10 由奈ちゃん
由奈ちゃんは、わたしがあらためて居酒屋のバイトを断ると、すごく残念がった。
「やっぱり無理だったか。お店としては、郁子みたいな人が来てくれるとすごく助かるんだけどなあ」
「ごめんね」
謝るしかない。根回しのつもりで、由奈ちゃんは店長さんにも、わたしのことをすごくよく言ってくれていたらしい。
夏休み前の試験もあと二、三個と終わりが見えてきて、わたしと由奈ちゃん――親友の皆川由奈――は息抜きと称して大学近くのファミレスでおしゃべりに興じていた。
「うー、一緒にできると思ってたからさ。残念! お店のほうは気にしなくても、店長が何とかするから大丈夫だけど。やっぱり、お父さんがだめ?」
わたしの父の口うるささは、友人たちの間でも有名になってしまっている。
「うん。やっぱり、家から距離があるから、夜が中心のシフトで帰りが遅くなるのがあんまり気に入ってなかったみたいで。そこにちょうど神社の方に別件のバイトが持ち込まれたもんだから、もう父は、そっちにしろ! ってなっちゃってさあ」
「あ、じゃあ、バイトはするんだ。よかったー! なら、九月の日帰りGSJは大丈夫だよね?」
GSJ――関西の、映画をテーマにした世界的に有名なテーマパークは、わたしと由奈ちゃんの共通のあこがれの地だった。他の何人かの友達も誘って、大学の後期授業が始まる前の九月下旬に行こうと、往復の夜行バスとパークのフリーパスがセットになっている観光ツアーを予約したところだったのだ。先立つものがないと行けないので、バイトできなければわたしは涙をのんでキャンセルするしかなかったわけだけれど。
「うん、それは行けるはず」
「ねえ、そのバイトって、どんなの? 神社に持ち込みって、変わった仕事なんじゃない?」
由奈ちゃんは目をきらきらさせて、目の前のジンジャーエールを、ストローで氷を溶かすようにかき混ぜた。
由奈ちゃんは同性のわたしから見ても相当な美人だ。多分クラスの誰よりも整った清楚な顔だちをしていて、何もしなくても十分辺りを払うような品と華やかさが備わっている。にもかかわらず、スキンケアやメイク、ヘアケアといった話題には一家言もっていて、自分の魅力を最大限に引き出す努力をおこたらない。
今日も、大学で試験を受けて、こうやっておしゃべりして帰るだけの日なのに、つやつやでウェーブがかった髪の毛は凝った編み込みにして目立ちすぎないアクセサリーを飾り、うなじにふわりとほつれているおくれ毛でさえもかわいい。眉毛は儚げなブラウンに整え、シンプルながら瞳を一番引き立てるであろうアイラインとシャドウを自然に入れ、透き通るような肌色の頬と唇は内側からほんのりにじむ赤みが花びらのようで、相変わらず妖精のように愛らしかった。無造作で自然に見えるように最大限技巧を凝らすという、わたしにはおよそ理解の及ばない高等なテクニックを駆使しているらしい。ワンピースも、さらっと着ているけれど、きゃしゃで小柄な体躯を最大限際立たせて美しく見せる、計算しつくされた色とゆとりと丈感で、バッグと靴の組み合わせも、こうでなきゃという由奈ちゃんなりの理論が必ずあるはずだ。
かたやわたしは、たいていシンプルなTシャツに、デニムかショートパンツ。その上にシャツやパーカーを羽織ったり、羽織らなかったり。自転車に乗る都合もあって荷物は大体リュックサックだし、日傘よりは帽子派。メイクは、とりあえず多少肌色をよく見せられるような日焼け止めを塗って、あとは周囲から浮かない程度に眉や目元を整えて終わり。ショートボブにカットした髪に、凹凸が少なくてひょろりと長身の体型もあいまって、友人たちからは、中学生男子の外見だとからかわれる。見た目で言えば、由奈ちゃんとは正反対の人種だ。
それでも、由奈ちゃんとわたしは気が合った。入学直後、英語の授業で出席番号順に並んで座ったとき、皆川と宮森で、隣同士だったのが最初のきっかけで、それからずっと仲がいい。ドラマや映画が好きだという共通点もあったけれど、それ以上に、お互い自分にないものを持っている人間に好奇心がわくタイプなんだと思う。
「どんなバイトって、難しいなあ。調査研究補助。でも、実際の中身は地味なもんだよ。うーん、なんというか、雑用係?」
どう説明したらいいのかな。
わたしは、ツクモとのメッセージのやり取りを思い返していた。
◇
『バイトの件だけど』
そう前置きして、ツクモがメッセージアプリで送ってよこしたのは、割とちゃんとした契約書の書式と、その内容をわかりやすく別紙にまとめた書類を写真に撮ったものだった。
契約期間は九月末までだけど、実際に勤務する日はツクモからの事前連絡で決まる。わたしのほうで都合が悪かったら、申し出ていい。ツクモは、週に二、三日は来るつもりだと言っていた。
仕事の内容は、野外採集活動の補助と、神社での文書記録作業。基本的にはツクモの指示で動くけれど、場合によってはツクモが来ない日でも仕事をする。採集関係では、実地調査の前日や前々日、土地の持ち主に最終確認をしたり、必要な物資を調達しておいたりする仕事だ。やり方を教えてもらった後には、文書をデジタルデータにする仕事も、場合によってはわたしだけでやってもらうことになるかも、と言われた。データを送るか、次にツクモに会った時に渡せばいいみたい。
