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けいぼう

 目を開けたら、真っ暗だった。

それもそのはずで、こっくりこっくり眠気に負けていくうちに私は顔を伏せていたのだ。顔をあげると、まだ授業が行われていた。隣の梨沙子も顔を伏せて、睡眠学習の真っ最中だった。

 私は大講義室の真ん中より少し後ろに座っていたが、前はガラ空きで、ちらほら座っているぐらいだった。前の数人を除いて、後ろを見れば、七割が机に顔を突っ伏していた。私は眠気に負ける前まで書いていたノートの続きを急いで書き始めた。

 金融論と名を打っている授業だったが、金融に関する理論というよりも理解不能な数式が並ぶ。しかし到底理解できないであろう数式が並ぶことよりも教授の声が極端に小さいことのほうが教室内の大半を沈没させる要因だと思う。

 終わりのチャイムが鳴る三分前には沈没組もみんな起きて、そそくさと帰る用意を始めていた。

「かをり、もう授業無いの?」

 一緒に授業を受けていた、浜中梨沙子が伸びをしながら私に尋ねてきた。昨晩は下宿しているみんなで一晩中カラオケをしていたらしい。実家暮らしの子も呼ばれていたようで、梨沙子が私にも声をかけてくれていたが、あいにく次の日に授業で行われる英語のプレゼン発表の原稿をまだ作っていなかったため参加することが出来なかったのだ。

「もうこれで終わり。梨沙子も無いんでしょ」

「無いけど、サークルの集まりがあるの。そういや、明日からゼミ合宿だよね?」

 梨沙子がそう言って、講義室の重いドアを開けた。むわっとした湿気と暑さが同時にやってきた。講義室は寒いぐらいだったのに、一気に蒸し暑さで汗が吹き出す。

「その通り」

「わざわざ田舎に行くなんて、物好きだよねえ。ご愁傷様です」

 梨沙子は明らかに私の反応を楽しんでいるようだった。梨沙子のゼミは合宿などしないらしい。だけど、私のゼミは「地域創生」もテーマにしているから、授業時間以外での活動も多いのだ。

「現地に行くからこそ、分かることがあんの!フィールドワークよ、フィールドワーク」

「ふうん。私は都会でショッピングして、スマホいじって、友達とダラダラしてるほうが好きだけど」

「そうやって軟弱な現代人が出来上がるんだ」

「あ、現代人の底力をなめんなよ」

 梨沙子が私に舌を出したところで、ポケットに入れていたスマホが振動した。取り出して見てみると、ゼミ長から電話がかかってきていた。出てみると、どうやら今教授の研究室にいるらしい。要件は明日のゼミ合宿のことで研究室に来てほしいということで、手短に電話は切れた。

「研究室に行かなきゃなんなくなった」

「いいじゃん。どうせ今帰ったって、バスは混んでるよ」

「まあそうだね」

 大学から大学の最寄駅までシャトルバスが出ているのだが、授業終わり直後はいつも長打の列が出来ていたし、この四限終わりは特に混んでいるのだ。

 三階にあった講義室から階段を下り、建物から出ると、目が眩むほどの日差しが降り注いでいた。わりと田舎のほうに建てられている私のキャンパスは敷地だけは広い。講義室を出たときに感じた蒸し暑さとは比にならない。日に当たる肌が痛いぐらいだ。青空を見上げると、鳥が数羽横切った。

「知ってる?さあちゃんと由紀君付き合ったんだって」

 歩きだすと、梨沙子が私に耳打ちするように話し出した。「さあちゃん」と「由紀君」というのは私と梨沙子のクラスメイトだった。入学時に振り分けられたクラスで私と梨沙子は仲良くなった。一回生から一年間、大学に慣れるまで上回生がサポートしてくれるという名目のクラスだったが、そこでカップルが誕生することも珍しくなかった。

「ふうん」

「反応薄っす」

 まあそんな反応だとは思ってたけどさあ、と梨沙子が笑った。梨沙子は自分のそばかすを気にしていたが、私は梨沙子の笑顔にそばかすは合っている気がした。むしろ私はそれがチャームポイントだと思っているが、梨沙子はそう思わないらしい。

