100 二度目の禁(前)
「あいつがここにこだわった経緯がなんとなく見えてきた」
ツクモは、金山さんのお父さんの手帳のページを丁寧にめくりながら言った。
「どういうこと?」
「最初のきっかけは、多分、お父さんなんだ。これは現場でのメモ書きみたいなもので、あちこち省略されている。おそらく、これをもとにした研究記録が、令正さんの遺品にあるんだろう。亡くなったところで絶筆になっているはずだけど」
「どんな研究をしていたの?」
「このノートを見るかぎり、令正さんはリョウキと同じように、昆虫が好きでよく野山を採集に歩いていたようだ。それから、カナヤマ製薬が漢方薬部門に強いせいか、生薬にも興味があったみたいだね。植物と昆虫の採集についての記録が中心だ。だけど、その研究記録の重要性が理解できる人間は、おそらくこれまで、金山家にはいなかった。お兄さんたちは経営を中心に学んでいて、理系の大学院まで進んでいるのはリョウキくらいだ。ほとんど気にも留められていなかったんじゃないか」
「読み返す人もいなかったのかも、彼が手にするまでは」
「存在すら忘れられていてもおかしくないと思うよ。だけど何かのきっかけで、リョウキがこのノートを清書した研究記録を見ることになったとすれば、そこで話は大きく変わる。アマチュア昆虫愛好家で、生物化学分野にも明るいあいつには、ここがとんでもない宝の山だということが分かったはずだ」
「ましてや、顔も見ることができなかったお父さんが道半ばに残した研究となれば、思い入れもあったんだろうね」
「そのへんの心情的な部分はわかんないけど。でも、この記録を読む限り、知ってか知らずかわからないけれど、令正さんがご神域に入り込んで採集活動を行っていたのは間違いなさそうだ。そしてこの手帳を、量吉さんが祭りの夜に拾った。そうですね?」
ツクモに聞かれて父はうなずいた。
「先代の日記を読む限り、そういうことになるでしょうな」
「だから、量吉さんは祟りの心配をしていたんですね。きっと、令正さんがご神域から出てくるのを目撃したんだ。もしかすると、呼び止めて問いただそうとしたかもしれない。ご神域に入ったことが悪いと分かっていれば後ろめたさを、そうでなかったとしても、ただ事ならぬ量吉さんの剣幕に恐怖を感じたであろう令正さんは、手帳を落としたのも構わず逃げ出した。そして、事故に遭った……。ん?」
記録を読んでいたツクモは、眉をひそめた。
「待てよ。それ以上みたいだ」
「それ以上?」
わたしが尋ねると、ツクモは手帳の、記録がつけてある最後の部分を指さした。
「ネット1。B。♂4、♀2?」
本人にしかわからなさそうな符号の羅列だ。
「ここまでの記述から考えて、令正さんは、採集した昆虫を標本にするため持ち帰るのに、バタフライネットや虫かごに番号をつけて、どこで何を捕ったか簡単に手帳に記録をつけていた節があるんだ。最後の記述は、符号一つで後からわかるもの。つまり、彼がこの時の採集で一番手に入れたかったもの。蝶――butterfliesのBだ。オスが四頭、メスが二頭」
「七曜蝶を持ち帰ろうとしていたってこと?」
「おそらくは。かたや量吉さんはこのあたりで生まれ育って、土地の伝説をたくさん聞いてきた。チョウは七曜神社にとって神様の化身のような存在だと理解していたはずだ。ご神域に侵入して、チョウを採集してきた令正さんの行動に、震えあがってもおかしくない。相当な勢いで呼び止めたり、場合によってはチョウを山に返させようとしたりしただろう」
「うん。想像できる。量吉さんは昔気質で口下手だったの。あの人が切羽詰まって声を掛けようとしたら、よく知らない相手は怒られたと思ったり、恐ろしくなったとしても不思議はないかも」
わたしにとっては優しいおじいちゃんだったけれど、社交的に笑ったり相手を安心させようと話術を凝らしたりはしないタイプだった。
「その一方で令正さんは、フィールドノートを落としたとしても、手元のチョウの標本候補は失いたくなかったはずだ。フィールドノートの内容は、家で落ち着いて記憶から再度書き直してもよかったんだから。未記載種を報告するのに、標本は欠かせない。だから、大事な手帳を顧みず、急いでその場を離れた」
