この雪が溶けるまで
二〇一四年、九月。
全日本吹奏楽コンクール、その東関東大会で私たちの高校は銀賞という結果に終わった。吹奏楽における銀賞とは、決して二位の事を表しているのではない。ダメ金にすら届かなかった下手くそに送られる、ただの努力賞だ。
つい先程まで同じ曲を奏でていた仲間たちが、悔しさに頬を濡らしている。ダメだったね、届かなかったねと互いに肩を抱きながら、みっともなく努力の証を垂れ流す。
そう、この結果が、流す涙が努力の証だ。全国どころか金賞にも届かない。その程度の努力しかしてこなかったから今ここで涙を流している。その事を理解している者が今、この場所にいるだろうか。
私以外に、今この場所で涙を流していない者はいるのだろうか。
一週間が経って、卒部式が開かれた。三年生は毎年恒例の挨拶を行う。後輩に向けられた言葉は決まってコンクールの話ばかり。私たちのようにならないよう努力を続けて、反面教師にして上を目指して、私たちを決して見習わないでーー。
うんざりだった。
ここにいる誰もが、コンクールの結果を受け止めたようなふりをして、自分たちの不甲斐なさを認めたような気になって、結局最後は後輩の、先輩たちは最高の先輩でした、なんて言葉に意味のない涙を流す。銀賞という結果の裏にあった足の引っ張り合いに目を瞑って。努力の裏にあった妥協を見て見ぬ振りして。
だから私は言った。
「私たちは知っての通り銀賞をとりました。それはみんなの言う通り、努力不足が原因だったのかもしれません。でも、どうして努力を止めてしまったのかを考えたことはありますか?」
私の言葉がそれまでの挨拶と毛色が違うことを感じ取った何人かが、怪訝そうな顔をこちらに向けた。
「反省するべきは努力が足りなかったことじゃなく、努力が足りないと知っていながら途中でやめたこと、それだけです。だから後輩の皆さん、今までの挨拶にもありましたが、私たちのようになりたくなければまず、このぬるま湯のような部活を変えるところから始めるべきかと思います。……本気で全国に行きたいのであれば、ですけど」
今まで通り、綺麗な終わりを迎えるための、整えられた言葉が出てくると思っていたのだろう。後輩も同輩も、先生さえも口を挟まず、間抜け面を晒していた。違う表情をしていたのは三人だけ。おそらく私と同じような事を考えていたであろう後輩と同輩が一人ずつと、怒りの感情をあらわにしている同輩一人。
あぁ、やってしまったかな。と、言ってからそう思った。けれど、私が今言ったことは三年生ならば多かれ少なかれ感じていたことだろう。もし気付いていなかったのならそれは、とんでもなく想像力が欠如していると言うことになる。あの程度の練習で、実力で、本気で全国に行けると思い込んでいた、ということなのだから。
「っアンタ……!」そいつが私に食ってかかろうとした時、後輩の側からも「せんぱい」と声がかかった。正直言って今の私の言葉に後輩からコメントが入るなんて予想していなかったので、意外だった。
「今の話、せんぱいは全国に行けるとは思ってなかったってことですよね」その後輩は立ち上がってそう言った。
「そうなるね」あくまで淡々と発せられた問いに、私も同じように答えた。
「そのままにしていたのはどうしてですか? わかっていたのなら、みんなの空気を変えることくらいせんぱいならできたんじゃありませんか?」
「やる気のない人間にやる気を出させるほど、私はやる気のある人間じゃないの」
どこかで聞いたことのある放置の言葉。人の言葉を借りるのはあまり好きじゃなかったけれど、今の私の心情をこれほど的確に表した言葉も無かった。
質問した後輩、瀬野本舞衣はその答えに納得したのか、黙って座り直した。
誰もが感動的に終わると思っていた卒部式は、私の発言によって尻窄みに幕を閉じたのだった。
ーーその日の帰り道、
「せんぱい」
どこかで聞いた声に後ろから呼び止められる。振り向いたそこにはやはり、瀬野本舞衣が立っていた。
「どうしたの?」私に何か用か? 私と一緒にいていいのか? その両方の意味を込めた言葉だった。
