赤々と染まる日常の風景
「はぁ・・・・・・」
住宅街を歩きながら、ヒロは大きなため息をついた。
こうして歩いてみると、嫌というほど思い知らされる。ここは自分の知っている場所ではないと。
いつもならクラスメイトと喋りながら歩いているこの道も、微妙に違う。
標識の数が少し多い。コンビニなんてどこにも無かった。表札は同じなのに、友達の家も記憶にあるものとずいぶん違う。
そして何より――――
――――家の近所にあったはずの増谷男子高等学校。
――――そこから、川を挟んだ向かいにあった精華女子高等学校。
かつてそれらが存在していたはずの場所には、巨大なスーパーが建っていた。
見慣れた風景と化したはずの学校が消えた・・・・・・しかも二つも同時に。
もう何がなんだか、どうなっているのか、考えても考えても分からない。
「なにため息ついてんのよ。こっちまで不幸になりそうだからやめてくれない?今ので間違いなくあたしの数日分の幸福が失われたわ。どうしてくれるのかしら」
眉を下げ、蔑んだ目でヒロを見つめている。
「・・・・・・にしてもさっきから元気ないわね。・・・・・・で、あんたどこから来たの?逢坂高校を知らないとか、そもそも手毬町を知らないとか、わけのわかんないことばっか言ってたけど、この辺の人じゃないの?」
「どこから・・・・・・か。たぶん、こんな話信じてくれないとは思うんだけど――――」
なんとなく、本当になんとなくだが、ヒロは一つの結論に至っていた。
最近のアニメとか、ライトノベルとかでよく見かける場所。死後に転生したり、魔法によって召喚されたり、何の予兆もなく急に飛ばされたり――――などなど、様々なパターンが存在する。しかし、行きつくところは同じ。
――――異世界。
「違う世界から来た、とか言ったらどうする?」
「びっくりする。っていうかそんな話信じるわけないでしょ?そういうのは二次元だけにしときなさいよ!」
「だよな・・・・・・って今二次元って言ったか?お前ってもしかして・・・・・・」
いや、もしかしなくても、ライトノベルを読んでた時点でまさかとは思ってたけど。
おおよその検討はついていたけども。
「こっち側の人間なのか?」
こっち側――――つまりオタク。
いや、今の時代ライトノベルくらい誰でも読むものだ。そういったものを読んでいる=オタクという式が成り立つなどステレオタイプも甚だしい。
もしかしたら、ヒロのように二次元の美少女たちを心から愛しているような、重度のオタクではないではないのかもしれない。
「こっち側・・・・・・ってことは、まさかあんたも!?」
あんたも、と来たか・・・・・・もうこれはそういうことなのだろう。
そして、おそらくヒロと同等かそれ以上の猛者だ。
こういう返しをしてきた人間に、軽めの患者などいない。
ヒロは悟った。涼葉は残念な美少女なのだと。
そうして改めて涼葉を見ると、雲の上の存在だと思っていた彼女が急に身近な人間に思えてきた。
きりっとした目元も、風が吹くたびに桃の香りを漂わせながらたなびく艶やかなポニーテールも、コロコロと変わる多彩な表情も、その何もかもが、自分とは縁遠い、違う世界の人間だと思っていた。
だがどうだろう。今となっては堕天使も真っ青の堕落っぷりだ。元々天使だったかどうかは怪しいところだが・・・・・・
「はぁ・・・・・・」
ヒロは感じたことをそのままため息として吐き出した。
期待を裏切られたという気持ちが半分、距離が近くなったことに対する喜びが半分、そんなため息だ。
「何よ、はぁ・・・・・・って!ていうかあたしの質問にちゃんと答えなさい!結局あんたはどこから来たのよ!」
「・・・・・・さっきのは本当といえば本当だし。いや、少し違うか。こことは違う世界っていうか、場所っていうかさ。とにかく、さっきまで俺がいたところとは明らかに違うんだよ。ここって」
真剣に、まっすぐに涼葉を見つめながら、たどたどしく言った。
ヒロ自身、今の状況を完璧に説明できる自信は無い。
この場所も確かな違和感を感じるものの、異世界から来たという説明はいささかぶっ飛んでいる。
それはヒロだって十分に理解している。けれどそれをうまく伝えられない。
「だから・・・・・・なんていうか、自分でもどう説明したらいいか分からないんだけど、気づいたらこの場所にいた・・・・・・って、やっぱり信じられないよな」