「そのあと、事故に遭ったのか。令正さんが無事に帰れれば、すべてが変わっていたかもしれないんだね。れおくんとジュンコさんの人生も、もしかしたら量吉さんの人生も。チョウや草木のことが公表されていたら、羽音木山の景色も、神社も」
「たら、れば、を考えても仕方ないけど、そうだったのかもしれない。でも、事故のことについては、気になることがあるんだ」
ツクモは、さっきまで読んでいたノートのところに戻った。
「気になること?」
「うん。その手がかりが、もしかしたらこっちのノートにあるんじゃないかと思っているんだけど」
ツクモは言いながらページをめくった。
「どういうこと?」
「令正さんは、この前日、祭りのまっただなかの日に、わざわざ調査の依頼をしている。普通に考えたら、他の日は大丈夫だとしてもこの日はダメだって断られておかしくない日なんだ。リョウキも、さっきわざわざ、祭りの日を調査に指定してきた。なぜその日かってことなんだけど」
「神社としては迷惑この上ないよ」
「だろ。ところで、古文書には、チョウは三日三晩、あたりを飛びまわって、その後姿を消した、と書いてあった。ふみちゃんのお父さんは、今、祭りの日にはそのチョウは掃いて捨てるほどいるって言っただろ。つまり、祭りの日がちょうど、七曜蝶が一斉に羽化して飛び回る、年にほんの数日の限られた特別な期間なんだとしたら?」
「チョウ狙いの金山さんや、お父さんの令正さんの強引な日程希望には、その日でなければならない必然性があったということになるのか」
「なぜそれを令正さんが知っていたのか、ということになるんだけど、令正さんはその前年に、偶然チョウを見たんじゃないかな。見たことのないチョウを見たら、調べたいと思うのが昆虫愛好家の人情だ。まずは正攻法で行くだろう。それが、令正さんが亡くなる直前の調査依頼を断ったときの日記に、先代宮司が書いていた、再度、という言葉の意味じゃないかと。つまり、令正さんが亡くなった前年にも、一度は先代宮司に羽音木山の調査の依頼があったんじゃないかと思ったんだ。そして、その一度目の調査依頼についてきっぱり断りたくなるような要素があったんじゃないかとね」
「さっき見た日記に書いてあったのは、一度は断ったのにまた来たから断ったっていう意味だよね。その一度目が、事故の一年前だってこと?」
「うん。実際に七曜蝶を見たのでなければ、そこまで執着しないんじゃないかって思うんだ。執着していた令正さんにとって、その後こっそりご神域に忍び込むのは難しいことではない。ふみちゃんも言ってただろ、別に、電気柵で囲ったりしているわけじゃないって。普段、集落の人が使わない側の山道に車を入れて、途中で停めて歩いて入れば、ほとんど目立たなかったはずだ。調査を重ねて、幼虫やさなぎの観察をした。その上でチョウの羽化する日程に当たりを付けて、再度公式に調査を申し込んだけど、先代宮司のふみちゃんのお祖父さんにすげなく断られた。どう? 筋としては通ると思うけど」
「うん。納得は行く。それで?」
「令正さんはおそらく、このチョウのことが諦めきれなかったんじゃないか。それで、二度断られて正攻法を断念し、強引に忍び込んだんだとしたら? ほら、ビンゴ」
ツクモはわたしに、開いたノートの一ページを見せた。ツクモが見ていたのは、事故の一年前の九月の記述があるノートだった。
「祭りの次の週末。昆虫採集の人間が来ていた、と書いてある」
『九月二十二日
昆虫採集の侵入者あり。呼び止めると、ご神域のチョウの特徴をあげて、こういうチョウを見たことがないかと聞かれた。先週の祭りの時期に、勝手に入っていたのだろうかと思うとぞっとする。ご神域に入るなと言って追い返したが不満そうだった。知らなかったのは仕方がないが、入ってはならないところだとこちらが言っているのに、反省の色がなく不満そうなのが気がかりだ。正式に調査依頼をしたいと言われたが、ご神域を尊重できないようなたちの悪い虫採りに付き合うことはできない。氏子会に連絡して、今後しばらく、不審な車に注意を促さないといけないだろう』
「つまり、この侵入者は、祭りの時期に一度羽音木に来ている。チョウを目撃して、次の週末に再訪し、調査協力を依頼した。その無礼な態度に、ふみちゃんのお祖父さんは危機感を覚えて、追い返した、ということだ。これが、令正さんの一度目の協力依頼なんじゃないかな」