「一緒に帰っていいですか?」
帰ってきた言葉は私の意を汲んだ言葉で、彼女が何を話したいのか気になった私は首を縦に振った。
トテトテと歩く瀬野本が横に並ぶのを待って歩みを再開する。
「せんぱいは、泣いてませんでしたよね」少し歩いて、瀬野本が口を開いた。
それがコンクールの、結果発表の時だということはすぐにわかった。
「あんな挨拶をする人間が、素直に悔し涙を流すと思う?」
そう返すと瀬野本は「そうですねっ」と、少しいたずらっぽく笑う。その笑顔を見て「あぁ、この子もか」と思った。
「せんぱいみたいな人は好きです」
「私も、あなたみたいな人は好きよ」
いつも感じていた他人への苛立ち。それを全く感じない彼女の言葉。
「えへ、じゃあ両想いですね」
似た感覚を持っている彼女の存在に安心した私は、彼女の存在を簡単に受け入れた。あの時、自分以外にも涙を流さなかった者がいたことにどこか、ほっとしていた。
瀬野本が私に抱いている感情が単なる憧れや好意と異なるものだというのは、かなり早い段階で気付いていた。彼女の反応は正直すぎる。おそらく心を許したものにしか見せない類のものなのだろう。その反応を私に見せてくれることに、私は微かな喜びを覚えていた。
「えぇ⁉︎ せんぱい彼氏いたんですか⁉︎」
「何を今更……。もう二年近くになるかな、割と楽しく付き合ってると思うけど」
「……へぇ、そうなんですね……」
彼女のわかりやすい落ち込みように、私の予感は確信に変わる。彼女と行動を共にするようになって二週間が過ぎた頃、最初の日と同じように二人並んで下校している最中だった。
瀬野本にはああ言ったけれど、実際のところ彼とはうまくいっているとは言い難かった。部活は東関東大会の追い込み。それが終わっても私たちには受験という一大行事が待っている。特に吹奏楽の大会は九月に入るまで続く。全国に行けばもっと先だ。受験と部活に挟まれる中、自分以外の人間に構っている暇は無かった。私はこんな性格だし、向こうも私に会って気が休まるわけはないだろう。この判断は間違っていない確信があった。
けれど、そんなことを彼女に言えばどんなことを言い出すかわからない。……いや、逆か。ありありと想像できてしまう。言うことはただ一つだろう。そして何より問題なのが、私自身がそれに対してどう答えるのか全く想像ができないということだ。
答えは二種類しかないはずなのに、その両方共を想像できない。瀬野本と一緒にいない自分も、瀬野本と、今とは違う意味で並んでいる自分の姿も。たった二週間の間に随分な毒され様だ。まあ、それも仕方がないと思えるほどに瀬野本と一緒にいる時間は心地いいのだが。
「せんぱいはどんな人を好きになるんですか?」
「……、ん、と。好みのタイプとかはよくわからないかな。でも多分瀬野本と、同じタイプの人を好きになる気がする」
急な質問に意識が現実に戻される。考え込んでいた時間は自分で感じていたよりもずっと短かった様で、一瞬の沈黙を瀬野本は質問の答えに悩んだだけだと受け取ったようだ。
「……えっと、それってどういう意味です?」
「ん? どういうって?」
何気なく言葉にした答えに、なぜか瀬野本は困った様な、少し緊張した表情で聞き返してくる。
「その……」言葉にすることに躊躇を見せた後、おっかなびっくりといった様子で再び口を開いた。
「私と同じタイプの人って、せんぱいの好みと私の好みが似てるってことですか? それともーー」
「……っ」
そこまで聞いてようやく理解する。なるほど、確かに今の言い回しだとその両方の意味に取れてしまう。彼女が口を開くのを躊躇うのも無理はない。私自身、今瀬野本にそう言われて表情を崩しかけた。いや、もはや崩れていたかもしれない。うまく平静を保てているだろうか。
内心で冷や汗をかきながら、瀬野本の方を見て一呼吸おく。そして、
「どっちだと思う?」
こういう時に便利な言葉を口にした。
この返答がただの時間稼ぎであることはおそらく瀬野本にもわかるだろうが、私の焦りまではわからないだろう。ついさっき懸念していた瀬野本との関係性について、自分の方から切り出してしまったようなものだ。