わかりやすく肩を落とすヒロ。
苦笑いを浮かべてはいるが、目の奥は笑っていない。作り物の笑顔だ。
対して涼葉は試すような目つきでヒロの挙動をうかがっている。
「・・・・・・ってことは異世界から来たってこと?アニメとか漫画とか、小説みたいに?そんなファンタジーが現実に存在すると思ってるの?もしかして中二病なの?よかったら病院紹介しようか?」
「そう、だよな・・・・・・って中二病じゃねーよ!身体も中身も、健全な高校一年生だ!」
と、ヒロはついツッコミを入れてしまった。
シリアスな展開になるはずが、涼葉のせいでペースが狂う。
「本当かしら?仮にあんたが異世界人だとして、誰があんたみたいなの好き好んで呼んだりするの?とか思わなくもないけど」
まだ半信半疑、いや、8割疑いの色を残しながら挑発的な目線を向け、
「・・・・・・で、何ができるの?」
「は?」
「だから何ができるのって聞いてるのよ!」
「何がってなんだよ!」
「異世界から来たっていうなら証拠見せなさいよ!魔法とか使えないの?すごい身体能力とかは?なんでもいいから早く見せてみなさい!」
どうやら彼女は何か壮大な勘違いをしているらしい。
本気で物語の主人公のような能力を携えてやってきたと思い込んでいる。ハッピーセットのおもちゃのように勝手についてくるとでも?
顔立ちとか雰囲気とかから、勝手に聡明な子なんだろうなと思っていたけれど撤回だ。この子はアホだ。というか抜けている。
「中二病はお前だろ!なんもできねぇよ!ていうか使えるなら俺も使いてぇよ!奇跡も魔法もねぇんだよ!そもそも、お前のイメージしてる異世界とは根本的に違うんだよ!文化も、雰囲気も、何もかも同じなんだ!これじゃ異世界って言うより――――」
――――異世界とは何か。
大抵中世ヨーロッパくらいの文明レベルで、剣や魔法で敵と戦ったり、なんかすごい力を手に入れて無双したり、現代の知識と技術で快適ライフを送ったり、鈍感系を気取った主人公がやたらとモテまくってハーレムを築いたり――――とまあヒロの認識ではこんなところだ。
けれど、今ヒロが立っているこの場所はそれらとは明らかに異なる。
文明レベルは完全に現代。というか日本の、ヒロの住んでいた紫陽町という町にそっくりだ。
多少の違い――――建造物の配置が違ったり、あるべきはずのものが無かったり、無いはずのものがあったりはするが――――はあるものの、概ねその通り。
それにしても、あまりに馬鹿げている。
知らないおっさんとぶつかることで転移。その先は現代日本、それもヒロの住んでいた町と似ている。美少女との出会い。さらに、なぜか転校生として認知されている。
できすぎた設定になにやら陰謀めいたものを感じないでもないが、それを証明する手立ても無い。
果たしてここを異世界と呼んでいいものだろうか。
その疑問が、靴の裏にべったりとくっついたガムみたいにヒロの頭から離れない。
「だ、誰が中二病ですって!?ちょっと期待したのに・・・・・・バカ!」
「なっ・・・・・・勝手にそう思い込んだのはお前じゃねぇか!このくまさんパンツが!」
むっとして、言ってはならないことを口走ってしまったことに気付いたが、もう遅い。
涼葉の顔が急速に曇っていく。オーラだ。どす黒い、不吉なオーラが静かに滲み出している。
「殺す」
感情を押し殺した低い声。もうその言葉だけで人が一人死にそうだ。
限界まで吊り上がった目は悪魔のそれに近い。人間の魂を奪いにでも来たのだろうか。
「・・・・・・ごめんなさい」
ヒロは無言の圧力に耐えきれず、屈服してしまった。
だが涼葉の怒りはまだ収まらない。この空気をなんとかしようと、話題を変える。
「あ、あとどれくらい歩くんだ?まさか徒歩であそこまで行くなんてことは・・・・・・」
「・・・・・・あと10分くらい。あんたってホントバカよね。歩いてたら遅刻するわよ。もう少しいけばバス停があるの。それくらいわかりなさいよ。このカス」
「バカ」と「カス」だけずいぶんと語気が強い。恨みと怒りをたっぷりと詰め込んだ結果だろうことは間違いない。
唇の端は歪めたまま目を細めている。それは威嚇にも似た仕草。何かのきっかけで襲い掛かられるかもしれない。もう迂闊なことは言わないでおこう。