 梨沙子はクラスの誰とでも話すタイプで、人当たりも良い。この二人ともそれなりに仲が良かったからビックニュースなのかもしれないが、私からしてみれば驚くほど二人を知らない。廊下で会ったら、愛想笑いで「おー、久しぶり」と三回に一回言うか言わないかぐらいの仲だ。

「かをりはどんな人がタイプなの?由紀君だってそれなりにカッコいいのに、見向きもしなかったじゃん」

「見た目が良い人ってなんか信用出来なくない?遊んでそうっていうか」

「偏見だよ、それ」

「そうかなあ」

 結構信憑性があるデータだと思うが、梨沙子は全く信じていないようだった。そもそも梨沙子とは仲が良いものの、きっと大学で出会ったから、私たちは話すようになったけど、もしも中学や高校で同じクラスになっても、同じグループにはならなかっただろう。梨沙子の他の友達はいかにも文化祭や体育祭など学生行事をエンジョイしていたであろう人たちばかりだった。

「まあ良かったじゃない。その恩恵を授かりたいもんだね」

 梨沙子はまだ何か言いたげだったけど、サークルの集まりがある号棟がすぐそこだったので話もそこそこに別れ、私は教授の研究室を目指してまた歩き出した。

 研究室は図書館と同じ棟にある。棟に入ると、クーラーが効いていて、汗がひんやりしてきて、鳥肌が立った。エレベーターに乗り込んだ。エレベーターの中に設置されている鏡を見ると、おでこに赤い跡がついていた。きっと授業でうたた寝していた時についたものだ。何とかこすってマシにならないか試してみたが、余計に赤くなるだけだった。

教授のネームプレートがかけられている扉を開くと、ぎゅうぎゅう詰めの部屋にもうゼミ生は揃っていて、私が最後だった。

「ここ空いてる?」

「うん。なんか今、合宿でどんなことするか決めてるところ。フィールドワークでどこに視察行くかって」

 私はみやりんの隣に座った。みやりんは机の下でちゃっかり携帯をいじっているようで、画面には芸能人のブログが映し出されている。

 みやりんこと斎藤美弥はゼミ生のなかでも、仲が良い。髪はボブでインナーカラーとしてオレンジ色を入れているというイマドキ女子だ。ゼミ生同士が初めて会う顔合わせの場で話して仲良くなった。見た目は派手だが、話してみると案外話しやすい。

ふと視線を前のホワイトボードに移すと、ゼミ長の原田と目が合った。

「かをり、何か案ある?」

「え、うーんと」

 いきなり指名され、戸惑っていると、横からみやりんがクスクス笑っていた。ホワイトボードの横には原田が立っていて、眼鏡のレンズ越しに私を見ている。レンズに光が反射して、レンズがブルーに光っていた。ブルーライトカット用のレンズなのかもしれない。ブルーという色味が原田の人柄を際立たせているようにも見えた。

 原田智也はゼミ長で、大学の広報誌を作るサークルの部長も勤めているというしっかり者だ。私はこんな立派にはなれまい、と尊敬していると同時に少し苦手でもあった。

「この合宿の目的って、地域創生でしょ。だから、その―――うーんと、まずは住民の人に話を聞いて、住民の人が地域に持っている印象と、外部の私たちの印象を比較してみるのはどうかな。ただ場所見るだけじゃ分かんないことも多いし」

 私はなんとか答えをひねり出した。ありがちな意見を苦しまぎれに出したが、それでゼミ長は納得したらしい。丁寧にホワイトボードにかきだした。

「やるう」みやりんがボブカットの髪を揺らしながら、笑った。

「やめてよ」

 原田は他の子に話を振った。一通り全員に話を聞くと、ホワイトボードを整理し、一番手前の子に「ホワイトボード写真撮っておいて」と頼んだ。

「じゃあ、明日は八時半に駅前のハナクチの駐車場集合で」

ゼミ長がそう締めくくり、案外すんなりと研究室での話し合いは終わった。ハナクチというのは駅のすぐそばにあるスーパーで、いつも下宿生で賑わっている。私も何度か利用したことがあるが、ものの十分もしないうちに、下宿生の友達に必ず出会うことが出来る。

