101 二度目の禁(後)
「そういえば、チョウを見るのは祭りの時だけです。お守りの材料を集めるのとその他の神事で、僕だけは年に何度か奥谷に入るんですが。イモムシかさなぎなんでしょうね、その他の時期は」
父がのんびり言うと、ツクモは勢い込んで答えた。
「一斉に羽化するタイプのチョウじゃないかと思うんです。いるんです、そういう種類。ああ、生態とか気になるなあ。食草は何なんだろう。羽化の時期を揃えるのは何がトリガーなんだろう。越冬さなぎだと、トリガーは気温のことが多いんだけど、このチョウもさなぎで越冬するのかなあ。でも、羽化が秋のはじめってことは越冬の形態は卵の可能性のほうが高いのか。本当に、ご神域じゃなかったら、すぐにも調べさせていただきたいところなんですけど」
「うん、気になるけど、その話はいったん横に置いておこうよ」
昆虫の話題になって、ツクモのテンションは一気に上がっている。わたしは、まあまあ、となだめて、脱線しかけた話を戻した。
「それよりさ、令正さんが実際に一年前にチョウを見ていたらしいってわかったわけだよね。おじいちゃんの日記と、令正さんのフィールドノートを付き合わせるかぎり。それで、事故については? ツクモ、何か言いかけてたじゃん」
「ああ。それ。あのね、二度目は危険なんだ」
「どういうこと?」
「アレルギーだよ。令正さんが亡くなった時、チョウを捕獲してネットに入れて帰ろうとしていただろう。プラの飼育ケースじゃなくて、ネット」
「それが何か問題なの?」
「大問題なんだよ。普通は、羽を傷つけないように、標本にするチョウは薬品処理して三角紙に包んで持ち帰る。でも、令正さんは量吉さんに見とがめられて、急いでその場を離れようとしていた。それで、バタフライネットに入れたまま、チョウを持ち帰ろうとしたんだ。どこか、落ち着けるところでいったん停車して、薬品処理をするつもりだったのかもしれないけどね」
「それって、そんなに早くすることが重要なんだ。殺しちゃうってことでしょ」
「うん。本当に心が痛むけど、全身の瑕疵がない完璧な標本を得るためには欠かせない操作だし、そういう標本が、ひいてはそのチョウの生態を知って、環境を保全する役に立つんだよ。ま、その話はおいておいて」
さすがツクモ。こんな場面でも、昆虫の話になるとついつい力が入って話があさっての方向に行ってしまう。だが、さすがに今回はツクモも自分で軌道修正して話をつづけた。
「ところで、令正さんは、この前年にも、このチョウを目撃していた。目撃したということは、このチョウの特徴から考えて、おそらく、大量に飛び回っているのを見たはずだ」
「古文書には、あたりを埋め尽くすほどのチョウがいたって書いてあったね」
父もうなずいた。
「ええ。そのくらいいますよ。ちょっと怖いぐらいたくさん」
「これは推測に過ぎないんだけど、古文書には、このチョウの鱗粉や毒針毛でアレルギー発作をおこした可能性をうかがわせる記述があったよね。一年目の遭遇をきっかけに、令正さんの体内で、アレルギー反応を起こす抗体が形成されていたとしたら?」
「一年目の時にはほとんど症状は出なかったのに、ってこと?」
「うん。スズメバチのアレルギーなんかでもよくあるんだけど、二度目に刺されると重症化する」
「あ、聞いたことある。お年寄りたちの誰かが、一度刺されたときは少し腫れたくらいだったのに、花粉症でたまたま血液検査した時に、ドクターが血相を変えて、もう一回スズメバチに刺されたら死にかねないから山に一人で入らないように、って注意されたって聞いた」
「そう、そういう事があるんだ。二度目、事故のあった年に、チョウが大量に発生する現場にいた令正さんは、その時点で既に、少なからぬ量の鱗粉なんかを体に浴びて、たぶん吸い込んでもいたはずだ。さらに六頭ものチョウを、通気性のいいバタフライネットに入れて、車の中に持ち込んだ。当然ながら、車内は密室だ」
よろしくない環境になることが簡単に想像できて、わたしは思わず顔をしかめた。ツクモは話をつづけた。
「こうして、逃げようとした車内でも、鱗粉や毒針毛を吸い込み続けた結果、運転が不可能になるほどの発作が起こってしまった可能性もあると思うんだ。呼吸困難、血圧の低下。その帰結としての、意識障害。ありえないとは言い切れない。もちろん、今となっては推測に過ぎないし、単に恐怖や興奮のせいで、ハンドル操作を誤っただけかもしれないけどね」
「でも、もしそうだとしたら、それって本当に、チョウの祟りみたいな話だね」
わたしは腕を組んだ。
「一度なら許してやろう、でも、二度目は許さない。そういう構造の怪談、ありそう」
「怪談じゃないよ」
ツクモは困ったような顔をした。
「アレルギーは病気だ。ちゃんと対応すれば深刻な事態は防げる。知らなかったり、他の原因に帰属させてしまったりして、不必要にアレルゲンにさらされたり、治療が遅れたりするのが一番問題なんだ。ふみちゃんはわかってると思うけど」
「うん、わかる。祟りだから何をしてもしょうがないとか、不幸な目に遭っても運命だとか、そういうことじゃないよね。アレルギーだと分かってたら、対処の仕方もあるということだよね」
「そうそう」
ツクモはうなずいて続けた。
「でも、ふみちゃんの考え方に一理あることも確かだ。祟りの話に意味がないっていうわけでもないんだ。医学的、科学的な現象の因果関係や対処の仕方を知らなかったとしても、昔の人の知恵で、ご神域だから近寄らない、ご神体だから手を触れずそっとしておく、という関係の持ち方をしてきたことで、七曜蝶と人間が共存できてきたのかもしれない。古文書の中で、良順先生が進言して、集落の人たちの儀式を神社から川べりへ移したよね。それは、もしかすると、チョウが羽化する時期、奥谷にできるだけ人を近づけないようにしていたのかもしれない」
「あ、ツクモが疑問に挙げてたやつだね。なぜ、穢れ落としを神社に戻ってやる伝統を、川べりの仮社での行事に変えたのか」
「あの時も、その前年に、死者の遺体を羽音木山の奥谷に運び込んで、弔いに付き添った遺族がチョウを目撃したという話があっただろ。もしかすると、その次の年、宮守芳の祈祷の現場で手足の腫れや呼吸困難を訴えたのは、この二度目の目撃者たちだったのかもしれない。どこかでこの符合に気がついて、メカニズムはよくわからないながら、七曜蝶の成虫に人々を近づけないように考えたのかもしれない」
「医院文書の、臨終の江月尼と良順先生が話をした記録の辺りに書いてあったね。芳さんが気がついたことをもとに、神事のやり方や虫除守を洗練させたって」
「ふみちゃんがこの前教えてくれた箇所だよね。読んだ読んだ。あれは、伝聞記録だけど、直接経験した人に一番近い人物が書いている。すごい傍証だ。このへんの文化的な考察も、すごく面白そうなんだけど。金山のことがなければもっとこっちの話題に没頭できるのになあ」
ツクモは心底悔しそうに言う。わたしは、こんな緊迫した状況ではあったけれど、思わず苦笑した。
「本当に興味深いとわたしも思うけど、当面の目の前にある危機を回避するためには、その辺の問題はいったん棚上げしとかないといけないかな。それに、お父さんにはちょっとつまらなかったみたい」
父はいつのまにか、ソファの上でぐっすりと眠りこんでいた。