第四話
セイカ・マミヤは、屋根の上にいた。
臨時の拠点となった二階建ての元宿屋の屋上。
いや。そこは本来、屋上と呼べるほど何かに使うことを想定してある場所ではなかった。ただ、建物の天井の上というだけの場所である。
セイカは窓から身を乗り出して外壁を攀じ登り、湖の匂いの混じる風に銀髪を靡かせながら、一人そこに佇んでいたのである。
橙色の混じり始めた西日が、正眼に構えられた刀身に反射している。
長さ60センチ余りの鉄の塊を、その端を持ちながら姿勢を維持する。
生半な力で出来ることではないはずだが、彼女はかれこれ十数分、ぴくりとも動かずに構えを保ち、気を練っていた。
(自分は、未熟だ)
集中しようとすればするほど、頭の中に黒い靄のような雑念が湧いてくる。
彼女は憤っていた。
か弱き市井の民を害す悪人ども。
余所者の自分たちが僅か一日ばかりの調査で辿り着いた犯人たちを野放しにしていたこの街の自警団。
そして、それを取り逃がした自分自身に。
(冷静であれ)
どれだけ自分にそう言い聞かせても、一度タガが外れると体の制御が利かなくなる。
刀を振るった瞬間、次の太刀のことしか考えられなくなる。
祖父から継いだ『星辰流』を世に役立てるため、家を飛び出してきたというのに。
これでは、ただの人斬りではないか……。
「ふっ!!」
ぶん。
大気を真っ二つに割るように、白刃が一文字に振るわれた。
その挙動に遅れて銀髪が揺れ、西日を浴びて燃えるように輝く。
見る者が見れば戦慄したであろうその太刀筋は、それでもセイカの心にかかる靄を払うことはできなかった。
残心を解いたセイカの口から、小さな溜息が零れる。
不意に吹いた東からの風に顔を向ければ、殆ど正円に近い、それでもまだ僅かに欠けた朧月が、あるやなしやの姿を見せていた。
「明日で望月か……。ヨルくん、大丈夫かな」
静かに納刀したその手で、うっすらと汗ばんだ首筋を撫でる。
かつて一度だけそこに触れた感触を思い出し、セイカは赤らめた顔を俯かせた。
そして。
「…………っ!!」
その視線の遥か先、偶々捉えた人間の後ろ姿。
つい半日前、地下水道で追ったものと同じ。
人通りも疎らな街並みを行く、その背中を見て、彼女の双眸に銀色の光が宿った。
……。
…………。
同時刻。
人通りの全くない街の片隅で、長い影法師が二つ、とろとろと流れる水路へと落ちていた。
その二つを橋渡しするように繋ぐ、鋭い影が一つ。
「正体? あの。一体なんのことでしょう……?」
剣の切っ先を突き付けられた子供――ヨルが、困惑した顔で目の前の男を見上げていた。
狼のような容貌の黒髪の男――ジンゴは、それを無機質な瞳で見つめ返す。
「貴様、見た目通りの年齢ではあるまい」
その言葉は問いというよりは決まりきった答えを確認しているようで、ヨルはますます戸惑いの顔を作る。
「や。あの、確かに年の割に大人びてるって言われることはありますけど。俺はただ――」
「ならば、これは何だ」
そう言って空いた手でジンゴが懐から取り出したのは、木皮に記された何かの書付であった。
「それ、は……『夜明けの酒樽』の帳簿?」
見覚えのあるそれは、ヨルが自分で書いたものだ。
「貴様が『酒樽』の経理に携わっているのは聞いている。それだけならば気にするほどでもない。だが、たかだか十かそこらの孤児が、どこでこの算術を習った?」
「あー……二次方程式はまずかったか……」
「なんだと?」
眉間に皺を寄せたジンゴに、ヨルは慌てて手を振った。
「や。あの、それはたまたま……ええっと、て、帝都の商人の人に聞いて……。ほら、俺、色んな人の仕事に首突っ込むのが趣味みたいなところあるから」
「語るに落ちたな、小僧」
「ええ?」
ジンゴは手にしていた書付を放り、懐から新たに羊皮紙を取り出した。
そこには、縦に二列並んだ数字の遣り取りが記されている。
「取引を原因と結果に分け、常に合計額が同一となるよう記帳するこの手法は、森国のエルフたちの発明だ。俺が知る限りこの記帳法を扱う人族の組織はない。帳簿の額面の操作がしにくくなるからな」
「あああ。複式簿記もダメかぁ……」
すっ。
ジンゴの無骨な手が握る刃が僅かに差し出され、ヨルの首筋に朱い滴が浮かんだ。
「そして何より、お前の持つ魔力だ」
「魔力? 俺は、そんな大した力は――」
「知っている。俺は人よりも魔力の流れに過敏な性質でな。貴様があの拠点に落としていった髪の毛を採取させてもらい、確信した。陰の魔力を保有する人間などこの世に存在せん。…………貴様は、吸血鬼だ」
「…………」
ヨルの挙げられていた両腕が下がり、顔が俯いた。
「貴様の狙いは何だ? 魔力の量からして第六か、せいぜい第五世代の吸血鬼が人族の地で何をなそうが知ったことではないが、貴様が取り入った傭兵団は俺にとっても都合の良い連中でな。むざむざと魔物にくれてやる気はない」
その言葉に、ヨルの肩がぴくりと震えた。
「……語るに落ちたのはてめえの方だろ」
「…………何?」
ジンゴの背に、冷たい風が吹いた。
急に声音と口調を変えた目の前の子供から、底知れぬ圧が放たれる。
面を上げたその瞳が、深い血の赤に濁っていく。
「お察しの通り、俺は人間じゃねえ。けどよ、あんたにだけは言われたくねえぜ。なあ、『曖昧な男』さんよ」
「……どういう意味だ」
「眼だよ」
「眼?」
「あんた、俺を初めて見た時も、セイカさんが癇癪起こした時も、チカラさんと仕事の話してる時も、ずっと同じ眼ぇしてやがった」
「それが、どうした」
ジンゴの声が、僅かに低くなった。
「何とも思ってねえんだろ?」
「……」
「なあ、あんた。俺のことを害虫みてえな言い方したけどよ。その害虫と仲間のはずのチカラさんを同じ眼で見るってのはどういうことだ? クミさんのことも、バンジョウさんのことも、ついでにそこのカタツムリのことも、みんな同じようにしか見てねえ。…………たとえ善人だろうが悪人だろうが一般人だろうが、俺はあんたみたいな眼ぇした人間、見たことねえよ」
その言葉を受けて、ジンゴは静かに刀を引いた。
相変わらずの無機質な瞳で、ヨルを見下ろす。
それを真っ直ぐ、赤い瞳が睨みつけた。
「『俺にとっても都合のいい連中』だって? あんたこそ、目的はなんだ? 俺の仲間に取り入って、何企んでやがる?」
ヨルとジンゴの間を、朽ちた匂いのする風が通り抜けた。
「一つ聞かせろ、小僧」
再び刀を構えたジンゴが、もう片方の手で腰のベルトから黒鞘を外し、逆手に握り締めた。
「あん?」
ヨルの足が左前の半身を作り、腰が落とされる。
「害虫と人間と、何か違いがあるのか?」
「……上等だよ、クソ野郎」
二つの影が、衝撃と共に交わった。
……。
…………。