 さらにその周辺ときたら、ほぼ何も無いのでハナクチが閉まる深夜一時時頃はハナクチの明かりだけが真っ暗な中で煌々と輝いている。そしてその明かりに不真面目な下宿生がフラフラと蛾のごとく寄ってくるので、ハナクチの閉店時間ギリギリに買い出しへ行くことをハナクチホイホイ、略してハナホイと学生の間では言われている。どちらかというと、下宿生ホイホイなのだが、語呂が良いからか、ハナホイが定着している。

 研究室にかけられている傾いた時計を見ると、ちょうど五時を回ったぐらいだった。まだ大学の図書館は開いている。本を借りて帰ろう。確か新しく本を仕入れたと図書館入口のお知らせ看板にプリントが貼られていたはずだ。

「それにしても明日早すぎない?起きられるかな」遅刻常習犯のみやりんはため息をついた。「寝坊しないようにオールしよっかな」

「その前に早く寝たら?」

「そりゃそうだけどう。早く寝れないもん」

「明日寝坊したら、きっと置いてかれるよ。ゼミ長が運転らしいから」

「だよねえ。死ぬ気で起きよ。気合だ」

 みやりんはスマホのアラームを五分ごとに設定し始めたので、確かにみやりんの「死ぬ気」が伝わってきた。

「じゃあ私、図書館寄って帰るから」

 私が立ち上がると、みやりんも慌てて立ち上がった。どうやら一緒に図書館へ行きたいらしい。借りていた本の延滞がものすごいことになっている、と思い出したようだ。幸い、本は研究室に置きっ放しだったらしく、上から積み上げられている教授の本を退かし、自分の本を引っ張り出した。

「ねえ、また運動始めないの?」

 研究室を出ると、みやりんは唐突にそう切り出した。みやりんの言う、運動とはきっと陸上のことだろう。

私は大学に入学するまで、部活で陸上をしていた。中学、高校と六年間やっていたわけだが、特別速いわけでも、遅いわけでもなく、高校卒業時に自然と辞めてしまった。二週間ほど前にたまたまみやりんに私が走っている動画を見せたら、私の走る姿が意外に良かったのか、こういうことをたまに言うようになった。

「私は運動とかよく分かんないけどさ、すごい速かったじゃん。かをりは走ってる時が一番輝いてるんだって。なんか生きてるって感じ!」

「つまり今は死んでいる、と」

「そうは言ってないけどさあ」

「冗談だよ。運動っていうか、陸上ね。何度も言ってるけど、陸上してる人の中じゃ、全然速くないんだよ」

「一位だったのに?」

「あの動画の組は私より少し遅い人が多かったの。だから、たまたまなんだよ」

 まだ話を続けようとするみやりんを振り切るように、私は若干歩調を速めた。

図書館に着くと、みやりんは若干司書の人に怒られながらも、本を返すミッションは無事遂行された。お互いに分かれて、目当ての本を探しに本棚の間を歩いていると、ちょうど壁沿いの棚に新しく入荷された本が並べられているのを見つけた。入荷されたての本は結構借りられていたが、自分が読みたい本はまだ棚の中にあった。

本棚の右側にある窓からオレンジ色の光が差し込んで、私と本棚を照らした。窓から夕焼けがくっきりと見えた。太陽の周りの雲はオレンジ色に照らされているけど、紫だったり、赤だったり、その色が混ざっていたり、不思議な色だった。

「なにしてんの?」

振り返ると、みやりんが立っていた。どうやら、もうすでに自分が借りたい本を見つけて、私を探しに来たようだ。

「ううん、別に」

「本あったの?」

「あった。ちょうど借りられてなかった」

 一度だけ母親と同じような夕焼けを見た。その時もとても綺麗だった。まるであの夕焼けの向こう側には違う世界が広がっているみたいだった。こことは違う、想像もつかない世界。

