれ育ったところの習慣はわかっても、他所を知らない。
「うん。虫追い、虫送りといって、水田の害虫を祓うお祭りも、以前は全国的に見られたみたいだ。まだ残っている土地ももちろんある。七月に行われる地域が多いみたいだけど。七月の虫追いは疫病退散の祭りと習合しているパターンもあるんだ。七月の疫病退散といえば、京都の、夏越の祓なんかが有名だよね。水無月という小豆をのせた餅菓子を食べたりするんだ」
「あ、ここのお祭りでも、家で作るのはお寿司じゃなくてお赤飯が定番だよ。小豆ともち米で、似てるね」
「小豆の赤い色が魔よけの意味があると考えられていたからかな。共通点も、違う点もあって面白いよね」
「お前、ほんとに次から次に、いろんな知識が出てくるな。どこに入ってるんだか」
飯田さんはからかうように言った。
「興味のあることは、聞いたら忘れないんだ」
「世間話でも?」
飯田さんはにやにやと含みを持った言い方をする。何か嫌なところをつかれたのか、ツクモはふいっとそっぽを向いて答えなかった。相変わらず、兄弟のように仲の良いじゃれ合いをしている。
ごろごろと大きな石がころがった沢筋に出た。セミ襲撃事件の現場になった、上が平らになった大岩のたもとだ。
「ここから、沢沿いに上がっていきます。沢の水源になっている小さな池が、当面の目的地です」
わたしは飯田さんに説明した。
「わかった。これなら、帰りも迷う心配はなさそうだな」
飯田さんは辺りを見回す。
「その大きな岩が目印で、斜面はついている道なりにまっすぐ上がればいいし、上がったら、もう、ほとんど神社の裏手だろう」
「小学生の子どもが探検で来ちゃうようなところですからね」
「確かに来られなくはないな。あの斜面も、手も使えば、かえって子どもは苦もなく上り下りするだろうし」
「飯田さん」
ツクモが少し改まった声を出した。
「もし、金山が来てたら、飯田さんはどうするの。飯田さんは金山を探してここに来たんだよね?」
「話をするだけだよ。連絡を取ろうとしてたんだけど、全然捕まらないんだ。なんとしても会わないといけない。鴻巣先生にも相談してたんだけど、先生もお手上げだと言っていた。まあ、本来は鴻巣先生の案件で、俺のほうが手伝いなんだけどな」
飯田さんは不可解なことを言って肩をすくめた。
「何の話かは聞かせてもらえない?」
「先に金山に聞きたいんだ」
「飯田さんがそういう態度の時は、絶対、言わないよね。わかった。飯田さんを信じて任せるよ」
ツクモはうなずくと、改めて、沢を上る方向に進路を取った。わたしにはさっぱりわからなかったけれど、ツクモは何事かを察しているようだった。
その後は、なんとなくおしゃべりも途絶えて、三人とも黙々とごろごろした岩の多い道を上っていった。足をかけたところの石ころが転がって立てる音や、足元の段差をわたしに注意するツクモの短いコメントが響く。それ以外は、葉擦れの音や、鳥や名残のセミが思い出したように鳴く声が時折聞こえるだけで、静かだった。
少しずつ、緊張が高まっていたのかもしれない。わたしには行うべき神事もあったし、他の二人も、来るか来ないか分からない相手を警戒している必要があった。前回ここに来た八月の初めと比べると、辺りに見える昆虫の種類もそれなりに変わっていたのかもしれないけれど、ツクモにしては珍しく、昆虫のことを何も言わなかった。
ふいにツクモが立ち止まった。
わたしに手で合図して立ち止まらせ、足元に落ちていた何かを拾い上げる。
片面が銀色の小さな紙片だった。わたしにそれを見せ、ツクモは小声で言った。
「キラービーミントの、ガムのやつ」
スズメバチのロゴマークが特徴の、カナヤマ製菓が販売している眠気覚ましのミント商品のブランドだ。ツクモの指先がつまんでいる紙片にプリントされているのは、確かに、わたしにも見覚えのあるアメリカンコミック風のスズメバチのイラストの一部だった。粒タイプのガムを紙でくるんで棒状にして売られている、その包み紙の切れ端らしい。