就業場所は、うちの近在、すなわち羽音木山周辺となっていた。細目には、七曜神社とその周辺の山林、田畑、宅地、その他雇用者が指示するところ、とある。集落の人家の近くでいい大人が網を振り回していたら、ご近所さんに確実にあきれられるだろうけど、ちゃんとした科学調査だと説明してご理解をいただかないといけない。そういう、地域住民への説明と協力依頼は、基本的にはツクモがやるけど、土地の所有者にアポイントを取ったり、ツクモのことを紹介したり、通りすがりの人に最初に対応したりするのはわたしの仕事。まあ、集落の中はほとんどが子どものころから知っているご近所さんだし、違う集落まで足を延ばしたところで、七曜神社の娘です、と名乗って説明すれば、あの近在ならそれなりに信用して話を聞いてもらえる。ツクモがよほど変なことをしなければ。
報酬は、ツクモが羽音木に来て調査活動をする日は日当制。それ以外の、わたしが単独で指示された仕事をするときには、それぞれの仕事に報酬が設定されていて、やった仕事に応じてバイト代がでるらしい。それも、居酒屋バイトに比べれば、かなり条件のいい報酬だった。
『誰でもいいバイトじゃないからね。七曜神社の関係者であるふみちゃんにお願いするんだから、専門職に準ずる扱いにしてってお願いしてあるから。大学院生に、専門の研究に関連するバイトをお願いするときと同じくらいにしてもらった』
などと、ツクモは言っていた。
思ったよりちゃんとしたアルバイトだったと言える。調査が原因でけがをしたり、病気になったりしたときの労災の手続きもちゃんとある、と言われた。あったら困るけど、破傷風とかのことを言っているんだろう。
ツクボウほどの大企業だからか、こういう臨時雇いのアルバイトについても、対応のフォーマットがある程度決まっているらしい。契約書も、それを説明するレジュメも、会社の事務方さんに作ってもらった書類のようだった。ツクモの名刺を手がかりに、後でちゃんと会社のホームページなんかを調べたお父さんも、研究発表のプレスリリースの時の写真や、公表されている業績で、ツクモの言っていることは嘘ではないと判断していた。
結局、両親に強く勧められた格好で、わたしはツクモにバイトを引き受けると返事した。
『ハラスメントの相談窓口も使えるって。うちの研究所では、総務課のおねーさんが窓口担当』
ツクモはしれっと、そんなことも言ってよこした。
『しっかりしてよ。ツクモがまずいことしなくて、そんなところ使わなくて済むのが一番なんだからね』
そう念を押しておいた。
だから、怪しいバイトではないんだけど、なんとなく、由奈ちゃんにツクモのことは言いにくかった。上司がツクボウの社長の息子だなんて、言ったってふつう信用しない。それか、信じたとしても、たとえば、広告のスポンサーなんだから甘木凉音ちゃんにサインもらったりできないかなあ、なんて、軽いノリでテンションを上げてはしゃぐのが、普通の大学生の反応だと思う。
わたしだって、逆の立場だったらそうだっただろう。
でも、ツクモを見ていると、まるで社長令息っぽくもないし、ミーハーなことを言っても全く通じないか、逆にあきれられそうな気がした。あの時も、商品のことは嬉しそうに話していたけど、凉音ちゃんのすの字も、あいつの口からは出てこなかった。もっともあいつ自身は、昆虫が出てきたらテンションが上がって、きゃあきゃあはしゃぐクチだろうけど。
ましてや、なんでツクモと知り合ったのか由奈ちゃんに追及されたら、あの熱中症放水事件から後の顛末まで話さないといけなくなる。それは、想像するだけでかなり恥ずかしかった。あの時は必死だったけど、後から考えると、わたしの判断も相当おかしかったと思う。
だから、わたしはその辺は全部すっ飛ばして、神社の古文書調査の話からすることにした。
「なんかね、神社の古文書を調べたいんだって。製薬とかやってる会社の文化研究所みたいなところから話があって。それで、神社側の人間の補助がいるって。あと、うちの神社、虫封じでしょ。実際に、今近所にいる昆虫を調べる調査もしたいって言ってて、そっちの資料整理とかの手伝いも。近所の人に説明したりとかは、信用されてる地元の人間が一緒にいないと話が進まないからって」
「へえー。古文書調査とか、文学部っぽいバイトなんだ。いいなあ、さすが神社ってかんじ!」
「そうかなあ」
「よかったじゃん。郁子、夏休み明けたら翻刻の鬼になってたりして。所属講座希望、中世か近世に変えちゃう?」
由奈ちゃんは笑って言ってくれた。明るくて、常に物事を前向きに見てくれる子なのだ。
「やだよー、わたしは近代がいいんだもん。愛しの泉鏡花様っ、待っててくださいねー! ……っていうか、わたしはただの雑用係だからね。いくらなんでも翻刻まではやらなくていいはず」
わたしも調子を合わせて、ふざけて答えた。そのあとは、この前提出したばかりの宇治拾遺物語の課題が難しかったとか、このあとの英語の試験のヤマはどこにはるか、とか、夏休みに友人たちがどうする予定か、とか、たわいもない話題に興じて、バイトの話はしなかった。
でも、由奈ちゃんに嘘とまではいかないけど、隠し事をしているような気がして、なんとなくわたしの気は晴れなかった。