無いことは分かっている。でも、あったらと考えたら面白い。それを母親に言ったところ、「あんたがそんなこと言うとは思わなかった。一体いくつなの?もういい歳なんだから、しっかりしてよ」と言われて、随分と呆れたような目で見られてしまったのだ。それからというもの、私はこういうことは他人に言わないようにしている。私だって「痛い人」だと思われたいわけではない。友達からもあんな目で見られたら、私の心はきっとズタボロになることだろう。

貸し出しカウンターでそれぞれ本を借りると、トイレに行くことにした。みやりんも行きたかったらしい。館内のトイレに行くには非常階段を横切って行かないといけない。非常階段は薄暗くて、私は少し苦手だった。だけど、今回はみやりんもいるからまだマシだ。一人でいると、いつも早足で逃げるようにして抜けて行く。

「ここ気味悪くない?いっつも私――」

 カンカカンカッと何か硬い物が落ちる音がした。ヒールの音とは違って、何かがアクリルの階段を跳ねた感じだ。

 階段は非常階段のランプで緑色に光っている。いつもと変わらないけど、なんだか怪しげに思えた。恐る恐る階段を数段上ると、踊り場に石が落ちていた。だけど、その辺の道端に落ちているような石とは違う。直径が七センチくらいあるし、何よりも石が緑色なのだ。ランプに照らされてではなく、石自体が緑色だった。

「なんか宝石みたい」

 踊り場からさらに上段を見上げて、誰か居ないか確かめたが誰もいなかった。でも、自然にこんな綺麗な石が落ちて来るはずがない。きっと誰かが上る時に落として気付かなかったに違いない。何に使うのかはさっぱりわからないけど。

「ねえ、みやりん」

振り返ったら、みやりんはいなかった。私に気付かず、先に行ってしまったのかもしれない。

「あのう!誰かいませんか?」

誰からも返事が返ってこない。私の声が壁に反響して、何人も私がいるみたいだった。

 なんだか気持ち悪い。薄暗いし、寒気もしてきた。石を右手に持ちながら、腕で身体を擦る。こんな夏に階段で怪談とかシャレにならないし、ダジャレでも面白くない。

元の場所へ置いておこうか。私は一瞬迷ったけれど、カウンターにまで持っていくことにした。ただの石じゃなさそうだし、高価なものかもしれない。

「これが落ちてたの?」

カウンターに座っていた三十代半ばぐらいの女性はフチなしの眼鏡をぐいっとあげた。

「はい」

「これに―――拾った場所と拾った日時、それとあなたの名前、学籍番号をここに書いてください。時間はだいたいでいいですから」

「はい」

 女性はカウンターの引き出しから紙を出して、石を興味深そうに観察していた。

紙は図書館の忘れ物リストだった。そこには様々な物が書かれてあり、発見場所はトイレや自習机が多い。私は非常階段、と書いた。

「持ち主見つかりそうですか?」

「うーん、分からないわねえ。色や大きさからして誰かの持ち物なのは間違いないと思うけど―――落とし物ってあんまり持ち主見つからないから」携帯とかは別だけど、と付け加えた。

「そうですか」

 私が書き終えると、女性は担当者名、という枠に鈴木と書いた。女性の名札を見ると、確かに鈴木と書かれている。

「トイレにいないと思ったら、ここにいたの?」

 みやりんが用を足し終えたのか、私の隣にやって来た。

「落し物拾ったの。みやりん先に行っちゃうんだもん」

「こっちだって、気付いたらかをりいないんだよ。おかげで途中まで一人で話してた」

 女性は一旦立ち上がり、何か手続きが終わったのか、またカウンターの椅子に戻ってきた。

「はい、ではこちらで預かっておきますね」

「じゃあ、よろしくお願いします」

 最後に振り返ってみると、まるで合図かなんかみたいに石がキラリと光ったような気がした。

私が借りたい本を借りて、用を足すと、みやりんと二人で図書館を出た。もう夕日は沈んで、外は薄暗くなっていた。

「明日のゼミ合宿やだねえ」

「そうだね。でも寝坊しちゃ駄目だからね」

 私がそう言うと、「分かってるってば」とみやりんが口を尖らせた。日が沈んでも、蒸し暑い。私は襟元をつまんで、ぱたぱたと仰いだ。バスはもう空いていて、すぐに乗ることが出来た。二人掛けに腰掛けると、みやりんはすぐに携帯を取り出した。

