01 昼下がりのレモネード
「あっつい。あつい、あついあつい!」
言ったところでどうにもなるものではない。
七月のうだるような日差しをさけて、わたしはわずかな道路わきの木陰をのろのろと自転車で進んだ。このままでは家までもたない。どこかで休憩が必要だ。
行く手に、サクラとケヤキのこんもりした塊が見えてきた。今はコミュニティスペースとして住民に開放されている、元小学校の敷地。数年前に、ふもとの小学校に統合される形で使われなくなった、わたしの母校である。子どもたちが毎日通うことがなくなったといっても、地域にとって欠かせない交流の場であるため、敷地の周りにぐるっと植えられている木々は、今でも季節の節目には大事に手入れされて元気に青葉を茂らせている。
家までのそこそこ険しい道のりで、水分を補給できそうなのは、ここに設置されている自動販売機ぐらい。あとに続くのは、コンビニも何もない田舎の山道だけだ。わたしは自転車のハンドルを切って、コミュニティスペースの駐輪場に入った。
鍵なんか掛けるだけ無駄。
門に設置されている掲示板の今日のイベント欄に書かれていたのは、午前中のグラウンドゴルフクラブだけだった。昼過ぎのこの時間ともなれば、朝方のまだ多少なりとも涼しいうちにグラウンドゴルフを楽しんだおじいちゃんおばあちゃんも、とっくに冷房の効いた自宅で昼寝かテレビタイムをすごしている頃だ。ましてや、こんなところにこんな時間、自転車泥棒に来るようなもの好きはいない。
建物の鍵は掛かっていたが、自動販売機は戸外に設置されているため、誰でも使えるようになっている。こんな日にはありがたかった。
冷えすぎるくらい冷えたレモネードのペットボトルを持って、わたしは元校舎を回り込み、今は遊具を生かして公園として利用されている、元校庭へと入った。
先ほど、町の防災無線で、食中毒と熱中症を予防するよう促す、無機質なアナウンスが入ったところだった。この地域にいる数少ない子どもも、たいてい保育園かふもとの小学校の学童保育に預けられていて、こんなに日の高い時間にはこのあたりにいない。公園はがらんとしていた。
わたしだって、好きこのんでこんな時間に出てきたわけではない。
明日締め切りのレポートがなければ、今頃、アイスでも食べながら家で漫画を読んでいたはずなのだ。せめて昨日帰宅する前に、レポートを印字するコピー用紙を切らしていることを思い出していたら、途中で買って帰って、今頃は涼しい家の中で、室町時代の書物の変体仮名を現代の活字になおす――翻刻という作業である――べく、悪戦苦闘していたはずだ。
大学を卒業した瞬間にきっと何の役にも立たなくなる知識を、今必死に詰め込んでいることに、貴族的な喜びを感じないではない。大学時代は人生の夏休み、何の役にも立たないことに優雅に時間を使っても許される時間だよ、などと言っていた、先輩の言葉を思い出す。が、わたし自身の興味はもう少し近現代にあったので、ミミズののたくったような毛筆の手跡を、教科書や字典と首っ引きで一文字一文字拾い上げていく作業は、「貴族的な喜び」とでも思わないとやっていられない厄介な宿題なのは確かだった。
帰ったら、やらなければならない。めんどくさいな。
好きで入った文学部なのに、めんどくさいなんて、贅沢だと思うけれど。
わたしは、校木だった大きなクスノキの下のブランコに腰掛けて、レモネードの封を切った。口に含むと、さわやかな酸味と強い甘味が舌に広がる。ごくんと飲み込んで、冷たい感触がすうっとのどから胃へと下りていくのを楽しんだ。ここにはこんな風によく立ち寄るので、この自動販売機のレモネードは、ほとんどわたしが一人で飲んでいるのではないかと思う。
わたしはゆったりとブランコをゆすった。それでも、鉄道駅のあるふもとの街よりは幾分標高が高く、コンクリートの建物や舗装が少ないせいか、木陰を通る風は涼しかった。
先週カットしたばかりの髪が、風にあぶられて首筋をくすぐる。切ってよかった。水分をとったせいでまたどっと出てきた汗が引くように、わたしはTシャツの襟のあたりをつまんでパタパタと中に風を送った。二十歳の女子大生としてはあまり見られた格好ではないかもしれないが、どうせ誰もいない。
課題、あと何ページあったかな。楽しみにしていた夜のTVドラマまでに終わるだろうか。終わらなければ、ドラマのあと、もうひと踏ん張りしなくちゃいけない。それは避けたい。録画予約はセットしてあるけれど、できるだけリアルタイムで見たいし、ドラマの後の時間は空けておきたい。リアルタイムで見ないと、つぶやきアプリでフォローしているドラマファンの人たちが悪気なくネタバレつぶやきで盛り上がるのをうっかり見てしまう危険もあるし、なんといっても、見終わったらすぐに、余韻を楽しみつつ、親友の由奈ちゃんと感想をメッセージでやりとりしたいのだ。
今クール一番楽しみに見ていた刑事物のサスペンスドラマは今日が山場のはずだった。先週、ヒロインが悪漢の組織にさらわれた。ヒロインの監禁されている自動車にセットされた時限爆弾のタイムリミットが来る前に、ヒーローは見つけて助け出して解除キーを打ち込まなければいけない。可能なんだろうか。
そんなことをとりとめもなく考えていたせいで、わたしは、背後に忍び寄る物音にも人影にも、全く気が付いていなかったのだ。
その瞬間は全く何の前触れもなく、唐突に訪れた。
ばさっ!
突然視界が真っ白になった。