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第二章 春の妖精あらわる?(2)

「──ねぇ、大丈夫? 本当にごめんなさい!」

 ゴトゴト揺れる馬車の中で、兄の額にぬらしたハンカチを押し当てながらクロエは何度も繰り返した。

「平気平気。ちょっとたんこぶができただけさ。明日になれば腫れも引くよ」

 気にしたふうもなく、ただやっぱり少し痛そうに笑う兄の顔を、クロエは泣きそうな瞳でじっと見つめた。

「でも、顔はお兄様唯一の取り柄なのに……」

 ぽろりと洩らすと、オーレリアンは口許を引きつらせた。

「さりげなく言ってくれるね、妹よ……。まぁ本当のことだけど。僕にもう少し才覚があれば、馬車くらい維持できたろうになぁ」

 オーレリアンは借り物の馬車の中を寂しそうに見回した。馬車は上流階級のステータス・シンボルであるだけに、維持費だけでも相当な額にのぼる。

 御者を解雇し馬を売ってしまっても、しばらく馬車だけは手元に残しておいたのだが、売ってほしいという人が現れたのを機に手放してしまった。以来、どうしても必要なときに貸し馬車を雇うか、あとは辻馬車を利用するしかない状況にある。

「ああ、せめて賭け事でイカサマできるくらいの才覚があれば……」

「何言ってるの、お兄様! 賭博はもうやらないって約束したでしょ!?」

「う、うん。そうだった。うっかり忘れてた。危なかったな、実はさっきもこれからカードをやりに行かないかって友だちに誘われて……」

「何ですって!」

「い、いや、断ったから。おまえが貧血起こして倒れたって誰かが呼びに来て。──ところで貧血はもういいのかい」

「え? ええ、大丈夫よ。ちょっと胴衣コルサージュがきつくて気分が悪くなっただけ。──ねぇ、お兄様。知らせてくれたのはどんな人だった?」

「覚えてないなぁ。みんな半仮面ルゥをつけてたし、誰かに耳元で囁かれて、振り向いたらもう人込みにまぎれてしまっていたんだ」

「そう……」

 クロエは力なく頷いた。

(きちんと自己紹介もしないなんて、やっぱり見た目がいいだけのゴロツキなんだわ)

 危ういところを助けてもらったことには感謝するが、言うにことかいて『口説かれたかったら、人妻になって出直して来い』?

(冗談じゃないわ、ひとを子ども扱いして)

 いつか立派な人妻になって、思いっきりフってやる!

 妙な決意を固めたクロエだったが、仮面を外したユーグの顔を思い出すと、ふいに心臓が跳ねた。涼しげな、それでいて翳のある微笑み。底の知れない紺碧の瞳──。

(あ、あんなの、ただのニヤケた女たらしよ。そんな男、今どきは掃いて捨てるほどいるんだから……)

 そう、あのフロンサック公爵みたいな。

 思い出しただけでぞっとする。舌なめずりするけだものじみた、あの目付き。獲物を追い詰めることを心底楽しんでいた。あんな男にはもう二度と出くわしたくない。

 ユーグは皮肉や憎まれ口をたたきはしたが、瞳はあくまで理性的だった。深く静かなその瞳は、しんしんと月光が降りそそぐ夜の湖面のようで──。

「──ああっ、もう何よ!」

 自分を子ども扱いした奴になんか、見とれたくない!

 頭に来て叫ぶと、オーレリアンがぎょっとして額を押さえていたハンカチを取り落とした。

「ク、クロエ? どうしたんだ。そうか、さてはお腹が減ったんだね。もう少し我慢おし。きっとマドレーヌが夜食を用意してくれるから」

「お腹も減ったけど、それより何よりむかつくのー! だいたい元はと言えばフロンサック公爵が悪いのよ、あのひとさえいなければ……!」

「フロンサック!?」

 青ざめたオーレリアンは、がばと身を起こした。

「おまえ、まさかフロンサック公爵に何かされたんじゃあるまいね!?」

「え? いえ、大丈夫……」

 かなり危なかったけど、と心の中でそっと付け加える。

 オーレリアンはほうっと嘆息した。

「そ、そうか。よかった」

「お兄様、あのひとのこと知ってるの?」

「そりゃ知ってるさ。リシュリュー公爵の息子だもの。それより何より彼は希代の色事師として超有名なんだ。弱冠十四歳でとある貴婦人の愛人になったという、うらやま……もとい、とんでもない人物なんだ。老若男女を問わず、たらし込んだ相手は数知れない。あんまり無節操に手を出すから、牢獄にぶち込まれたこともあるんだぞ」

「ろ、牢獄……!?」

 ユーグの言っていたことは誇張ではなかった、と、クロエは今更ながら青ざめた。妹の手を握りしめ、オーレリアンは真顔で言い聞かせた。

「いいかい、クロエ。絶対にフロンサック公爵の半径三トワーズ(約六メートル)以内に近づいてはいけないよ。おまえにもしものことがあれば、僕は奴と決闘しなけりゃならない」

「そんな、決闘だなんて! ……わかったわ。絶対近づかないから」

 クロエは兄の手を握り返し、頷いた。オーレリアンがたまにこういう目付きをするときは、どんな無茶でも本気でやる。

 二年ほど前、兄の悪友にふざけて迫られたクロエは、逃げようとして揉み合っているうちにたまたま相手を殴ってしまう格好になった。激昂した少年はクロエを打ち据え、のしかかってきた。そこへオーレリアンが割って入り、猛然と飛び掛かったのだ。

 いつも茫洋としている兄とはまるで別人だった。クロエはその姿に恐怖すら感じた。オーレリアンは年上の少年を気絶するほど殴りつけ、ぐったりしてもなお殴り続けた。駆けつけた友人たちが力づくで引き剥がさなかったら、殺してしまったかもしれない。

 その後は反動が来たのか、数日間ぼんやりと魂が抜けたようになっていた。

 クロエは悟った。兄はいったん理性が飛ぶと歯止めが効かないのだ。あんな兄の姿は二度と見たくない。兄にはいつでもひだまりの天使でいてほしい。

「……大丈夫よ、お兄様。フロンサック公爵を見かけたらすぐに逃げるわ。お兄様は銃も剣も得意じゃないでしょ。それに、決闘は王令で禁止されているのよ。違反したら貴族だろうと処刑されてしまう」

「ああ、そうだね。それでは僕はどっちにしても死ぬしかない」

 苦笑する兄に、クロエは眉根を寄せた。

「そんなこと言わないでよ。とにかく、何もなかったんだから安心して、ね?」

「彼が来ていることを知っていたら、おまえを放っておきはしなかったのに……」

「ええ、わかってるわ。ご挨拶で忙しかったのよね」

 なぐさめるように取りなすと、オーレリアンはふいに表情を変えた。

「いや実はね! すごく素敵なひとに出会ったんだ」

「……は?」

「ついに理想の女性が現れたのさ。天にも昇る心地で夢中になって話し込んでいるうちに、すっかりおまえのことを忘れてしまって」


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