103 瞳の中の極小フォント
祖父の書付けをひたすら読み返したけれど、それ以上、めぼしい手掛かりは見つからないまま、時間だけが過ぎていった。
日が少しずつ傾いて、ヒグラシの声がカナカナと高く響き始める。
「目が疲れた」
わたしは床に寝っ転がってぼやいた。祖父の字は本当に読みにくい。本人はいたって几帳面に書いているのだが、癖が強すぎるのだ。
「休憩する?」
ツクモがのぞき込んできた。ツクモの顔、さかさまのアップ。うん、これ、前もあった気がする。初めて会って、しょうがなくここに連れてきた日だ。ほんの一月ちょっとしか経っていないはずなのに、ずいぶん前のことみたいだった。
「する。おやつ食べよう」
何があったかな。昭おじいちゃんが先週くれた、まくわうりが、まだ野菜室に入っていたはずだ。
ころり、と寝がえりのように転げて、横向きになってから起き上がったら、思いがけずツクモの顔が近かった。
「ふみちゃん、大丈夫?」
心配そうな顔で、目を覗き込んでくる。距離近い、と思ったけど、不思議と以前ほど緊張はしなかった。
「大丈夫、って?」
「色々ありすぎて、ゆっくり考える時間もないまま次から次に判断しなきゃいけなくて。ふみちゃんはまだハタチなのに、色々、お父さんの代わりに背負おうとしてるみたいで」
「まだハタチ、かもしれないけど、もうハタチ、でもあるんだよ」
わたしは少し目をそらして、肩をすくめた。
床にぺたんと座る格好で、ひざの横についていたわたしの右手に、ツクモは自分の手をそっと重ねた。
「明日のことは、心配しないで。島木さんも飯田さんもたくさん動いてくれてる。ふみちゃんはオレが守るし、絶対に、神社に迷惑はかけない」
手の甲にふれたツクモの指先が温かい。
そう思ったら、胸の奥の方で、何かがぷつりと切れたような気がした。
視界がぶわっとすりガラスみたいににじむ。
「違うよ。ツクモや、島木さんや飯田さんに迷惑をかけてるのは、わたしたちなんだよ。会社には他にもっと大事なお仕事、いろいろあるはずなのに。うちが、チョウのことも、お守りのことも、昔ながらのやり方で何の疑問も持たずにやってきたから。もっと早く、ちゃんとしておかなきゃいけなかったんだよ」
「ふみちゃん――」
「お父さんが、ツクモに、なんで来たんだって言ったでしょう。でも、違うんだよ。お父さんがもう関係ない、手を引いてくれって言ったのに、スズムシが出たくらいでパニックになってツクモに電話かけたのはわたしなんだよ。お父さんにそう言わなきゃいけなかったのに、わたし、あの時、何も言えなかった。巻き込んでごめん。ツクモは、研究所にとっても、ツクモの家族にとっても大事な人なのに、こんなところで変な悪だくみにひっかかって、お父さんみたいに怪我したり、何かあったら、わたし、桐江さんに顔向けできないよ」
頬をぽろぽろとしずくが伝う感触がする。わたしはぎゅっと目をつぶった。子どもみたい、と思うけれど、涙なんてひっこめ、と思うけれど、止められなかった。
怖い。ツクモが水を向けてくれなければ絶対に言えなかっただろう。でも、わたしは心底怖かったのだ。これ以上、誰かがケガをしたり、大切な何かを失くしたりするのが。
「なんで、ここにおふくろが出てくるの。いいんだよあの人は放っておけば」
ツクモはちょっと困った声で言うと、わたしの頬に触れた。
「ふみちゃんは悪くない。ここにはオレが来たくて来てるんだよ。すべきこと以上のことをしたいと思ったらその相手は友達だってふみちゃんが言ったんだ。ふみちゃんは大事な友達だって、オレ、何回も言ってるよね。それに、ふみちゃんはこの前、オレを助けてくれた。慣れない靴で、来なくてもよかったはずの場所まで来て、嫌なこと言われても下を向かないでそこにいてくれた。オレがどれだけ感謝してるか、知らないだろ。だから、借りがあるんだ。返させてよ」
その言葉に、涙腺が壊れてしまったんじゃないかと思うくらい、涙がとまらなくなった。べそべそ泣いてしゃくりあげるわたしに、ツクモは途方にくれてしまったようだった。
「ごめんね、なんか悪いこと言った? 嫌だった?」
違うそうじゃない。
なにか言えばまたしゃくりあげてしまいそうで、ぶんぶんと首を横に振る。
「違うの?」
今度はうなずく。
「じゃあ、どうして泣いてるの?」
わかんない。それが分かれば、伝えられれば苦労はない。
「うー、これは質問がだめか。はいかいいえで答えられるやつがいいんだよね?」
心底困ったように、ツクモはわたしの頬に手を当てたまま、目をのぞきこんだ。まるで、そこに答えが極小フォントで書いてあるみたいに。
わたしは小さくうなずいた。ツクモはそれを読みとって、にこっとしたようだった。