「うわあ、明日の持ち物とか連絡来てるよ」

「いつもドライヤーとか持っていくか迷うんだよね」

「かをりってどうでもいいことで、ものすっごく悩むよね」

 そうだろうか。思い返してみても、思い当たるふしは無い。だけど確かに細かいことでよく悩んで、ぐちぐち考えてしまうことはあるかもしれない。

一着服を買う時も、三時間悩んで、結局何も買わずに帰ったり、外食する時も一番最後までメニューと睨めっこしているのは私だったりする。

「でも髪の毛は突然ショートカットにしたりするし、よく分かんない」

「思い立ったが吉日って言うし―――それに髪の毛は別に大したことじゃないよ。また伸びるんだから」

 私は三週間ほど前に突然ショートカットにしたくなり、伸ばしていた髪を肩口あたりまで切ってもらったのだ。あまりにも突然だったので、みやりんやその他の仲良い友達は初め、髪が短くなった私に気づかなかったらしい。そしてなぜかみやりんは私が髪を切ったことに怒っているようだった。

 みやりんに言わせれば、ヘアーカットする前日に会う友達に髪を切ることを知らせることが「普通」だという。だけど、「もっと私に相談してくれば、アドバイスしたのに」とぷんぷん怒りながらも、しっかり褒めてくれるところはみやりんらしい。でも、私は未だにみやりんがどうしてあんなに怒ったのか理解出来ないでいる。

「みやりんは将来アパレル系とか向いてるんじゃない?」

「実はちょっと目指してたんだあ」

 みやりんはよく人にネイルもしてあげているし、ファッションセンスもピカイチで、いろんな人にファッションアドバイスをしている。頼まれてもいないのに、アドバイスは口から滑り出してしまうらしい。

「かをりは?なんか考えてんでしょ、将来」

「んー、まだ今のところは何も。就きたい職業もないしねえ」

「かをりが働いてるところ、想像出来ないなあ」

「人に話題を振っておいてなにそれ。一応バイトだってやってるんだけど」

 パン屋のバイトはオープンからずっと続けていて、もうすぐ一年になる。それまでに個人経営のイタリアンでもバイトはしていたけど、経営難で潰れてしまった。でも、それは私が好きで辞めたわけじゃない。 

 私のバイト遍歴はそんなに豊富じゃない。まず初めに居酒屋でバイトを始めたけど、人間関係が面倒で辞めてしまった。バイトメンバーが多いと楽しいけど、それなりにグループも出来るし、上下関係もあったりして、小さな学校みたいになる。そこに私はうまく馴染めなかった。その次はイタリアンで経営難で潰れたけど、バイトのなかでも仲が良かった子と店が潰れてから、ランチを食べに行ったら、先輩から私が裏で陰口を言われていたということを聞かされて、店が潰れて結構日にちが経っていたのに、心が深手の傷を負った。

「いや、なんて言うかさあ」みやりんはそう言うと、黙り込んだ。そして、誤解与える言い方かもしんないけど、と前置きをしてから口を開いた。

「なんかかをりの今までのバイト先のこと聞いててさ―――もちろん向こうが悪いんだよ。仲間外れにしたり、悪口言ったり、そういうのはおかしいと思うんだけど―――かをりと話してるとさ、時々自分がすごい間違ってるような気分になるんだよね」

