第一章 危険な仮面舞踏会(1)
「だめ……、今月も赤字だわ」
頭を抱えたクロエを、側に控えた同い年ほどの侍女が気の毒そうに見つめる。
「あの、お嬢様。あたしたちのお給金でしたら、後回しでも全然──」
「何を言うの、ジゼル」
おずおずと言い出した侍女に目を瞠り、クロエは限界まで削った鵞ペンを放り出した。ジゼルは首を振り、決意のまなざしで続けた。
「お給金をいただかなくても、住み込みですから寝る場所と食べるものには困りません」
「いいえっ、困ってるわ! 食料はツケがかさんでるし、どのお部屋もすきま風が吹くし、それに──っくしゅ!」
クロエはぶるりとふるえ、擦り切れた毛皮の肩掛けをぎゅうぎゅうに巻き付けた。ちらと火の気のない暖炉を見やり、ペチコートを何枚も重ねたスカートの中で両足を絡ませる。
「……暖炉の薪もぜんぜん足りない。いつかみたいな大寒波が来たら、わたしたち全員凍死してしまうわ」
節約のため暖炉は日が沈んでからしか焚かないことにしている。それもいちばん狭い居間と祖母の寝室だけ。
クロエはかじかむ指先に息を吐きかけ、膝に置いた古ぼけたマフの中に手を突っ込んだ。
まさか家の中でマフを使うはめになるなんて……。
ふたりがいる小さな部屋は家具調度もほとんどなく、がらんとしているせいで実際よりも広く見えた。それだけによけいに寒々しい。
かちかち鳴りそうになる歯をぐっと噛みしめ、クロエは背筋を伸ばした。
「と、とにかくお給金は何とかします。全額は無理かもしれないけど、遅配分はちゃんと帳面につけてあるから心配しないで、ね」
「心配なんかしてません。あたし、そんなにたくさんのお金は必要ないですし、いつまででもお嬢様にお預けしておきます」
「ありがとう、ジゼル……。そんなこと言ってくれるのはあなたたち姉弟とマドレーヌくらいなものよ」
何人かいた使用人は給料の遅れに嫌気がさし、次々に辞めたり余所の屋敷へ移っていった。今では残った三人がどうにか切り盛りしてくれている。
もちろんお嬢様とはいえクロエも出来るだけ家事は手伝う。それでも正直、貴族の体面を保つことさえ難しい状況だ。
「無理をしてわたしを修道院の寄宿舎に入れたりしなければ、だいぶお金が浮いたのにねぇ。まぁ、読み書きやら音楽やら絵画やら、ひととおり学べたのはありがたいけど」
「そうですよ。あたしもお嬢様のお付きになったおかげで字が読めるようになったんです。書くのはちょっと難しいですけど」
「せめて、もっと寄宿料の安いところにすればよかったのに、おばあさまったら見栄っ張りだから……」
「──お嬢様、ベルが鳴ってます」
「え? あら本当だわ。噂をすれば何とやら、ね」
クロエは重い腰を上げた。
「ジゼル。いつもの薬草茶を用意してくれる? お昼寝の後は頭が痛いっていつも不機嫌なのよね」
「はい、お嬢様」
ジゼルはお辞儀をしてそそくさと階下へ降りていった。クロエはふるえる身体をさすりながら祖母の部屋へ入った。
「おばあさま、ご気分はいかがですか」
「最悪ですよ、決まってるでしょう」
寝台に座った白髪の老婦人が、ぷりぷりしながらクロエを睨んだ。祖母のカトリーヌだ。
「こう寒くては関節がこわばってしかたないわ。暖炉に火を入れてちょうだい。それからお茶を持ってきて。熱くなければだめよ、熱すぎてもだめ」
「お茶は今ジゼルが持ってきます。暖炉は夜まで我慢してくださいな。薪の蓄えが乏しいの。日が暮れたらすぐ入れますから、ね」
「まぁ、なんて貧乏くさいことを」
さも軽蔑したように言われ、クロエの作り笑いがピシッとひび割れる。さいわいその直後にジゼルがお茶を持って現れたので、どうにか破局は免れた。
カトリーヌはお茶のカップを尊大な仕種で口許へ運び、ぬるいとか苦いとか文句を言いつつ全部飲み干した。
料理人のマドレーヌが淹れるお茶はいつも一定の温度と濃さなのに、カトリーヌは必ず文句を言う。大抵の文句は聞き流せるようになったが、たまにはキレそうになる。
お茶を飲み終えたカトリーヌは、用意させた湯に浸した布で顔をぬぐい、身繕いと着替えを済ませた。
ジゼルが祖母の世話を焼いているあいだ、クロエは本を読まされた。ラ・ロシュフーコーの『箴言』だ。祖母は本の内容をほとんどそらんじており、飛ばしたり間違えたりするといちいち突っ込まれるので気が抜けない。
どこへ出かけるあても尋ねてくる人もないのに、カトリーヌは念入りに白粉をはたき、ちょっと濃すぎるんじゃないかと思うほど頬紅を付けた。
「オーレリアンはどうしたの。今日はまだあの子から挨拶を受けていませんよ」
そういえばクロエも昼前に見かけたきりだ。目線で問うとジゼルは困ったように眉を寄せた。
「旦那様はお出かけになりました。その、知り合いのサロンをいくつか回って来られるとか」
「まさかあの子、変な場所に出入りしていないでしょうね」
ぎろりと祖母に睨まれ、クロエは頬をひきつらせた。
「さ、さぁ? どこぞのお屋敷で椅子取りゲームをしているだけじゃないのかしら」
そのゲームがどんなに熾烈でも、少なくともここよりはずっと暖かいし、食べ物やお茶も出るだろう。
こんな寒くて陰気なボロ屋敷になど、自分だってできることならいたくない。あてがあればジゼルを連れてよそで過ごしたいと思う。
かといって、祖母を放り出して外出などしたら、冗談でなく凍死してしまうのではないかと心配だ。ジゼルは祖母につけておかねばならないだろう。
マドレーヌは薪や食料を少しでも安く仕入れる駆け引きだけで手一杯。とてもクロエの外出には付き添えない。未婚の貴族女性としてはひとりで外出するわけにもいかないし、こういう状況では修道院時代の友だちを訪ねることも難しい。
すでに結婚した友人からは、『いつでも気軽にいらして』と親切に誘われているのだが。
(たまには友だちとのんびりお喋りしたいな……)
そっと洩らされた孫娘の溜息には気付かず、カトリーヌは嘆かわしげに首を振った。
「恋愛遊戯にうつつを抜かす前に、まずは嫁を取らなくては。あの子、わかってるのかしら」
「わかってると思いますけど? 結婚話ならこれまでだっていくつも……」
「身分が違いすぎます!」
ぴしゃりとカトリーヌは遮った。
「あの子は由緒あるヴュイヤール侯爵家の当主なのですよ、当主! 三代遡ればただの平民にすぎない平貴族の娘など、我が家の嫁にふさわしくありません。うちはね、三百年以上続く旧家なのですよ。由緒正しく、誇り高き帯剣貴族なのですからね! カネで官職を買って成り上がった輩など、冗談じゃありません」
「でもおばあさま……」
「わたしはね、かの大御世にはヴェルサイユ宮殿にお部屋を貰っていたことだってあるのですよ」