109 祭りの準備
翌日、父と相談して、今後の方針を固めた。日時が差し迫った祭りが最優先課題である。散虫香問題と、ご神域の生態調査は、祭りが終わってからすぐに取り掛かることに決めた。祭りのうち、社殿で行う神事は病院の外泊許可を取って帰宅する予定の父が執り行い、奥谷のご神域に入る神事は、今年に限って、わたしが代行することになった。
「郁子がやるなら、今のところ後継ぎだから、問題ない。前例としては、宮司の妻、夫までは代行したことがあるから、郁子がやれないなら、母さんに頼む」
父はそう言ったのだが、わたしは、やると伝えた。
後を継ぐかは正直まだ、決断できる状況ではない。でも今年の神事についていえば、正当にやれる人間がいるのにやらないというのは、氏子さんや、御祈祷を頼んでくれる人たちに対する裏切りのような気がしたのだ。それに、祭りの日は、母には母の、例年通りの果たすべき役割がきちんとある。
後継ぎの自覚を持て、としょっちゅう言っているので、喜ぶかな、と思ったら、案に相違して父は厳しい顔をした。
「やるからには、甘えは許さんぞ。ちゃんとつとめろ。じいちゃんの資料をもって、病院に毎日通ってこい、必要なことを教えるから。あと、神事の装束で山道を歩かなきゃいけないから、足袋に草鞋を履いて当日歩き回れるように、足回りだけでも慣らしておけ」
父は父で、自分の仕事に誇りをもってやってきたということなのだろう。
裏山を歩く練習には島木さんが付き合ってくれた。色々詳しくて、歩き方のコツを教えてくれるので、尋ねたら、ツクボウに勤める前は、民間警備会社のエージェントとして世界各国に派遣されて飛び回っていたのだという。
「依頼によっては、山岳地帯に潜んで襲撃に備えたり、林野に逃亡した犯人を追ったりしなければならないので、こういう無舗装で起伏のある地面を歩いたり走ったりするトレーニングは重要なんです」
さらっと恐ろしいことを言う。ちょっと日常的な理解の範疇を超えた職業人生である。
「郁子さん、興味があったら、歩く練習だけじゃなくて、体力づくりの基礎トレーニングしたほうがいいですよ。今後何をするにしても、絶対役に立ちます。最後に頼りになるのは、自分の身体とメンタルなんですから」
凄腕の警備担当者として、実感に基づいたらしい一言だった。
「トレーニングって、筋トレですか?」
「ええ。あと、有酸素運動。郁子さん、あまり運動競技に打ち込んだ経験ないんじゃないですか?」
「あ、わかります?」
中学生の時はゆるく楽しむ程度の卓球部だった。高校時代はほぼ帰宅部状態だった茶道部。とりたてて運動神経が悪いとまでは言えないけれど、得意な方ではない。
「筋肉のつき方からわかります。未経験の人ほど効果がありますよ。身体の使い方がよくなって、体幹がしっかりするし、毎日息が少し上がるくらいの強度の運動を続けるって、結構、メンタルにもいい刺激になるんです。続けていることそのものが自信になるというか」
そんなものなんだろうか。正直、運動が自分に向いている気はあまりしない。でも確かに、運動サークルに入ったりしている友人に比べて、運動の習慣がないことそのものが、なんとなく引け目のように感じてしまうときがあるのも事実だった。毎日の山道自転車通学は多少の足しにはなっているとは思うけど。
そんなわたしの逡巡を、島木さんは違う風に解釈したらしかった。
「あ、女性は結構気にされますけど、マッチョになったりはしないから大丈夫ですよ。普通にやってたら、すっきりして引き締まる程度で」
「そうなんですか?」
「男の人は、つく人はつくんですけど。文史朗さんとお兄さんは、中高生のころから、それぞれ就職されるまでは、私がトレーニングの指導をさせてもらってたんです」
「ツクモも?」
あの塗り壁体型は、島木さんのトレーニングのたまものだったらしい。
「今でも、東京に戻られたときにはワークアウトにご一緒することもあります。見てると分かりますけど、普段から習慣程度にはしてると思いますよ。文史朗さんは真面目ですから。耕太郎さんはいつもどうにかしてサボる方法ばっかり考えてたんで手を焼いたんですけど、文史朗さんは逆に、言われたことは文字通り四角四面にやるタイプでしたからね。それはそれで、冗談や脅しがまるで効かなくて困りました」
あはは、と島木さんは笑った。いつもの厳しい雰囲気とはうってかわって柔らかい表情だった。色々心配なことはあるはずだったのに、その笑顔になんとなく気分がほぐれて、わたしは島木さんに右手を差し出した。
「お仕事のお邪魔にならない程度に、トレーニング、教えてください。今からでは付け焼刃でしょうけど、できる準備はできるだけ、しておきたいんです」
今のわたしにできないことは色々ある。でも、努力の届く範囲ではできるかぎりのことををしている、という自信がつけば、島木さんの言う通り、それはきっといざというときにわたしを支えてくれるはずだ。
