102 量吉さんの見たもの
翌朝、わたしが目を覚ました時には、日が高く上がっていた。前日の疲れで寝過ごしてしまったらしい。慌てて着替え、階下に降りると、両親はもう病院に向かった後だった。
「あー、やらかした」
独り言を呟きつつ、あまり食欲もわかなかったので、カフェオレとトーストで簡単に朝食を済ませようとしていると、裏口ががたっと開く音がした。
はっとして視線をやると、ツクモがひょいと頭を下げて入ってくる。
「あ、ふみちゃん起きた。おはよう」
「お、おはよう」
ちょうどかじりかけていたトーストがのどにつかえそうになって、わたしは慌てて何気ないふりでカフェオレを飲んでごまかした。
朝からツクモ。裏口からの登場は心臓に悪い。
「コーヒー、いい匂い」
「多めに淹れたから、コーヒーメーカーのサーバーにまだあるよ。マグはそこから適当にとってどうぞ」
わたしは食器棚を指さした。じゃあ遠慮なく、と、ツクモは何のためらいもなく、運送会社の猫のキャラクターがついた景品のマグカップを取ると、コーヒーを注いだ。
順応力高すぎやしないか。一切、客扱いしないわたしもわたしかもしれないけど。
「お砂糖はコンロの横の棚。牛乳もまだあるよ」
「あ、ブラック派だからおかまいなく」
ツクモはカップを持ってわたしの隣に座った。動いた空気に乗って、ほわん、と、もうなじみになった甘いバニラみたいな匂いがわずかにする。
「朝ごはん食べた?」
「うん。ふみちゃんママが作ってくれて、パパと三人で。ふみちゃんママはお休みもらって、手術の間中付き添うから、夕方まで帰ってこないって」
「今は何してたの?」
初めて泊まった家で、コーヒーを自分で注げと言われるのもレアかもしれないけれど、裏口から自由に出入りしているのもかなりレアだと思う。まさに、勝手知ったるなんとやら、である。
「裏の林を見回りがてら、ちょっと昆虫を見に。網は持ってきてないんだけど」
「そんな残念そうに言われても。網持ってたら、今ごろまだ林から離れられなくて、ここに座ってないんじゃないの」
「それもそうか」
「何かいた? って、いないわけないよね」
「うん、いたいた。タマムシがいないかな、と思ってたんだよね。捕れなくてもいいから、飛んでるところだけでも見られないかな、と思って。裏口が見える範囲でしか動かないつもりでいたけど、それでもそれっぽいのが見れたから満足」
「タマムシ?」
「ぴかぴか虹色に光を反射する羽がきれいな甲虫。なきがらをお守り袋に入れて衣装ダンスに一緒にしまっておくと一生着るものに困らない、って言い伝えがあったり、羽の光るところを集めて仏像を納める箱の装飾に使われていたりもするんだよ。聞いたことない? 国宝なんだけど、奈良の法隆寺にある、玉虫厨子っていう工芸品」
言われて、日本史の資料集でそんな写真を見たことをおぼろげに思い出した。螺鈿細工かなにかだと勝手に思い込んでいたけれど、あれ、本当に虫の羽を貼り付けて作っていたのか。知らなくてよかった。受験生当時のわたしがそれを知っていたら、そのページを開けなくなって、勉強に支障が出たに違いない。
「そんな昆虫、この辺にもいるんだ。どこにいるの?」
「エノキやケヤキの葉っぱなんかを食べるから、そういう木の近くを探すんだけど。こういう時間だと、樹冠、ええと、木の梢のほうを飛んでることが多いかな。日の光が当たると、ぴかっと光るんだ。当然ながら、生きてるときが一番きれい」
ツクモはにこにこして言うと、コーヒーを一口飲んだ。
昨日の騒動が嘘みたいだった。あのややこしい話が全部夢で、こうやって目が覚めて、朝ごはんを食べて、それからツクモがうきうきと昆虫採集するのを横から冷やかしていればいい一日だったら、もっとずっと楽しかったに違いない。でも、ツクモはせっかく山にいるのに網も持っていないし家からも離れられない。わたしに何かあるのではと警戒しているのだ。
