11 花柄のボンネット
「これは、腕がなるなあ。わくわくしかない」
神社の裏手から森にはいると、ツクモはうきうきと藪のあたりを透かし見た。
採集調査バイトの初日。まずは神社のある羽音木山の調査を、ということで、社殿を回り込んだ裏の森から手をつけることになったのだ。
わたしは、首にかけたタオルで、早くも流れてきた汗を押さえた。美容にうるさい由奈ちゃんから、お肌が荒れるから汗は拭いちゃダメ、押さえて吸い込ませて取るのよ、と厳しく言われているのだ。
まだ五分も歩いていないのに、汗は目に入らんばかりに次々と滑り落ちてくる。
無理もない。今日は、ツクモ推奨の、昆虫採集完全装備。長袖長ズボン――というフレーズを小学生時代以来、久しぶりに使った――、首にタオルを掛けて、帽子。ツクモに言われてヘビ対策に履いてきた丈長のレインブーツ。
この装備は暑い。
ふいにツクモは振り返った。
「ふみちゃん、帽子それ?」
「そうだけど、何か?」
お気に入りの、ベージュ色の綿麻生地のキャスケットだ。梅雨が明けてから、毎日のようにかぶっている。ちょっと小顔に見えて、ちょっと首筋が細く見える気がする。つい先日も、前髪を長めに残したショートボブに、外国の新聞配達の男の子みたいに小粋でよく似合うよ、と由奈ちゃんにも太鼓判をおしてもらった。やっぱり男の子かい、とツッコんだものの、由奈ちゃんの審美眼はたしかなのだ。
「あんま意味ない。前つば狭いし、首筋が丸出し」
お気に入りが、ツクモの手にかかるとばっさり一刀両断である。ファッションとして評価しているのではないにせよ。
ツクモ自身は、登山用品メーカーのロゴがついている、顎の下でひもを締められる布製のハットをかぶっていた。リュックサック、長袖長ズボン、がっちりした登山ブーツという全身の組み合わせは、ほぼトレッキングをする人の服装だ。手に持った捕虫網と斜めがけした虫かご――どうらんという名前なのだとさっき教えてくれた――をのぞけば。こちらも、先日に引き続いて、ファッション性を捨て実用性に振り切ったセレクトだ。とはいえ、用の美というのか、それなりに着こなして様になってしまうのが、見た目のいい人のずるいところではある。
ちょっと待って、と、彼はリュックサックを下ろした。
「これ、途中の道の駅で見つけて買ったんだ。ちゃんとしたのだから、かぶって」
道の駅に、ちゃんとした帽子って売っているものなんだろうか。わたしの疑問をよそに、ツクモは白いポリ袋に入ったままの帽子を差し出した。麦わら帽子のつばのようなものがちらっと見える。
「えーっ!」
袋を開けて中に入っていた帽子を見て、思わず叫んでしまった。
そこに入っていたのは、農作業にいそしむご近所のおばあちゃんや、ゴルフ場のキャディーのパートに行く奥様たち御用達の、前半分が麦わら帽子、後ろ半分が家庭科の調理実習の時に使った三角巾のような形の、あのボンネットのような帽子だった。三角巾のところは、平成初期にはやったような、水彩画タッチの子どもの絵のような花柄。トータルすると、過去の時代の遺物のような品である。
「ちゃんとしたのって、これ?」
ふざけているんじゃなかろうか。ツクモの顔を見返したが、いたって冷静でまじめな表情だった。
「首筋から耳元、顔まで日差しをしっかりガードできるし、触るとかぶれる植物やとげのある植物からも守ってくれる。足元の視界は遮らない。急に風が吹いても飛ばないから、とっさに帽子を追いかけて転落や転倒、みたいな事故も防げる。風通しがよくて熱がこもらない。難点と言えば、頭上の昆虫が探しづらいことくらいだけど、ふみちゃんは網を持つわけじゃないからこれが一番」
ぐうの音も出ない。出ないけれど。
「ださい」
これは、へこむ。まさか自分がこれをかぶる日が来るとは思わなかった。
蝉の声が雨のように降ってくる。これからの長く暑い一日を予言するように、ひときわ声が大きくなった。
「昆虫はそんなの気にしないから! だーいじょーぶだってっ」
「基準はそこかっ!」
「オレのも欲しかったんだけど、花柄しかなかったんだよねー。サイズはこんなのどうにでもなるけど、さすがに、ご近所の方々に花柄の帽子かぶってるところを目撃されたら説明が面倒になりそうで」
「……ツクモ、自分もかぶる気だったの?」
柄の問題だけではない。ような気がする。日よけの布が後頭部にスカーフのように垂れ、あごの下に結び目がきゅっとできるデザインは、婦人物限定ではないだろうか。農作業で、それこそファッション性は一切気にしていない実用一点張りのおじさんやおじいちゃんでも、この形の帽子をかぶっている男性は見たことがない。長身でしっかりした体格のツクモの頭に、ボンネット風の帽子が乗っている図を想像して、ちょっとおかしくなった。
目の前に大きなトンボがやってきて一瞬その場に滞空した。やってきたときと同じくらい唐突に、すうっと飛び去って行く。ツクモの言うとおりだよ、あんたはちゃんとかぶりな、と小ばかにされた気分だ。
「あ、オニヤンマだ」
ツクモは指さして小さく叫んだ。
「とりたいなあ。この辺、水場があるの?」
「そっち、下ったほうに沢がある。遡っていくと、沢のはじまりのところが、山から下ってくる水でちょっとした池になってて。父が、その沢と池の向こうは神社の神域だから入っちゃだめだって言ってた。沢と池は調査していいって」
「じゃあ、林間を調査しながら、だんだん沢に向かって進路を取っていこう」
ツクモは用意してきた地形図になにやら書き込んでいる。それをクリップボードごとわたしに渡した。
「昆虫を捕ったら、場所を地図にプロットして。名前はこっちの紙にメモして。……現在位置、わかるよね」
「地図ぐらい、読めますよーっだ」
舌を出す。人を何だと思っているのか。
クリップボードを、ついていた紐で肩から掛けると、手の中の三角巾付きボンネットを眺める。わたしは一つため息をついた。
どうせここでわたしの姿が目に入る人間はツクモしかいないし、そのツクモがかぶれといっているのだから、かぶるしかない。あきらめろ、わたし。わたしの外見がダサかろうが、なんだろうが、どうせツクモには関係ない。
それに、神社で今日の動きを打ち合わせたとき、森の中ではツクモの指示をきちんと聞くように言われていた。自然の中では、とっさの判断の分かれで、捕るべき昆虫が捕れなくなったり、もっと悪いと怪我をしたり命に関わったりすることもある、と言うのだ。それを言うときのツクモは、昆虫に浮かれているときの軽いノリとは全然違って、真面目な、少々怖い顔だった。あの顔で言われたことは、多分逆らわないほうがいい。
わたしは帽子をかぶると、三角巾の耳をもってあごの下できゅっと結んだ。これは仕事だ。遊びではない。この結び目と同じくらい、自分の気持ちを引き締めよう、と心に決めた。