バスがガタンと大きく揺れた。ちょうどタイヤの上にある座席に座っていたため、衝撃は大きかったが、私は気にならなかった。

「いや、あれだよ。かをりが私にそういうふうに思わせようとしてるとかは全く思っていないし、むしろ私はそういうところがかをりの個性だし、良いなって思っている部分っていうか―――人間合う、合わないがあるし」

「つまりどういうこと?もし私がみやりんを傷つけるようなことを言っていたなら―――」

「違う違う!そういうことじゃない!」みやりんは慌てて自分の顔の前で手を大きく横に振った。「伝えるって難しいなあ。なんか私が思っていることは感覚的なことなんだよね――かをりは深海から陸に打ち上げられた深海魚って感じなんだよ」

 私の頭には突然チョウチンアンコウが浮かんできた。ただみやりんはずっと「かをりは何も悪くないことだけは誤解しないで」と繰り返していた。

「なんて言うのかなあ。深海ではピューって泳ぐのに、陸に上がった途端、苦しくて口とかパクパクさせてる感じがかをりに当てはまるなあって思うんだよなあ。なんかここでは生きづらそうだなっていうか―――私が勝手にそう思ってるだけだけど」

 私って傍から見たら、そんなふうに見えるんだ。ショックではないけど、べつに嬉しくもない。何とも言えない気持ちだった。

「ああ、私の語彙力じゃ誤解無しには伝えきれないな。ただなんか時々―――価値観がものすごく違うなって思うことがあるんだ。誰とだって価値観は違うけど、それより遥かに違うなって思うことがあるんだよ」みやりんはまるで何かを閃いた名探偵のように指をパチンと鳴らした。「そう、価値観!価値観って便利な言葉だよね。もっとかをりの価値観にピッタリ合うところがあるんじゃないかなあって思う。それが外国で見つかるのか、大学で見つかるのか、就職で見つかるのか、分からないけど」

 みやりんは私の推測だけど、と付け加えた。自分の思ったことが上手く言えたらしい。満足気だった。私自身、別にコミュニケーション能力は問題なかったと思うのに、急に自信が無くなってしまった。。

「もしかして私、かなり余計なこと言っちゃった?」

「そんなことないよ。ありがとう、自分じゃ気付かないことだったし」

 私がそう言うと、みやりんはほっとしたような顔をした。窓にもたれかかると、すぐに眠気がやって来た。バスで駅まで二十分ほどだ。うたた寝をしていると、みやりんに起こされて、起き抜けにエスカレーターをダッシュして、改札の前で少しもたついて、何とか電車に乗り込んだ。ゼイゼイ上がる息を抑えながら、二人で空いていた椅子に座りこんだ。

「バスで涼んだのに、また汗だくだよ」みやりんは顔を真っ赤にして、そう言った。

「でも、乗れてよかったじゃない」

「まあそれはそうだけどさあ」

 私たちの大学の最寄り駅には快速と普通の二種類しか止まらない。しかも普通なんて、私が走ったほうが速いんじゃないかってぐらい鈍間で、快速を乗り過ごしたら、次に来る普通を見送って、快速を待たなきゃいけない。

 四人掛けのシートには私たちしか座っておらず、周りにも乗客はそれほどいなかった。扇風機の風を受けて、前髪がふわっと浮き上がると同時に汗がひんやりとした。

しばらく私は窓の外を見つめていたが、そのうち目をつぶってしまっていたらしい。すっかり眠り込んでいた。肩を叩かれたような気がして、目を覚ますと、みやりんが心配そうに私の顔を覗き込んでいた。

「大丈夫?なんかうなされてたけど」

 夢から覚めた途端、今度は一体どんな内容だったのか、綺麗さっぱり忘れてしまった。うなされてたってことはきっと悪い夢に違いない。その証拠に汗をびっしょりかいていた。

 住宅地にはもう明かりが灯っていた。まもなく窓ガラスにぽつりぽつりと水滴が落ち始めて、すぐに大粒の水滴が窓一面に張り付き始めた。ゴロゴロと、雷の音もする。遠くの方で光っているのが見えた。大きな渦巻く雨雲が電車を丸ごと飲み込んでしまいそうだった。