ままならない現実に、胸が苦しいような気がした。さっき喉につかえかけたトーストのかたまりがずっと引っ掛かっているみたいに居心地が悪い。
ツクモも、もしかしたら似たようなことを考えていたのかもしれない。マグカップを机に置くと、椅子の背もたれにどさっと寄り掛かって、ぼやくように言った。
「昨日も色々ありすぎたよね。こんなことがなければ、もう、ヒシの池の調査もできてた頃なのになあ。季節、変わっちゃうよ」
「スズムシ、マツムシの季節になってきちゃったもんね」
相づちを打つと、ツクモはちょっと眉毛をあげてわたしを見た。
「そういえば、昨日ふみちゃん、電話ですごい面白いこと言ってなかった? スズムシのお化けって何?」
「そこ、今言う? 密室に急にスズムシが湧き出るように現れたら、びっくりするじゃん。わかってくれたと思ってたのに」
わたしが口をとがらせて不満を表明すると、ツクモはちょっと肩をすくめた。
「いや、びっくりするのはわかるよ。でも、なんでお化けだと思ったのかなって」
「それは――」
トラ、スエヨ、ツギエの医院三人娘の、郁子おもてなしスペシャルバージョンだったとおぼしき、待合室百物語のせいだろう。
「昨日、ものすごくたくさん、怪談聞かされたんだよ。そりゃあもう、微に入り細を穿つようなねちっこーいやつを、しこたま。ここら辺の独自のやつもあったし、おばあちゃんたちが話を盛ってるうちに、もはや創作怪談になってるやつもあったんだけど」
「この辺独自の?」
「うん。たとえば、お祭りで御鈴祓いが最後に穢れを流す、蛇の目が淵ね。あそこにも、天人女房みたいな伝説があって」
例の、羽衣ではなくチョウの羽をまとって飛び去った若妻の話をすると、やはりツクモは面白がった。
「そこでチョウになっちゃうんだ。古文書の宮守芳さんも、そこからチョウに包まれて姿を消したんだよね」
「あ、わたしも、聞いてすぐそれ思い出した」
「案外そういう出来事が、典型的な昔話と結びついて、土地の伝説になっていくのかなあ」
そんな、実にどうでもいい話をしていたのだが、何か引っかかるものがあった。何か、ツクモに話していないことがあるような気がする。トラおばあちゃんの顔が脳裏をよぎった。
「そういえば昨日ね。トラおばあちゃんが、一番祟られてたのは量吉さんだって、すごく悔しそうだったんだよ」
「どういうこと?」
「トラおばあちゃんは量吉さんといとこ同士で、きょうだい同然に長年付き合ってきた人なんだけど、『量吉さんは、祟りのことになると意固地になって、娘まで追い出した』って言ってたんだ」
言いながら思い出した。このエピソードだ。これを言っていなかった。
「娘を追い出した?」
「わたしはずっと、れおくんたちは、お母さんの事情で引っ越したって聞かされてきたんだけど、トラおばあちゃんは、量吉さんが追い出したと思ってきたみたいなんだよね。もっとも、トラおばあちゃんも、詳しいことは全然知らなかったみたいなんだ。でも、量吉さんはひどく祟りを怖がってて、そのころまだ子どもだったれおくんのいたずらに震えあがって、祟りがあるからって、娘と孫を追い出したって言うんだよ。量吉さんは寂しいのに意固地になって、体調が悪くなってからも絶対に呼び寄せようとしなかったって。量吉さんは迷信に凝り固まって、祟り怖さに、非情にもシングルマザーの娘を追い出して、結局孤独になって、自分から折れることもしないでかわいそうな最期を迎えたってトラおばあちゃんは思ってるみたいだった」
「量吉さんが祟りを恐れて震えあがるようないたずら」
ツクモは眉をひそめた。
「その話を聞いたときは、れおくんが金山さんだっていうこともまだわかってなかったから、量吉さんが何か気にしすぎてたんだっていうトラおばあちゃんの見方をそのまま受け入れちゃったんだけど、これって、つまり、金山さんの話なんだよね」
「単純に考えると、ご神域に入ったのかな、という想像ができる」