追いついた飯田さんが、手を伸ばしてツクモの手からその紙を取り上げた。表、裏と丹念に観察して言う。
「まだ、ここに落ちたばかりだな。雨や露にあたってないし、砂やほこりもあまりついていない」
「あいつ、先に行ってるんだろうか」
ツクモは行く手の木々を透かし見るように目を凝らした。祭り期間の今、地元の人間でここに近づく者はいないはずだ。金山さんが先行していて、ポケットかどこかから偶然落ちたものなののかもしれない、とツクモは思ったのだろう。
わたしもツクモに倣って行く手を観察したが、動くものも見えなければ、気にかかるような物音も聞こえなかった。
「車は来てないでしょ。下でも警察が通行止めにしてくれてるし、氏子会でも交通整理の人を出してるよ」
園部さんは抜かりなく県警に連絡を取って、無理に上がってこようとする車両があればすぐに携帯電話で知らせてもらえるように頼んでいたはずだ。
「うん。でも、通行止めの手前の目立たないところで車を止めて、藪を漕いで山を上がったら察知しようがないからね。このくらいの山なら、あいつやオレみたいな普通の昆虫好きなら、採集や調査で歩き回るのは慣れっこだし」
「こうしていても仕方ない。とにかく、先に進むぞ」
飯田さんの催促にツクモは頷くと、ふたたびわたしの手を取って、足場の悪い沢筋をゆっくり進み始めた。
草鞋と足袋は毎日裏の林を歩いて足慣らししていたけれど、裾つぼまりに着つける和服の足さばきは十分な練習ができていなかったせいか、岩の多い沢の道のりを進むペースは中々はかどらなかった。気ばかりが急いて、先を急ぎたくなるが、ツクモはわたしに距離が多少あっても確実なルートを通らせて、決して無理をさせようとしなかった。
それでもどうにか、木立ちの向こうに、ガマの穂と水面のきらめきが見えてきた。水の匂いが濃くなる。ヒシの池だ。
金山さんの姿は、ここまで来ても見えなかった。
ガムの包装紙はただの偶然で、本当は来ていなかったのか。それとも、わたしたちが去るのを、どこかで身を隠して待っているのか。あるいは、もう、ご神域まで入ってしまったのか。
「付き添いはここまでだよ。ありがとう」
ヒシの池のそばに生えたサクラの木の下で、わたしはツクモの手を離した。雑嚢をいったん下ろし、取り出した被衣を被って懸帯で押さえる。
「境界線は正確にはどこなの?」
このサクラの木は、わたしと母がいつも、その木陰に敷物を広げてお弁当を食べたりしながら、父を待っていたところだ。わたしはその頃の記憶を掘り起こした。
サクラの木の下を通り過ぎ、沢筋とは反対側、池の向こう岸の奥の斜面が、反対側に下り始める、ささやかな尾根のようになったところ。
「ここ。ここより向こうの下り坂に降りてはいけない、って、いつも言われていた」
この先は、わたしも初めての土地だ。父が記憶をもとに描いて、目印を書き込んでくれた絵地図は、カンペと一緒に懐に入れてきたし、いざというときのためにツクモと飯田さんにも見せて、地形は把握してもらっていた。それでも、少し心細くなった。
そんな弱気を振り払うつもりでわたしは顔を上げて、ツクモに笑いかけた。
「大丈夫だって。なんかあったら、すぐに知らせるから」
ツクモは真剣な顔でうなずいた。
「ここで待ってる」
「とりあえず転ぶなよ、宮森さん」
飯田さんは、ちょっと茶化して緊張をほぐそうとしてくれたようだった。
「転びません! ドジを期待して見ていても無駄ですよー」
わたしも軽口で返すと、杖を使いながら、斜面をゆっくり下り始めた。
いつも読んでくださってありがとうございます。
ただいま、月・水・金の週三回更新で公開しています。第114話を5月24日(月)、第115話を26日(水)、第116話を28日(金)に投稿していきます。
今後とも、お付き合いいただければ幸いです。よろしくお願いいたします。