「ずるいですね、せんぱいは」
そう言い、瀬野本は私の腕に自分の腕を巻きつける。
突然のことに驚いて反射的に抗議の声を上げそうになった。でも、その前に聞こえた彼女の「これくらいいいでしょ」という声に、私の口は塞がれてしまった。
結局その日家に着くまで、瀬野本は私の腕を離そうとしなかった。
「最近、何かいいことあった?」
「え? そんなことないと思うけどな」
しばらく会っていなかったというのに、気づくものなのだなぁと私は感心してしまった。もしくは「いいこと」と断言されてしまうほどに今の私は浮かれて見える、ということなのだろうか。……まあ確かに、自分から彼に「久しぶりに会おう」と言うなんて、何か特別な理由がない限りはほとんどないことだ。浮かれていると思われても不思議はないか。
舞衣が私に自分の気持ちを伝えてくれた。つい昨日のことだ。
「ごめんなさい、私にせんぱいの気持ちを半分だけくれませんか……?」
彼女は泣きながらそう言った。卒部式の時にも見せなかった涙を、ただ私のためだけに流してくれた。
うれしかった。
何故かはわからない。彼女の気持ちはとっくにわかっていたはずなのに。
私の考えていることが彼女には理解できて、あの子の思っていることが私にはわかる。合う、というのはきっとこういうことなのだろう。そんな風に思っていた。でも、実際はそんな生易しいものじゃなかったのかもしれない。彼女の考えを理解できることに私は喜びを感じていて、私の考えと同じ考えができることに彼女は喜びを感じているのかもしれない。お互いが似たことを考えていて、たまに違った考えをしていてもそれもまた楽しくて、共有できることが嬉しくて、そんな風に言葉と一緒に気持ちをどんどん重ねるうちに、きっと彼女は我慢できなくなったのだろう。
舞衣は私のことをちゃんと考えてくれている。だから自分の気持ちを積極的に前に出すことはしなかった。私に付き合っている人がいることもちゃんと考えて、考え抜いて、それで出た答えがあの言葉だったんだ。
半分だけ私にください。なんて、格好のつかない告白をさせてしまって、申し訳なく思った。
だから、今日は彼にそのことを伝えに来たつもりだった。
なのに開口一番にあんなことを言われてしまって、私の決心は揺らいだ。いつも通りの私であれば揺らぐようなものではない筈なのに。舞衣が半分だけと言ったのはきっと、私のこの揺らぎを見越してのものだったのだろう。あるいは、舞衣の言葉を聞いたことで初めて生まれた揺らぎなのかもしれない。
結局その日は彼に何も言えず、何も言わず。それまでと同じように彼と接してそのまま時を過ごした。不思議といつもより会話が弾んで、彼も心なしか楽しそうに見えた。浮ついた私の心が見せた錯覚ではないと思う。けど、罪悪感が見せた幻ではあったのかもしれない。
私と舞衣は一つの約束をした。もうすぐ終わりを迎えるだろう秋を目の前にしながら、今年もきっと降るであろう真っ白な雪を連想しながら「今年の、雪が溶けるまで。一緒にいましょう」と。冬の間だけ、私たちは本物の恋人になりましょう。そうやって期限を設けたのは私の卒業が迫っているという理由の他に、彼と私のことを考えてくれた、舞衣の優しさがあったからだった。
私はその優しさに甘え、彼に舞衣との関係を伝えるのを先延ばしにし続けた。愛の言葉を囁き合うような熱い関係では既になかったけれど、それでも時折見せる彼の私への想いはちゃんと伝わって来て、その度に私の中で気持ちの悪い感情が込み上がった。
そんな私の情けない心境を除けば、これ以上ないほどに私たちの関係はいいものだった。雪とともに溶けて無くなる関係。消えて無くなるその瞬間まで、ずっと一緒にいたいと、そう思っていた。
舞衣が部内で酷いいじめを受けていることを知ったのは、十二月に入った頃だった。