「それだけで、そんな風に震えあがるものなのかなあ」
父だって、ご神域と言っても、別に柵があるわけでもしめ縄があるわけでもない、と言っていたくらいだ。それこそ、境界線をはっきりと知らなければうっかり入ってしまうこともあるだろう。ヒシの池まで行って、その先の谷筋を見たって、遠くまで見渡せるわけではないにせよ、特段周りの風景と変わったことがあるわけではないのだ。
ツクモも首をひねった。
「量吉さんは何を見たんだろう。この近辺で育ったお年寄りたちだって、祟りのことは頭から信じている人ばかりじゃないんだろ?」
「うん。山だし、転んで怪我するとかじゃない? とか。入んなきゃいいだけのことで、知らないよ、とか。まあ迷信の一種でしょって感じで興味がない人も結構いる。だからって、入っていいと思っている人はいないけれど、しきたりだから守らないと、という程度の意識。それに比べて、祟りを本気で信じている量吉さんは変わり者って思われてた印象だった」
「量吉さんだけが、見たんだ。彼が祟りだと信じてしまうようなものを」
ツクモは腕を組んだ。
「これは仮説だけど、やっぱり、捨てがたい」
「ツクモ、なんか思いついたの?」
「昨日の令正さんアレルギー説だよ。顔が腫れていたんじゃないか? ご神域から出てきた令正さんが。その状態で、量吉さんとばったり出くわした。顔がただれるという祟り話の一例もあるんだろ?」
「うん。トラおばあちゃんのお気に入りの説。トラおばあちゃんはお芝居ファンで、とくに四谷怪談が大好きなんだよね。だからお気に入りなだけだと思うんだけど」
四谷怪談は、武家の奥方・岩が夫に裏切られ、毒を盛られて醜い容貌となり、自死したのちに周囲の人間を祟り殺す、言わずと知れた王道の怪談である。隣町の日帰り温泉に定期的に訪れて興行を打つ、地方回りの劇団の、夏の十八番の演目だ。この興行にあわせて温泉に行き、芝居と会食で納涼会を行うのが羽音木シニアクラブの七月の重要イベントなのだ。
「そして、そのトラさんと特に親しかったのが量吉さんだ。いとこが熱心に語っていた祟りが、ご神域から出てきた目の前の男の顔で現実になっている、というのを見たら、そしてその後、その人物が交通事故でその夜のうちに亡くなったという話を聞いたら、量吉さんが祟りの存在を完全に信じこんで震えあがるのもわかる気がする。そして、先代の宮司の話から、量吉さんはおそらく、令正さんが祭りの夜に二度目の<入るなの禁>を犯したということを知っていたはずだ。十年以上がすぎて、こんどは森崎令生が、いたずらで一度ご神域に入ってしまった。だから、量吉さんは、娘と孫を羽音木から遠ざけようとしたんじゃないだろうか。羽音木に来なければ、ご神域に入る心配もしなくていいわけだから。二度目の過ちを万が一にも起こさせないために、羽音木から遠ざけた。だとすると、筋は通る。そして、量吉さんがそれだけ恐れたんなら、れお少年のいたずらは、ひょっとして、祭りの日に起こったんじゃないだろうか」
「例によって、証拠はないけどね」
「証拠はないけど、もしあいつも祭りの日に奥谷に入ったことがあるなら、あいつがお父さんの遺した記録の信憑性を疑わなかった理由としてこれ以上のものはないともいえる。これは、ちょっと怖いと思ったな、オレは。もし、祭りの日に令生がここに来たら」
わたしもはっとした。
「金山さんも、七曜蝶に出会ってしまったら、危ないかもしれないのか」
「推測に過ぎないけどね」
今度は、そう言ったのはツクモのほうだった。物憂げにコーヒーを飲み干すと、彼は立ち上がった。
「もう少し、ふみちゃんのお祖父さんの書き残したものを読んでみないと」
タマムシの生態について、ドルクス様より貴重なご示唆をいただき、一部改稿しました(2021年6月11日)。物語の筋立てに変更はありません。
ドルクス様、温かいアドバイスをありがとうございました!














