108 飯田さんのメモ
「終わった……」
金山さんが乗り込んで猛然と出て行った車の姿が見えなくなり、わたしはその場にへたりこんだ。
「あれでよかったのかなあ。金山さん、どうする気なんだろう」
まったく、何の合意にも達していない気がする。
「こちらの立場は伝えた。ふみちゃんはこれ以上ないほど、ちゃんとやったよ。堂々としてたし、立派だった」
ツクモはわたしの隣にしゃがみこんで、背中をぽんぽんとたたいてくれた。
わたしは気になっていたことを尋ねた。
「島木さん、飯田さんの伝言って、何だったんですか」
飯田さんからのメモを見た金山さんは、明らかに様子がおかしくなっていたように思えた。呪いの言葉をかけられたみたいに顔面蒼白になっていた。
島木さんも首をひねった。
「わからないんです。飯田さん、私にも見せてくれたんですが、全然今じゃなくてもよさそうなことでした。修士論文が面白い内容だったから、個人的に話を聞きたいとかそういうことでしたけど、ごく簡単に一行と、飯田さんのメールアドレス」
さっぱりわからない。
「ここから、どうしたらいいの?」
「決裂ですかね。耕太郎さんにアポイントとってもらいましょうか」
島木さんが言ったが、ツクモは首を横に振った。
「こちらはこちらで、淡々とやるべきことを進めるだけだ。ふみちゃんパパと相談して、祭りと、散虫香の成分を確かめることと、羽音木山の生態調査をどうするか、方向性を決めていかないとね。散虫香の問題がある以上、山の調査は不可避だ。だけど、それも、神社と神事の文化をちゃんと守る形で、公的機関にも協力してもらってやれる正攻法があるはずだ。こちらが、まっとうに手続きを進めていけばそれだけ、あいつが脅せる事柄は減っていく。やるべきことに公に道筋がつけば、こちらの逃げ切り勝ちだ」
「金山さんがやけを起こして、ネットにあれこれ書き込んでしまったりとかしたら?」
「それが最後の一線だ。ネット上の情報をどうするかは島木さんのチームに相談するけど、同時に、金山に対しては、その段階でお兄さんと交渉することになる。それ以上まずい手に出ないように金山家の方で、あいつの動きを押さえてもらう」
「そこまで待つの?」
「実際はそこまではしないと思う。炎上騒ぎなんか起こせばこちらが動くことくらいわかるだろうし、そもそも自分が調査に入りたいというあいつの目的にも合致しない。お祖父さんにまで話が行ってしまえばあいつもお兄さんたちも本当に困るはずだ。こちらが押さえている証拠のことはきちんと伝えた。頭に上った血が引けば、その致命的な影響力を評価できるだけの判断力はあるはずだ」
「文史朗さんがそう判断する根拠は?」
島木さんは冷静に尋ねた。
「さっき、最後に島木さんが渡したメモ。あれで、リョウキの顔が変わった。オレにもよくわからないけれど、あいつは何事かわかったのかもしれない。それで正気に返ってくれるといいんだけど。少し様子を見てもいいとオレは思った」
島木さんは、灰皿の中でくすぶっている散虫香を庭の地面にあけ、丁寧に土をかぶせて踏んだ。
「リョウキさんはこの計画を立てたとき、多分どこかで、自分が仕掛けたことに対してであれば、文史朗さんが引くと思っていたんですよ。バレないまま、自分の思い通りになればもちろんよし。でも最悪、今みたいに自分がやったことだとバレてしまっても、強気で押せば最後は文史朗さんが下がるだろうと。こうやって全面的に対抗すると思っていなかったんです。文史朗さんがここまで粘ること自体が想定外だったんじゃないですか。だから、チャリティ・ガラの時も引き際を間違えた」
「島木さん、あの時のやりとりを聞いてたんですか?」
わたしが尋ねると、彼女はうなずいた。
「見るからに険悪な感じでしたからね。今にして思えば、彼は本当に羽音木山の調査をしたいなら、郁子さんの悪感情を買うような真似をするべきではなかった。あの時のことを、郁子さんが秀治さんに伝えていたら、もうそれだけで秀治さんは絶対に彼を神社にも羽音木山にも近寄らせようとはしなかったでしょう」
それは確かにそうだ。わたしがあの一件を両親に言わなかったのは、金山さんとの関りはあの場かぎりだと思っていたし、言えば父が過剰に反応するのが手に取るように想像できて、それだけでお腹がいっぱいになってしまったから、という理由にすぎない。調査依頼などという話になれば、どこかの時点で、あの時の因縁を父に報告しなければならなかっただろう。
「彼にだって、冷静に考えればすぐにわかったはずです。でも、あの場で文史朗さんが問題を丸く収める方向に引かなかったから、落としどころが分からなくなったんでしょう。彼も、こと文史朗さんに関してはおよそ冷静になれないところがありますから」
「オレだって、譲れないラインはあるからね」
「今までそんな風に突っ張ったことなかったですよね。どんな無理無体をふっかけられたって、たいていのことは自分が下がって、衝突を避けてきたんじゃないですか。私はいつも言ってきましたよ、自分が我慢して丸く収めようとするのは決して最善の選択じゃないって」