いじめは私が気付くずっと前から始まっていて、私がそれに気付けたのはほとんど偶然だった。帰り道の途中、舞衣が何かにつまづいて転びかけた時に制服のポケットから何かが溢れて来た。随分と小さいものだったのでそれが何なのか理解するのに少しかかった。出て来たのは粉々に砕かれたクラリネットのリードだった。楽器は学校の備品だが、リードだけは個人で購入することになっている。私が舞衣の方を見ると、彼女は下を向いて私と目を合わせようとしなかった。
誰が原因かは明白だった。
舞衣はずっと下を向いて立ち止まっていた。私もずっと、目の前にいる彼女を見つめて。
冬の寒空の下、どれだけそうしていただろう。
「寒いです」
そう言って舞衣は私の方に手を差し出した。
「そうだね」私も、その手を取って家路を辿った。
その日は東京の初雪だった。
そのころから少しずつ、私と舞衣の関係も噂されるようになっていった。吹奏楽部でのいじめが噂の発生源であることは想像に難くなく、一度私は引退した部に乗り込もうかと思ったことがあった。けれど、そんなことをしても逆効果。乗り込んで後輩相手に怒鳴り散らしたって、胸がすくのは私だけ。その後も舞衣の部活は続くのだ。
受験で自由登校の三年生にも、元吹奏楽部員にはその噂は届いているようで、私は学校で元部員と出会うたびに舞衣との関係についてあれこれ聞かれた。
生きにくいく、行きにくい。
私でさえそうなのだ。舞衣の現状を思うと、何もできない自分を殺したくなった。そして、ならいっそ殺してみようと、その考えに至るのにそう時間はかからなかった。
これからこの学校を去る私には、今後の吹奏楽部なんて関係ない。けれど、今後舞衣が活動する吹奏楽部であればそれは大いに関係あるのだ。
舞衣との縁はここで切る。
舞衣の恋人である私は、もうここで殺してしまおう。
私は合奏途中の音楽室の扉をノックもせずに開けた。当然、音楽室にいる全員の視線が集まる。その中には舞衣のものもあった。クラリネットのいる列を見る。1人だけ、リードのない楽器を持って座っている姿が目に入った。
堪えるのに必死だった。この教室にいる者、1人を除いて全員を糾弾することを。そして、これから言おうとしている言葉を、飲み込みたくて飲み込みたくて、しょうがなかった。
「舞衣」
ただ名前を呼ぶ。それだけのことがこんなにも辛いだなんて、私は知らなかった。彼女は私の顔を見て、その表情に様々な色を乗せたように思う。
安心と不安と、喜びと悲しみと、期待と、己への蔑みを。
私はその全てを裏切った。
「もういいでしょう? センターまで3週間切っているし、大学も、この調子なら彼と同じ所に行けそうなの。恋人ごっこは終わりよ」
シン……と、静まり返った音楽室に背中を向け、閉じるドアの音だけが背中に聞こえた。
この吹奏楽部の連中は基本的にぬるま湯づくりに余念がない。熱い物が入って来ても周りでどんどん冷ましていく。それを協調性と呼ぶかどうかは置いておいても、あの場で完全な被害者に追い打ちをかけるような、勇気も覚悟もない。冷えた者をゆっくりと温めるには、むしろいい環境だ。
そう。
これでよかったと思える日が、いつか来るから。それまでは、もう少し待っていて。
舞衣は私に捨てられたただの被害者。私に共感してしまったばかりに冷たく捨てられた子猫のような存在。そんな風になるよう手は尽くした。その仕上げとして、私は彼との関係を完全に修復しなければと考えていた。
そこに不安は抱いていなかった。舞衣と関わるようになってからは確実に、彼との距離は埋まって来ていると思っていたから。だから、
「駄目だ、別れようよ」
それは突然のことに思えた。
私は確かに舞衣とおかしな関係を築いてしまった。けれど、それが原因で彼との関係が壊れるとは、最初の頃はともかく、今では全く思っていなかったのだ。だって……
「お前はきっと、ここ最近俺たちの関係は良くなったって思ってたのかもしれないけど、俺にはそうは全然思えなかったんだ。確かに最近は今までよりも楽しかった。でもさ、それはお前が、俺のことを好きじゃなくなったからだと思うんだ。
俺、まだお前のこと好きだけど、もう無理だ。俺のことを友達としか見てないお前と、一緒にいたくない」