「そ、そうか・・・・・・」
聞いてみてよかった。
もしあの山まで徒歩で向かうとなれば、確実にHPがごっそり削られる。
目測でも相当の距離があることが分かる。徒歩で行けばそれこそ何時間かかるか分からない。
「人も多くなってきたな」
バス停に近づくにつれ、ヒロと涼葉以外に、出勤前のサラリーマンが数人、それと2匹の野良猫くらいしか歩いていなかった静かな通りにも、人の数が増えてきた。道もずいぶん開けている。
涼葉と同じ学生服を身にまとった生徒たちが思い思いに話しながら、ローファーのコツコツとした音を鳴り響かせている。
数分前まで歩いていた場所とは打って変わり、店の数も多い。コンビニはもちろん、ラーメン屋やアイスクリーム屋、本屋などが立ち並んでいる。
バス停からほど近い場所に駅があるらしく、この辺りはずいぶんと栄えているらしい。交通量も格段に増し、排出される二酸化炭素が澄んでいた空気を汚していくように感じた。
もう少し歩けば、また違った景色が見えてくるだろう。
「・・・・・・」
――――突然、嫌な視線を感じた。
発しているのは逢坂高校の生徒だ。しかも一人ではない。前を歩く者はちらりと振り返り、横を歩く者はなるべく目線を前に向けながら流し目で、後ろを歩く者からはじっとりねばつくような視線。
ふと、一人の男子生徒と目が合った。慌てて目を逸らす彼の表情は恐怖の色で満ちている。
そんな中、
「なんで―――」
「やばいって!早く行こうぜ!」
「おい!あんまり見るな。こっちまで―――」
何人かの生徒から意味深な会話が聞こえてきた。妙なことに男子生徒ばかりだ。女子生徒に関しては我関せずといったところだろうか。全く見向きもしない。それでも嫌悪感だけは確かに伝わってきた。
彼らの視線は明らかに涼葉に集中している。それを感じてか、涼葉も俯いたまま口をつぐんでいる。
「なあ、なんか見られてないか?」
ヒロはなんとなく気になって、下を向いたままの涼葉に尋ねてみた。ピクッと、眉が動いた気がするが依然として口ごもる涼葉。背中は丸まり、怯えた小動物のようだ。
「気のせい」
「え?」
「気のせいって言ったの。いいから行くわよ」
ピシャリ、と遮られる。もうそれ以上詮索はするなという意思表示。
視線から逃れるように、涼葉の歩くスピードが急に速くなった。重たく冷たい、淀んだ空気の海を泳いでいく。地面とのにらめっこは続けたまま、今にも泣き出しそうになりながら、歯をぎりぎり食いしばっている。
「待てよ!どうしたんだよ!」
「・・・・・・」
返事は無い。
はぁ、はぁ、と荒々しい息遣いで先へ先へと急ぐ。
一体彼女は何に怯えているのだろうか。確かにあの視線は異常だ。一般的な女子高生に向けられるようなものではない。けれど、それだけでこうもおかしくなるものだろうか。
天使顔負けの眩しいくらいの笑顔。柳眉を逆立てた、烈火のごとく激しい怒り。考えていることがそのまま顔色に出てしまう彼女であるからこそ、今の心境が手に取るようにわかる。
涙にぬれてキラキラと輝く大きな瞳。紅潮した頬。小刻みに震える肩。
ふぅー、ふぅーと荒げた呼吸で、懸命に冷静さを保とうとしている。
――――もうずいぶんと無言のまま歩いた。そろそろバス停が見えている。
制服の数が増えていくにつれ視線の数も多くなり、つられて涼葉の足取りも早くなる。
それは異様な光景だった。
追尾型の監視カメラだ。対象者を追うために体は固定したまま首だけを振る。
奴らの視線は右から左へ流れ、ヒロと涼葉の二人をどこまでも追いかけてくる。
ざわざわと、隣にいる者だけに伝わるようなささやき声がノイズとなって二人に届く。
「おい見ろよ。男と一緒にいる・・・・・・あいつも終わったな」
「まじじゃん。下手したら――――」
二人組の男子生徒が、大きめの声でわざとらしくそう呟いた。
奥歯をぐっと噛みしめ、唇の端を歪ませながら、さらに足早になる涼葉。
その先に見えるのはバス停までの横断歩道。信号は点滅している。そろそろ赤に代わる、といったところだ。
「月島!」
ヒロが呼びかけても反応が無い。
心ここにあらず。今現在、彼女の視界には、おそらく何も入っていないのだろう。
――――まだ止まれの合図が出ている道路を、大型トラックが猛スピードで突っ込んでくることに気付かないほどのだから。
―――危ないっ!
