104 陽炎の駐車場
虫の声は確実に秋が近づいてきていることを示していたけれど、八月末の午後二時半の日差しはまだまだ暴力的に強く、ぎらぎらと照りつけていた。
だだっ広い病院の駐車場は、陽炎の中でゆらゆらとゆがんで見えた。
快適さだけを考えると、待合ロビーで待てればよかったのだが、それでは会話がしづらい。
多少の押し問答になることを覚悟したわたしたちは、玄関の外で待つことにしたのだ。
わたしは日傘を差して、おそらくは家族やタクシーの迎えを待つ人が使うために設置されているのであろうベンチに腰掛けていた。この季節、外で待っているようなもの好きはいない。みな、携帯電話で連絡を取り合って、迎えが来てから建物を出てくるので、ベンチに座っているのはわたし一人だった。
わたしは、母がつくろってくれて、見た目にはまったく切り傷がわからなくなった、裾にオレンジの模様が並んだ黒のプリーツワンピースに、母から借りた麻のジャケットを着ていた。さすがに、ざっくり大きく切られたわたしのジャケットのほうは、母の腕前をもってしても救えなかったのだ。桐江さんのパーティがカジュアルなドレスコードで幸いだった。病院で着ていても、ひざ丈のワンピースなら浮かない。そして、この服装なら、金山さんも私を見落としようがないはずだ。ただし、足元だけは、利便性を取って履きなれたフラットシューズに替えていた。
ツクモはわたしがよく見え、かつ、病院の玄関をめざして歩いてきた人からは見えづらい植込みの影に、島木さんとその部下の一人はさりげなく全体を見渡せる位置のロータリーに停車して、その時を待ち構えていた。
父の手術は昨日問題なく済んで、母は父に付き添っている。万が一のことを考えて、島木さんは、父の病室にもひとり、ボディガード兼連絡役の人物を配置してくれた。
「手数を掛けて掛けすぎということはありません。脅迫だけで終わっていたら出来心の悪ふざけと大目に見ることもできたかもしれませんが、研究所にスパイ行為をして、その上、こうして人に危害を加えるような人間を放置する気はありませんから」
恐縮する母に、島木さんは淡々と言ってのけた。
島木さんが研究所に持ち帰り、飯田さんが分析したスズムシの菓子箱には、やはり、飯田さんの昆虫麻酔薬の痕跡があった。これで、一連の事件は物証でつながったことになる。
そして、島木さんのチームの執念は、金山さんが研究所に忍び込んだ決定的な証拠を押さえていた。物流会社の防犯カメラである。最初に見せてもらった道路側の映像は不鮮明で空振りだったらしいのだが、二の矢があったのである。
「彼の用意した車はレンタカーでしたが、直接乗り付けて足をたどられるのを嫌って、物流会社の建物の裏手の路地に止めて、研究所には徒歩で侵入したようなんです。路地を撮影していたカメラに、その様子がうつっていました。目撃者を作るのも嫌だったのでしょう、コンビニやガソリンスタンドは足早に通り過ぎたようで、防犯カメラには店外を足早に歩く姿しか映っていませんでした。が、一通りの犯行を終えた後、気が緩んだんでしょうね。彼は、配送ドライバーの人たちのために設置されていた物流会社の駐車場の自動販売機で、飲み物を買ったんです。ところが、この自動販売機、ちょっと仕掛けがある曲者でして」
「仕掛け?」
島木さんは唇の端を上げた。
「これまでに、周囲が無人になる時間帯に、どうも、地元のやんちゃなドライブ愛好家にずいぶんかわいがられた時期があったようで。小銭を抜かれたり、それに対策をしたら腹いせで壊されたりするケースが相次いだものですから、腹を立てた社長が、自動販売機の内部から、正面に立った人物を撮影する防犯カメラを仕込んでいたんです。そこに、動かしようもなくしっかり、彼の顔が映っていました。その時の服装、時間帯、コンビニとガソリンスタンドの防犯カメラ映像、研究所の駐車場の防犯カメラ映像、すべて合わせて提示すれば、どこに出しても恥ずかしくない立派な証拠セットのできあがりです。彼のお兄さんたちも、これを見れば、彼の不法行為を認めざるを得ないでしょう」
「人には頼まなかったんだ」
わたしが言うと、島木さんは首を振った。
「ライバル会社の研究所ですよ。足がつけば相当まずいことになるのはちょっと考えればすぐにわかる。まともな人間ならまず引き受けないでしょう。その上、所内の防犯カメラの位置を把握して、できるだけ映らないようなルートを取り、何を持って帰ってくるかをその場で判断し、となると、気の利かない相手に気軽に頼むようなわけには行きません。自分で行くしかなかったのでしょう。おつかいのレベルが違うんです。個人宅の自転車をいじったり、車上狙いまがいのことをして虫の箱を入れてくるなんていう、結果はともかくやっていることは小学生のいたずらに毛が生えたような小細工とは」
なるほど。
そして今日も、おそらく金山さんは一人で来る、と島木さんは踏んでいた。彼に全面的に味方してくれるような、「おつかい」以上のことを頼める判断力のある相手は、彼にはいないはずだ。そして「おつかい」程度しか頼めないような気の許せない相手に、複雑微妙な駆け引きの場を見られたくないだろう、というのがその理由だった。
「冷静に考えれば、勝算がない行動だって、あいつにだってわかるはずなのに」
ツクモはちょっと悲しそうに言った。
「M大の大学院まで進めるような頭脳が、冷静で合理的な判断を失ってしまうその事情が何なのか、ですね。そこが交渉のポイントだ」
島木さんはあくまでクールだった。
作戦はシンプルだった。まず、わたしが金山さんを呼び止めて、父ではなく、わたしが話をすると言う。ツクモはそれから合流。わたし一人だと、金山さんが無茶をして荒っぽい手にでるとまずいけれど、最初からツクモが一緒だと警戒して近寄ってこないかもしれない、というわけだ。話をする場所に、島木さんは、量吉おじいちゃんの家を指定した。
「神社や宮森邸では、こちらのホームですから、警戒するでしょう。腹を割って話してもらうには、あちらがリラックスできる場所のほうがいいはずです。こちらは不法侵入なんてしていないわけですから、妙な仕込みがないことはわかるでしょうし」
金山さんが公共の交通機関を使って来ていたら、島木さんと一緒の車に乗ってもらう。金山さんが自分の乗ってきた車で行くと言えば、島木さんのチームの二台の車で前後を押さえて、一緒に移動する。わたしとツクモが家から乗ってきた父の車は、ツクモが運転して戻ることにしていた。
「彼に話し合う気がなければ、こちらとしてはこの証拠のコピーを、耳をそろえて金山家のお兄さん方のところに持っていく段階に移ります。耕太郎さんの手を借りれば、アポイントは取れるでしょうから。彼の立場はそれなりに困ったことになるでしょうね」
ツクモのお兄さん、耕太郎さんは、金山さんのお兄さんたちの一人と同級生なのだ。先方が公にしたくないであろう話を持ち込むにも筋がいい。
わたしは打ち合わせの内容を反すうしながら、強い日差しの中、背筋を伸ばして、その瞬間を待っていた。一瞬でも気後れしたくはない。
結局のところ、わたしも、金山さんに猛烈に腹を立てていたのだ。