島木さんは苦笑した。
「それでも、最後の最後では、あいつは自分と他人のために理性をはたらかせて打算ができる人間だと思うよ」
「だといいんだけど」
そう応じたわたしにうなずいてから、ツクモは、やおら立ち上がった。
「そうだ、あれどこだろう。何とかしてやらないと」
ひとりごちながら、植込みの奥をごそごそと何かを探すように覗き込む。
「あれって? 何探してるの?」
「スズムシの甕」
「えー、まだ昆虫? 好きだねえ」
「うん。見たいというか、かわいそうだから逃がしてやらないと。あ、あったあった」
ツクモはアジサイの茂みに突っ込んでいた頭をこちらに戻した。庭の隅に転がっていた大きな石を持って戻ってくる。
「マツムシの先例に従って、上側、壊しちゃおう」
ツクモが再びアジサイの植込みの下に頭を突っ込んでややしたのち、がしゃん、と陶器をわるような音が聞こえた。
「証拠のスズムシ、とれなくなっちゃいますよ」
島木さんが言う。
「とりたくない。スズムシはそんなことに使われたら、いい迷惑」
「本当は、文史朗さん自身が、警察に言いたくないんでしょう」
「ふみちゃんパパが色々考えたうえでやっぱり訴えたいって言ったら、もちろん最大限の協力をするよ。でも、個人的には、誰にとっても良くない結果しか生まない気がするんだよね」
ツクモは物憂げに肩をすくめた。
「わかりました。そこは文史朗さんの判断に従います。……心配すべきなのは、彼が実際に羽音木山に行動を起こしにくる可能性でしょうかね」
島木さんは腕を組んだ。
「今日までみたいに、オレが泊まり込むよ」
ツクモが島木さんに言う。ちょっと待て、勝手に話を進めるな。それは、うちの話なんだけど。
不安は不安だ。でも、ツクモがずっと一緒、というのも、別の色々な意味でちょっと……いや、だいぶ不安。
「だめですよ」
島木さんは笑いを含んで言った。
「宮森さんの方で、困りますよ。主にお父さんが。ここ二日は他に手段がありませんでしたから、文史朗さんにお願いしましたけど、嫁入り前のお嬢さんがいる家に、文史朗さんが一人で張り込み続けるのは、周りの目があるんじゃないですか」
そう、それ! 田舎の情報伝播は本当に恐ろしいのだ。おばあちゃんたちの羽音木ゴシップ緊急連絡網で、あっという間に憶測から既成事実にまで話が昇格してしまう。しかも、他にさして共通の興味関心事がなく、十年一日の時間感覚をもつおばあちゃんたちの間では、いったん広まった噂は根深く残って、色々な誤解の元になるのだ。
「噂よりも、ふみちゃんの安全のほうが大事」
ツクモは不服そうに口をへの字に曲げる。
「もちろんです。お話を伺っている限り、重点的に対策が必要なのは、七曜神社のお祭りの日までの二週間ほどですね。彼がもし何かをするなら、祭りの日か、あるいはその直前でしょう。そのことは予測がついたので、こちらもきちんと考えています。本社の対応を部下に頼んで、私が祭りの日まで警備しますよ」
島木さんはこともなげに言った。
「だって、島木さんだけで何とかなる?」
「リョウキさんが、組織だった襲撃を掛けられる状況だとは思えません。先ほども言ったように、彼に味方は少ないはずです。私と、あと研究所から必要に応じて一人交替に来られる人間がいれば対応できます」
「でも、島木さんにも他のお仕事が……」
わたしが言いかけると、彼女は落ち着いて首を横に振った。
「私は、基本的には情報を集めてチームの部下に指示を出す仕事なので、電話とネットがつながれば、別に本社や研究所にいなければならないわけではないんです。信頼できる部下を本社に置いてきてますから、ここにいても十分、普段の業務はできます。文史朗さん」
島木さんはツクモを軽くにらんだ。
「文史朗さんの方こそ、結構溜まってると思いますよ。研究所に行かなければできない仕事、文史朗さんでなければさばけない仕事があるでしょう。そろそろ所長が困ってるはずです。餅は餅屋、警備は警備担当にちゃんと任せてください」
ぐうの音も出ない理路整然とした説得に、ツクモは苦い顔をした。
「それに、さっきの飯田さんのメモ。飯田さん、私には話す気がないと思います。文史朗さんがちゃんと聞いて把握しておいてください。他にも、この件の分析関係は文史朗さんが指揮してくださらないと困ります。飯田さんだって、俺は科捜研じゃねえってぶつぶつ言ってるくらいなんですから、他の研究員の方々には文史朗さんがちゃんと頭を下げて頼んでくださいよ。皆さん、本業の研究もあるんですから、あくまで厚意でお願いしてるんですからね」
島木さんはツクモの様子には全くお構いなしで、筋道を立てて状況を整理していく。追い込まれて、しぶしぶと言ったようにツクモはうなずいた。
「じゃあ、ここのことは島木さんを信じて任せる」