そう思うよりも早く、ヒロの身体は動いていた。
自ら死へと向かう涼葉の白く細い腕に、必死に手を伸ばし、なんとか歩道へと引き寄せる。
進行方向とは真逆に真逆に力をくわえられた涼葉の身体はバランスを崩し、無防備なまま倒れそうになる。このままでは柔い彼女の肌に傷がつく。ヒロは涼葉を受け止める準備に入る。ふわりと香る桃の香りにうっとりする間もなく、
「えっ」
ヒロは突き飛ばされた。
まだ死の香り漂う、暴走トラックの進路上に。
――――目前に迫るトラック。ライトで目がくらむ。
つんのめった顔から順番に、体幹、腕、足とスロー再生のようにぐしゃりと押しつぶされていく。
それはコンマ何秒かの出来事。
回転をくわえながら、少年の身体が宙を舞い、数メートル先まで飛ばされた。
運悪く、回転の最後は頭が下になる形となり、そのまま硬いアスファルトへと吸い込まれていく。
ゴンッという鈍い音。そのままゴロゴロと地面を転がる。少年が通り過ぎた後には血痕が点々と刻まれた。
頭部から流れ出る赤黒い液体。どくどくと、止まることなく溢れ出す。
――――だけでは終わらない。
暴走トラックは少年を跳ね上げた後、勢いもそのままに、道路中央にぐったりと横たわっている少年の身体を巨大なタイヤで蹂躙。その先で右折しようとしている別の大型トラックと激突し、ようやく暴走を止めた。
※※※
「痛ぁ・・・・・・」
本来その予定であった少年に支えられることなく、小さめのお尻から豪快に転んだ涼葉。目じりに涙をにじませながら、
「何すんのよ!」
だが返事をしてくれる少年はいない。その言葉は虚空へと空しく消え去っていく。
「!?」
周りの様子がおかしい。まとわりつく視線も消え去っている。どこからか悲鳴まで聞こえる始末。有象無象が横断歩道を挟んで、その中心に横たわっている何かをじっと見つめている。
「なに・・・・・・あれ」
視線が集まる先には赤々と染まった真っ黒な学生服が横たわっていた。見慣れないその制服の持ち主に心当たりは一つしかない。
「成瀬!」
ポニーテールを振り乱し全速力で駆け寄る。
「――――っ!」
切り刻まれたかのようにボロボロの学生服。露出した肌はむごたらしく、内側まで傷だらけで出血もひどい。むせかえりそうなほど濃い錆びた鉄の臭いに、思わず鼻を覆ってしまう。
顔はつぶれたトマトのように真っ赤で、人間としての原型をとどめていない。ハイライトを失った大開きの瞳は濁ったガラス玉のようで、まとわりついたぼさぼさの髪のせいで余計にむごたらしく見える。
人体構造上、決して曲がらないはずの方向に曲がった腕。だらしなく放り出された足。
赤一色の身体をゆすってもゆすっても、眉の一つさえピクリとも動かない。
――――そこにあったのはただの肉片。彼の、魂と呼べるものは宿っていなかった。
凄惨な現場に鳴り響くクラクション。衆人環視から放たれるスマートフォンのシャッター音。それらに涼葉の悲痛な叫び声が混ざり合い、快晴の空へと消えていった。