 私がまだ幼稚園ぐらいの時に、絵本の読み聞かせで読んでもらった絵本の話に似ている。確か有名な話だったはずだけど、どうしても思い出せなかった。

「あちゃー。雨だ、傘持ってきてないよう」

「私も持ってきてない」

「かをりが降りるまでには止んでるかもよ。多分通り雨だろうし。問題は私だよ。次降りるんだもん」

 みやりんはぶつくさ文句言いながらも、乗り換えの電車の時刻を携帯で確認し始めた。

「やった!特急が来る。駅から駅まで乗り換え三分弱で済むかな」

「めっちゃ走ったら出来るんじゃない?そんなに離れてないし」

「電車ついたら、扉開いた瞬間ダッシュだな」

 電車が徐々にスピードを落とし、ちらほらと座っていた人がドア付近に立ち始めた。雨は一向に降り止む気配は無い。

「じゃあね!また明日」

「うん。寝坊しちゃだめだよ」

「そっちもね」

 みやりんが乗り換える駅は結構大きな駅で、多くの乗り換え路線と繋がっているため、車内にいた少なかった乗客もほとんど降りてしまった。普段ならここでまた新たに乗客が続々と乗車してくるのだが、今日は別の線で事故があったらしく、あまり乗ってこなかった。きっと、これよりも一本、二本後が地獄のように混むだろう。

 電車が発車しても、雨は強くなるばかりだった。空に浮かぶ黒い雲を見ていると、絵本の内容を思いだした。ノアの箱舟だ。幼いながらにも、結構神様って残酷なんだな、と思った記憶がある。ノアに選ばれなければ、津波に飲まれて死んでしまうのだから。もし実際にそうなったら、私は舟に乗ることが出来るかな。もしノアがみやりんならば、乗せてくれるかもしれない。梨沙子でも乗せてくれるかもしれないけど、ゼミ長の原田なら、助けても役に立たないとか言って、見捨てられそうだ。

というか、それよりも将来のためにはこんな馬鹿げたことを考えるよりも、先に考えなきゃならないことはたくさんある。資格とか取ったほうが良いって友達は言っていたし、今のうちからビジネスマナーを身につけておかなきゃ就職してから苦労するとも聞いた。かく言う私は今のところどちらも習得出来ていない。自分が本当に役立たずの無能に思えてきた。出来ないことはゴマンとあるのに、満足に出来ることはひとつもない。かと言って、「何が出来ないのですか?」と改まって聞かれても、答えに詰まってしまう。そういうものなのだ。

 みやりんの予想は外れて、私が降りる駅に到着してもまだ雨は降り続いていた。そういえば、みやりんは特急への乗り換えに間に合ったのだろうか。私はカバンを頭の上に抱えて、雨に濡れぬように家路についた。

 最寄り駅から十分ほど歩いたところに自宅がある。家には誰もいなかった。私は母親と父親、それに妹との四人暮らしだが、家族揃っての夕食はここ最近行われていない。少なくともここに半年は家で夕食の際はいつも一人だった。何てこともない一軒家だけど、子供のころはマンション暮らしで私が中学生へ、そして妹が小学四年生へ進学するときに、両親が奮発し、頑張ったのだろう。この一軒家へ引っ越してきた。

 二階のリビングの電気をつけると、テーブルの上に作り置きの夕ご飯とメモが置かれていた。夕ご飯はオムライスで、コンソメスープも付いている。メモにはパート先の友達とご飯に行くことと、冷蔵庫にサラダが入っていることが書かれていた。きっと妹は部活だろうし、お父さんはまだ仕事だろう。服を着替えて、手を洗うと、冷えてしまったオムライスを電子レンジに入れた。

「疲れたあ」

 椅子に座って、携帯をチェックすると、みやりんから連絡が入っていた。明日の合宿のことだった。シャンプーを持っていくかどうかの確認で、私は持って行かない、とだけ返信してテーブルに突っ伏した。