この人は何かがわかるといつも嬉しそうだ。それがたとえ、どんなに小さなことであったとしても。
「じゃあね、嫌だったらちゃんと言ってほしいんだけど、えーと」
珍しく口ごもる。
何だ、どうした。
わたしは二、三度、瞬きした。一瞬、涙が止まって、ふっと視界がクリアになった。
「ぎゅってしてもいいかな。こんな時、オレじゃなくてふみちゃんのご両親が一緒にいたら、きっとそうしてくれてるよね。でも今は、いないから。友達だったら、しない?」
ちょっと目の下が赤くなってる。でも、わたしの反応を見逃さないようにだろうか、目はそらさないで、じっとわたしの目を見ていた。
それを聞くか。このタイミングで。
わたしの理想は、こういうとき、聞かなくても察して抱きしめてくれる人だと思ってきた。ほんの、ついさっきまで。
わたしが散々泣いている今このタイミングで、こんなふうにおそるおそる、でも聞いてくれるのがツクモの優しいところだ。わからないことは聞く。思い込みは排除する。この人を知るにつれて、それを野暮だなんて思わなくなっていた。そのことに、やっと今、気がついた。
「はい、か、いいえ、で答えられる質問になってない」
わたしは泣きすぎてちょっとしゃがれた声で言った。
「え? あれ?」
「はい、って言ったら、してもいい、の『はい』か、友達だったらしない、の『はい』か分かんないでしょ。二重質問になってる」
「……あ。ほんとだ」
「いつも頭いいのに。ツクモらしくない」
「こういうのは苦手なの! 映画と一緒」
目の下の赤らみが頬まで広がる。やばい。年上なのに、めっちゃかわいい。
「嫌じゃないし、してもいい」
「ほんと?」
今度はちゃんと、はいかいいえで答えられる質問だった。わたしがうなずくと、わたしの瞳の中の極小フォントでもちゃんと『はい』が書いてあったみたいで、ツクモもにっこりうなずいた。それから、わたしの気が変わったらいつでも止められるためにだろう、ゆっくり両腕を伸ばして、そよ風みたいにふんわり、肩のあたりを抱き寄せてくれた。
もちろん、わたしの気持ちは一ミリも変わらなかった。
ツクモは小さい声で言った。
「あのとき、ふみちゃんが、虫が出た! って電話してくれて、オレ本当に嬉しかったんだ。もちろん誰が何のためにそんなことをしたのかって考えると、そこからさらにまずいことが起こるんじゃないかってものすごく心配だったけど。でもそれはそれとして、ふみちゃんが、何かあった時にオレを頼ってくれてると思ったから。オオミズアオの夜、お父さんは怒ったけど、ふみちゃんからはまだ切られてないってわかったから」
わたしはうなずいた。これは、はい、だ。わたしが困ったとき、真っ先に思い浮かべたのはツクモだった。きっと助けてくれると思ったし、実際、電話越しでもツクモがわたしを助けて、家まで帰らせてくれたのだ。
肩のあたりのシャツの生地におでこをくっつけて、ほんのり甘いバニラの匂いをこっそり肺まで吸い込んで、思った。
この人が好きだ。
ツクモはわたしのことを小さい子か妹みたいにしか思っていないかもしれないけど。
ふわふわした甘ったるい、ちょっといいかも、じゃなくて、こんなにはっきり、誰かのことが好きだと思ったのは初めてだ。
自分に対してそれを認めたら、もっと悔しくなるかな、と思っていたけれど、案外そうでもなかった。その相手がこの人で本当に良かった、と思った。
わたしはおでこをつけたまま、両手をツクモの背中に回して、シャツをきゅっとつかまえた。応えるように、ツクモは腕に力を込めた。ふんわりだったハグが、ぎゅっ、になる。
泣いて乱れていた呼吸が、自然なリズムになるまで、そのままずっとそうしていてくれた。
しばらくして、わたしが「ありがと」と呟いて、背中のシャツを放すと、ツクモも腕の力を緩めた。
呼吸のリズムは自然に戻ったけど、心臓のリズムはずっとアクセルを踏みっぱなしだった。
エアコンを使っていてよかった。窓を開けて網戸にしていたら、何がどれだけ網戸に襲来してきていたことやら。
「おやつ食べよう。ツクモ、まくわうり食べたことある?」
「何それ。知らない」
「果物っぽい野菜。白くて、甘くて、スイカよりもきめが細かくて、シャリシャリしてる。あっさりしたメロンみたいな感じ。塩をちょっと振って食べるんだよ。冷やしてあるから、切ってあげる」
「おいしそう。手伝うよ」
ツクモはすっと立って、わたしが立ち上がるのに手を貸してくれた。
顔を洗って、冷たい果実を食べたら、頬に集まって引かないこの熱もおさまるだろうか。
母が帰ってくるまでに、もうちょっと平常心に戻っておかないと、いろいろ面倒なことになりそうだった。