第三章 究極の選択と危ない駆け引き(1)
数日後、オーレリアンは本当にパドルー嬢を屋敷に連れてきた。
朝から総出で掃除をし、できるかぎり見苦しくならないように部屋を整えた。わずかに残った絵画を居間の壁に飾り、ケチらず暖炉にも薪をくべる。
残った服からできるだけ見栄えのするものを選んで着替えた。髪は鏝をあてて巻き、リボンを飾って肩に垂らしてみた。袖のレースが綻びかけていることに今さら気付いてうろたえつつ、そわそわとクロエは来客を待った。
オーレリアンに手を取られて現れたのは豊かな黒い巻き毛の美少女だった。落ち着いた薔薇色の外出着に毛皮のふちどりのついた暖かそうなマントをはおっている。外の寒さのせいか、あるいは緊張しているのか、頬を少し紅潮させていた。
彼女はクロエを見ると内気そうに微笑み、おずおずとお辞儀をした。予想に反し、いかにも地方出身の純朴そうな雰囲気だ。
珈琲──むろん出涸らしではない──を飲みながらしばらく歓談する。
ブランディーヌは十八歳。都会で洗練された物腰を身に着けさせようという父親の思惑に従い、去年の暮れにノルマンディーの北部からパリに出てきたという。
しかし生来内気な質で、緊張しやすく、華やかな場が苦手だった。出会いのきっかけとなった舞踏会も最初は断ろうとしたのだそうだ。
「仮面舞踏会なら、あまり緊張しないですむかもしれないと思って……」
おっとりとした口調で囁き、ブランディーヌは気恥ずかそうに目を伏せた。くるんとカールした長い睫毛はまるでお人形のようだ。肌色は白く透けるようで、艶やかな黒髪がよく映える。
さっきからオーレリアンは彼女の手を取ったまま離さず、うっとりとその横顔を見つめている。確かに驚くほどの美少女だ。奥ゆかしく楚々とした風情にも好感が持てる。
ブランディーヌは自分の手を握ったまま離そうとしないオーレリアンを困ったように見たが、頬をほんのり染めてかなり嬉しそうでもあった。
「……でも、思ったより大勢の人が来ていて、わたしすっかりのぼせてしまって。ふらふらしていてうっかりオーレリアン様にぶつかってしまったんですの。そうしたら椅子に座らせてくださって、飲み物取ってくださったり、それはもう親切にしていただいて」
珈琲茶碗を皿に戻しながら、クロエは微苦笑を浮かべた。
(お兄様は、女の人にはとにかく優しいのよねぇ……)
特にそれが見目麗しい女性なら、貴族だろうが平民だろうがお姫様扱いだ。貴重品のごとく扱われて悪く思う女性はまずいない。
何となく思い込みで、己の美貌と財力を鼻にかけた高慢な美女を想像していたので、クロエはブランディーヌに対して申し訳ない気分になってしまった。
おっとりした物腰や喋り方も上品だ。短気で腹をたてやすく、ついずけずけものを言ってしまう自分よりもよほど深窓の令嬢らしい。
彼女をじかに見れば祖母のかたくなな心もやわらぐかもしれない。そう思ったクロエは中座して祖母に面会を打診しに行ったのだが、やはりけんもほろろに追い払われた。
クロエが詫びるとブランディーヌは大きな黒瞳を瞠り、弾かれたように首を振った。
「わたしの身分では当然ですわ。侯爵夫人はさぞかしお腹立ちなのでしょうね……」
悲しそうにうつむいたブランディーヌの肩を抱き、オーレリアンがなぐさめる。
「おばあさまは頭が固いんだ。もうすっかり時代後れになっているのに、全然それがわかってない。どうぞ勘弁してやって、気にしないでください」
涙ぐんだブランディーヌはこくりと頷いた。うっとりと見つめ合うふたりから目を逸らし、クロエは扇子で憮然と顔をあおいだ。何だかままごと夫婦みたいで微笑ましい。微妙に癪に障るのは、単なる独り者のひがみだ。
それからしばらくお喋りをして、ブランディーヌは帰って行った。帰り際、彼女はクロエに遠慮がちに囁きかけた。
「クロエ様は、十六でしたかしら……?」
そうだと答えると、ブランディーヌは恥ずかしそうに微笑んだ。
「年下の方にこんなことを申し上げるのは失礼なのですけど……、とてもしっかりしていらっしゃって、まるでお姉様みたい。わたし、姉妹もいないし、人見知りをするから友だちも少ないんです。あの……、もしよかったらお友だちになってくださいませんか」
「ええ、もちろんよ」
そんなふうに言われたのは生まれて初めてだったので、クロエは感動してブランディーヌの手をぎゅっと握った。
かわるがわる頬を寄せて挨拶すると、ブランディーヌは侍女とともに馬車に乗り込み、走り去って行った。
「可愛いひとだろう?」
「そうね」
兄の言葉に、クロエは素直に頷いた。並んで見送っていたジゼルとジルベールに御者や侍女の印象を尋ねてみると、ジゼルはそっけなく肩をすくめた。
「無愛想な気取った女で、あたしたちとは口もききませんでした。細面のわりになんだか骨っぽい顔だちで、口許にうっすら産毛が生えてるんですよ。いかにも見張りって感じですね」
「変な虫がつかないように、父親がわざわざごつい女を選んだのさ」
弟の軽口にジゼルは頷いた。
「そうかもね。御者のほうは、ちょっとイヤな感じでした。あたしのこと助平ったらしい目付きでじろじろ見るんだもの。それに、うちを廃屋だと思ってたなんて、いけしゃあしゃあと言うんですよ! 冗談じゃないわ」
本当に冗談にならない、とクロエは苦笑した。
「無理もないわ。ブランディーヌが回れ右で帰らなかったのが不思議なくらい」
「おおかた旦那様のお綺麗な顔に目がくらんでたんでしょうよ」
「ひまさえあれば見つめ合ってたものねぇ」
冷やかすようにふたりしてオーレリアンを見ると、彼は照れくさそうに頬を掻いた。
「あー、それで、クロエ。どうかな。おまえは賛成してくれるかい」
「結婚のこと? わたしが口を出すようなことでもないでしょ」
「そうだけど……」
「安心して。可愛いひとじゃない。わたし、好きだわ」
「それならよかった! ──で、おばあさまにかけあってくれるね」
クロエは腰に手をあてた。
「そんな弱気でどうするの。ご自分の結婚でしょう」
「うん……、それはそうなんだけどさ……」
オーレリアンは眉を寄せ、意気地なくもじもじしている。
クロエは溜息をついた。仕方ない。兄は子どもの頃から気が弱かった。特に癇癪持ちの祖母を恐れていて、八つ当たりまがいに叱られても言い返すことさえできず、黙って涙ぐんでいたくらいなのだから。
「できるだけ口添えはしてみるわ」
しぶしぶながら請け合うと、ようやくオーレリアンの顔にいつもの天使が戻ってきた──のだが。
「──許しません」
開口一番、ぴしゃりと言われた。クロエは眉間にしわを寄せ、腹立ちをぐっと堪えた。
「あのですね、おばあさま──」
「魚屋の娘なんて、もってのほかよ!」