 合宿は地元の公民館に泊まるらしい。布団とか冷蔵庫とか一通り揃っていて、夜は地元のスーパー銭湯に行く、とゼミ生の連絡網で回ってきた。スーパー銭湯ならば、シャンプーとドライヤーくらいあるだろう。髪の毛はガシガシになるかもしれないけど。

 軽快な電子レンジの音が鳴り、立ち上がった。

「あっちっち―――布巾、布巾!」

 台所から慌てて布巾を取り出して、布巾ごしにお皿を取り出した。入れ替わりにスープを温めなおしている間にサラダとドレッシングをテーブルに持ってくると、ちょうどスープが温かくなった頃だった。

「いただきまあす」

 図書館で拾った石のことなんてすっかり忘れていた。記憶の彼方へ行っていたのに。嫌なこともすぐに忘れてしまうのが自分の良いところだった。母親にも「あんた、いい性格してるわね」と言われたことがある。この言葉は盛大に皮肉が籠っているけど、どんなことでも明日まで持ち越さないことが結構自分の長所だと思う。

 しかしオムライスを半分まで食べ終わった時、なにかの視線を感じで顔を上げると、あの石がいた。あの時、きっちり図書館のカウンターに届けたのに。だけど、冷静にこの状況を受け止めている自分がいる。こんなの夏の特番に出てくる怖い話よりよっぽど恐怖体験だと思うけど、案外落ち着いて見れるものだ。

「どうしたの?」

 私は石に問いかけた。石とは会話が出来る気がした。きっと普通の石なんかじゃない。特別な石なんだ。

「何か言いたいことがあるから、ここに来たんでしょう」

 石は何も言葉を発さない。ぴくりとも動かない。もしかして、本当にただの石?こんなふうに問いかけている私が馬鹿みたいだ。

「おーい」

 不安になって、何度か呼び掛けたり、話しかけたりすると、石に文字が浮かび上がった。

やっぱりただの石じゃなかったんだ。人生で初めて自分が日頃考えていた馬鹿な想像が本当になった。いつもなら、これは絶対に普通の石ころで、私の問いかけなんかに反応しなくて、また自分にがっかりするところだったのに。

―――君は行かねばならない

「どこに?」

―――君を待つ者たちのところだよ

「どっかの離島とか、無人島とか、海外ってことかなあ」

 あ、そうか。ゼミ合宿が面倒だからこんな妄想をしてるんだ。私は妙にガッテンがいった。おかしいなあ。こんなさぼり癖はなかったはずなんだけど。だけど、最近授業は寝てしまうし、この前久しぶりに会う友達との約束には遅れたし、心当たりがないわけではない。

―――君を必要としている者たちがいるんだ。行けば、自ずと分かるだろう

「なんで私なの?理由が分からないんだけど」

 英語も話せないし、数学が出来るわけでもないし、その辺の一般的な大学生に何かを救えるとは到底思えなかった。誰をどう救うのかよく分からないけど、私が救えるなら、きっと私以外でも救えるはずということは確かなところだ。

―――君であることに理由はない。強いて、理由を挙げるなら、君だからということだけだ

 なんか大それたセリフだ。深いようで深くないような、小難しくて、私にはよくわからなかった。とりあえず私であることに理由はないということなのだろう。それだったら、別に私じゃなくてもいいじゃないか、と思ったが、次から次へと疑問が溢れ出る。

「いつ行くの?というか、なにするの?」

―――君の心の準備が出来次第、迎え入れよう

赤い文字で浮き上がった文字は炎に彩られた。

「待って!これってまた私のヘンな妄想だよね?」

 想像が行くところまで行き着いて、こんな幻覚を見るようになったとか?一種の病気とか、そういうの?とうとう頭おかしくなったのかもしれない。本当は目の前に石なんて無くて、勝手に一人で話してるとか、そういうオチが一番しっくりくるかも。

そんな私の心を読んだみたいに、石は文字を映しだした。

―――君はヘンじゃないよ

文字がパッと小さな花火のように破裂音を鳴らすと、一階の玄関が開いた音がした。


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