第一章 危険な仮面舞踏会(3)
クロエは広々としたホールの隅っこで退屈していた。天井から吊られたシャンデリアには高価な蜜蝋の蝋燭が惜しげもなく使われ、壁の鏡がその灯を反射して何倍もの明るさでホールを満たしている。
さざめきと笑い声、楽団の奏する音楽と衣擦れの音に取り巻かれ、クロエは不機嫌な口許を広げた扇子で隠しながらホールを見回した。顔の上半分は白い半仮面で覆われている。クロエだけでなく、参加者は全員同じ半仮面をつけていた。
今夜は仮面舞踏会なのだ。
とはいえあちこちで交わされる挨拶を見ていると、お互いの正体はほとんどわかっているようだった。
クロエは締めつけた胴回りを嘆息まじりにさすった。ジゼルが張り切って締め上げてくれたおかげで格好はついたが、かなりしんどい。
一張羅のドレスは、改めて点検してみるとシミがあったり虫に喰われている箇所があった。ジゼルがリボンや造花で隠してくれて何とかさまになったものの、歓談しながら行き交う女性たちに比べればどうしても見劣りする。
裕福でお洒落な女性たちは最近イギリスから入ってきたパニエをつけてふんわりとスカート全体を膨らませているが、クロエのドレスは大御世の末期に作られたバッスルスタイル。もはや野暮ったい感じがしてしまう。
こんな場所に履いて来られるような洒落た靴も一足しかない。華奢なヒールがときどき悲鳴を上げて、そのたびにヒヤヒヤした。
太陽王と呼ばれたルイ十四世が長い治世の果てに身罷り、わずか五歳の曾孫が跡を継いだ。当然ながら幼い国王に統治能力はなく、臨終間近の大王によって摂政として指名されたのが弟の息子、つまり甥にあたるオルレアン公フィリップ二世である。
派手好みの摂政公の時代になると、パリはそれまでの沈滞ムードを吹き飛ばすかのように、さらなる華やぎを競いあうようになった。集う人たちの表情は明るく、誰もがみな太平楽に浮かれている。
(……これだから、こういう場所には来たくなかったのに)
うら悲しくクロエは嘆息した。家にこもっていれば殊更みじめさを意識しなくてすむのに、こんな華やかな場所に来ればいやでも思い知らされてしまう。
最新流行のドレスに身を包んだ婀娜な貴婦人たち。豪華な錦織の上着の大きな袖口からレースを垂らし、宝石を散りばめたバックルとぴかぴかに磨かれた靴の伊達男。
うらやんだところでどうにもならないとわかっていても、やはり贅を凝らしたドレスや装身具にはつい目を惹かれてしまう。
クロエは胸元を飾るネックレスをそっと手で隠した。これは宝石ではなく、ガラス玉で作られた模造品だ。実物はもう長いこと質屋に預けられたまま請け出すあてもない。
小さな真珠で飾られたカメオの耳飾りと、肌身離さず身に着けている母の形見の指輪だけが、いちおう本物の宝石だった。
(お兄様、どこへ行っちゃったのかしら……)
エスコートしてくれるはずのオーレリアンは、顔見知りらしい貴婦人に『ちょっと挨拶してくる』と言って離れたきりだ。
妹のことなどとっくに忘れ、どこぞの美人にお世辞を並べ立てているに違いない。天使のごとき容姿を優雅な衣装で包んだオーレリアンは、見てくれだけなら赤貧洗うが如き零落貴族とは到底思えないだろう。
もっとも、歯の浮くようなお世辞は言えても機知のきいた会話は苦手だ。加えて手元不如意により女性に小洒落た贈り物もできないオーレリアンは、可哀相にいつもすぐに飽きられてしまう。それでも彼は懲りるということを知らなかった。彼は美しい女性に目がないだけでなく、華やかなパーティーや賭け事も大好きだ。
ひとたび賭博のテーブルにつけば有り金ぜんぶをかけてしまい、最後にはいつもすってんてんになってしょんぼり徒歩で帰宅するのだった。
クロエは兄を心から愛していたが、その極楽トンボっぷりは時に腹に据えかねた。お人好しのオーレリアンは、妹がひとたびキレるとひたすら低姿勢でご機嫌とりに徹するのだが、賭博をやらないという約束ばかりはついぞ守られた試しがなかった。
クロエは暇を持て余して周囲を見回した。こんなところにひとりでいてもつまらない。華奢なかかとのミュールで突っ立っているのも疲れた。
外は冷え込んでいるが、室内は人いきれと数えきれない蝋燭、暖炉の熱気でむんむんしている。クロエは辺りを見回しながらゆっくりと歩きだした。
同じ修道院にいて、結婚を機に寄宿舎を出ていった友人たちが来ていないだろうか。しかし全員が仮面をつけているのでは、よほど近くで見るか言葉を交わさないと誰が誰やら見当もつかない。前をよく見ていなかったクロエは、歩いているうちに誰かに突き当たってしまった。
「あ、ごめんなさい」
白い半仮面をつけた男が気取った仕種でお辞儀をした。
「こちらこそ失礼をいたしました。お怪我はございませんか? マダム」
「独身よ」
「これは重ねてご無礼を」
青年はうやうやしく跪き、クロエの手にかたちばかりくちびるを寄せた。洗練された仕種だったが、見上げた仮面の奥から覗く瞳にひやりとして、無礼にならない程度にすばやく手を引っ込めた。
「おひとりですか? お付きの者はどうなさいました」
「兄がどこかへ行ってしまって、探しているところなんです」
「おや。それでは見つかるまで私がエスコートいたしましょう」