目に涙を浮かべながら語られた彼の言葉に、私は何も返せなかった。
私が何も言わないのを見ると、彼もまたそれ以上は何も言わず背中を向けた。
私と彼の、志望校合格が決まった日だった。
部屋にこもって、ベッドの上で膝を抱えて、何も考えたくなくてただ目を閉じていた。なのに、止めたいはずの思考は鈍るどころかどんどん加速して、考えたくないことを次々に浮かび上がらせる。
幸せはこの手を離れ、失うと思っていなかったものを失い、私の手元には何も残っていないように思えた。
「そうか、私、舞衣との約束破っちゃったんだ」
雪がすっかり消え失せて、新しい生活が始まろうとしていることがようやくわかって、世界が春の準備を着々と進めていることに気付いて。
目の前に次の季節が迫っていることを目の当たりにして、私は初めてそのことに気付いた。
「春が来るまで、……この雪が溶けるまで」
そんな約束すら、私は守れなかった。
いや、守ろうとしなかったのだ。舞衣と一緒に入るための努力を、私は自ら放棄していた。あの子に私は頼ってばかりだった。卒部式の時に言った言葉が反射して、脳を焼いた。
「……ごめんね」
誰に向けたのかもわからない謝罪の言葉。あるいはそれは、全てを捨てる決意をしたくて、無意識のうちに出た言葉だったのかもしれない。
二〇一五年、四月。
私は第二志望で受けていた私立の女子大の入学式に来て、そこで一人立ち止まっていた。
私の高校からは誰も受験していない大学。私を知る人なんて誰もいない。当然、隣には誰もいなくて、寒い四月の風が体を抜けていった。
まあ、仮に知り合いの大勢いる大学に行っていたとしても、今の私の隣にいたいと思う人間なんて誰もいないだろう。ずっと一緒にいた彼を捨て、慕ってくれた彼女も捨て、寄せられていた信頼を全て裏切ってここへ来たのだから。
ひときわ強い風が、芽吹いた桜を散らせてゆく。
そうさ。ここは全く知らない世界。
舞い上がる花びらは地に落ちることもなく、どこか遠くへ飛んで行った。
私と言う人間を一から作り直せる、そんな世界なんだ。
すれ違う先輩らしき人、駆け足で追い越して行く人、同じように大学のキャンパスへと足を運ぶ多くの人。彼ら全てが、新たな私を構成してくれる大事な他人。
悲しみを抱く、そんな必要は無い。
捨てたものを振り返る、そんな暇も無い。
踏み出そう、踏み出して、踏み出しなさい。新たな一歩を、未来への歩みを始めなさい。
どれだけ頭に中で喚いても、足は前へと進んではくれなかった。
真新しいバックを握る、右手が軋む。
なぜか肩に力が入って、いつの間にか奥歯も噛み締めていた。
ーーどうして?
「……ねぇ、どうしてよ……?」
震える吐息に混じる呟きを私は、聞き逃してはくれなかった。
吐き出されたのは、あの冬と変わりない白い息。
変わったのは季節だけ。他は何も変わりないのに、時間とともに季節だけが変わっていった。私の気持ちだけ置いていって、時間だけが過ぎていった。
立ち竦んで、どれだけの時間が経っただろう。未だ周囲は人で溢れていて、もう、私がどこにいるのかさえわからないような、そんな気がした。
それでもこの一歩を、踏み出さなければならないのだろうか。そう思いながら顔を上げるーーと、
「ゆ……き……?」
ひらひらと桜の花びらが舞う。
そして、その遥か遠くからも、同じように白い粒が舞い降りていた。
あぁ、道理で。周りの人たちも立ち止まっているわけだ。
春に降る雪なんて、滅多に見れるものじゃない。
私も同じ、その光景にただただ見入る。そして気づかぬうちにその頬を濡らしていた。
雫が流れてようやく気づき、でも溢れてくるものはとめどなく、拭っても拭っても絶え間無く流れ出て。
あぁそうかって、
私は、こんなにもこの雪が愛しかったのかって、
溶けて欲しくなかったのかって……。
それに気付いてからはもう、拭うのをやめた。
枯れるまで溢れてしまえ。
終わりたくなかった、そばに居たかった、ずっと続いてほしかった。
そんな単純な願いさえ、私は……失わなければ気付かなかった。
雪が止むまでずっと、私の涙は枯れることなく流れ続けた。