「よろこんで」
島木さんはわたしの差し出した手をがっちり握ってくれた。
二週間、父と島木さんの指導のもとで、当日の所作を身体に叩き込み、体力づくりをして、わたしは祭りに備えた。二人はわたしの想像以上に鬼教官だった。祭りという目標がなければ、音を上げていたに違いない。
◇
順調に進んでいると見えた準備だが、急に事態が変化したのは、祭りがあと数日に迫ってきた日の朝のことだった。
「本社の方で急に降ってきた案件で、海外支社のトラブルに対応しなければいけなくなって」
島木さんはため息をついた。当地の事情に詳しく、現場に駆けつけてすぐ動ける人間となると島木さんしかいないのだという。
「すぐ行ってください。こちらのことは自分たちで気をつけます。とにかく、祭りまでのことですし」
母が言うと、島木さんはうなずいた。
「祭りまで、というのは相手のこだわり方を考えても確かだと思います。今日の日中だけ、手薄になってしまうんですが、明るい時間帯に関して言えば、めったなことはないでしょう。このあたりは地域の目が行き届いているので、相手側だって下手なことをすれば目立ちすぎます。外出は必要最小限にして、ご家族で行き先をはっきりさせて共有し、車で行動すれば、大きな問題はないと思います。車はその都度ガレージに入れて、シャッターを毎回閉めて施錠することだけ、気を付けてください。夜までには、研究所付きの人間がやりくりできるので、一人来させます。祭りの当日は、文史朗さんも来ると言っていましたし」
そこで島木さんはわたしに視線を向けた。
「神社の習わしで、祭りの期間中、裏山に人を近づけない、というのは伺っています。でも、今回は事情が特殊です。彼が神社の習わしを尊重するという保証はない。警備担当としては、ご神域の中までは入らないにしても、近くまで誰かが付き添って、何かあったときにすぐ対処できるようにした方がいいと思います。私はどうやら、祭りの日までには帰国できなさそうなので」
「うーん」
わたしは考え込んだ。
「とはいえ、集落の人には今回の件、何も説明していないんだよね。それで外部の人がご神域の近くまで入るとなると、不自然に思われちゃうかなあ」
「ご神域の神事を担当するのは郁子さんでしょう。郁子さんの安全にはかえられませんよ」
島木さんは眉をひそめた。
「でも、地域の伝統行事だから」
「じゃあ、上司に相談させてください」
上司?
わたしがきょとんとしている間に、島木さんはわたしの目の前でスマホを取り出すと、どこかに電話を掛け始めた。
「島木です。七曜神社の護衛の件ですが」
手際よく、わたしたちにもした説明を繰り返し、島木さんがここを離れる件、夜には交替の警備の人を来させてくれる件を話した後で、彼女はさらりと言った。
「というわけで、祭り当日の三日間は、本社の方でも手いっぱいで、これ以上は人が割けないんです。文史朗さん、来る予定でしたよね。山中の現場の方お願いできますか。七曜神社さんの方でも、部外者を山に入れるのは抵抗があるそうなんですが、先月から正式に申し入れをして、神社の古文書関係も含めて調査に入っている文史朗さんなら、また話が違うと思います。対外的には、ご神域の手前まで学術調査上の必要から神事の見学に入るということで、宮司にご相談してはいかがですか」
「上司って、ツクモ?!」
ぎょっとするわたしをよそに、島木さんは電話の向こうの言葉に耳を傾けたのち、二言三言応答して通話を終了した。わたしと母に、こともなげに言う。
「今回こちらの護衛をさせていただいているのは文史朗さんの指示ですから、この件の上司は文史朗さんです。文史朗さんから、病院の宮森さんに相談してくれるそうですよ。宮司が了承してくれれば問題ないでしょう」
わたしの安全などというものを持ち出してツクモと父が話をすれば、神社の不文律なんてものがどうであろうが、あの二人は、はっきりと禁止されている事項以外は全部すっとばし、例外の前例を目いっぱい拡大解釈して、最大限にわたしの安全確保によせた判断をするだろうことは、予想に難くない。
やられた。島木さんの情報整理能力、調整能力、恐るべし。その辺をすべて見抜いているなんて。
「お気遣いいただいて、ありがとうございます」
母まで島木さんに深々と頭を下げているし。
呆然としているわたしに、彼女は目じりにすこし優しいしわを寄せて微笑みかけた。
「文史朗さん、ああ見えて、いざというときには頼りになりますよ。ちょっと常識ない行動をするときはありますけど、一番大事にすべき点が何か、判断の核心がいつもしっかりしている人ですから。身近な人の身も、自分の身も守れます。必要な時にはちゃんと頼ってあげてくださいね」
わたしはうなずくしかなかった。