第2話 秘密
そこは東京のとある会社だった。
「百合子さん!」
柴橋百合子は、おもむろにパソコンから目を離し、後輩に目をやった。
「ああ、太輔、どうしたの?」後輩は佐藤と書かれた社員証をしていた。爽やかな笑顔の写真付きで。
「じゃーん♪」
「何よ?」
「例の原稿ですよ、第一稿ができましたよ」
「例の?」
「蓮沼先生のですよ。期待大なんでしょ?」
「ああ、まあね」
「なんてったって大賞を取られた先生ですもんね。ちょっと読ませてもらいましたけど、今度のも面白そうですよ」太輔は目に見えて嬉しそうだった。入社面接のときに『面白いものやことが好き』と公言していた。
「いいから、早く渡しなさい」
「はーい」
手渡された瞬間、机に置いてあった電話が鳴った。
「はい、柴橋書店でございます。」電話の音は内線だったが外線モードで出てしまった。入社10年たっても百合子は電話が大の苦手だ。
「百合子か?」
「おじい様!どうかなさいましたか?」
と、電話の向こうの声が尖った。「社内では社長と呼べと言っておるはずだが?」百合子は慌てた。
「失礼しました、社長、ご用件は?」
「至急社長室まで来い」それだけ言って電話は切れた。
社長室のドアを開けると、社長は窓に回転いすを向けて座っていた。「社長、失礼いたします」百合子は後ろ手でそっと社長室のドアを閉めた。その音を確かめるようにうなずき、くるりと回転いすを百合子のほうに向きなおすと、柴橋幸之助は一言、言った。
「お前、その本どう思う?」言いながら幸之助は首を応接セットの机へと傾ける。そこには本一冊分と思われる原稿の束があった。百合子は数枚を手に取り、読んだ。ワープロで書かれている。
「これは、ドイツ語ですか?」
「そのようだな」
「これを売れということですか?」
「A.Hというそうだ」
「A.H様?」
「そうだ。わしのもとに『封印』してほしいと依頼が来た。そのファイルと解凍パスワードつきでな」
「封印、ですか?」
「そうだ、百合子、できるか?」
「学生時代、といっても10年以上前ですけどドイツ語はすこしかじりましたし、全訳すればできなくはないと思いますが。ただ、外国語の書物を封印することは初めてです。本当にできるかどうかは、やってみなければ分かりません、としか現時点では答えられません」
「そうか。百合子、お前の特殊能力を誰かにしゃべったか?なぜ知れているんだ」
「私は話してませんし、私にはわかりかねます」百合子は正直に言った。
しばらく間が空いて、幸之助は言った。
「わかった。至急それに取り掛かれ、それができるまでは他のはやるな」
「はっ。しかし、お言葉ですが、柴橋文庫の編集はいかがいたしましょうか?蓮沼氏の原稿が出来上がったばかりなのですが」
「いい機会だ、佐藤にでも任せておけ。それにこのことはまだ一切口外するな」幸之助は書類に判を押しながら言った。
「承知いたしました。」それで会話は終わりだった。
百合子は社長室を出たあと、一息ついた。エレベーターに乗り込み、『2F』を押す。持ちなれているはずのセキュリティーキーつきカバンがプレッシャーの分だけずっしり重く感じた。すぐに二階に着いた。誰も乗り合わせなかった。2Fには女子ロッカーがある。8番のロッカーのキーを開け、セキュリティーキー付きカバンをそこにしまった。女子ロッカーを出て、またエレベーターに乗り込む。今度は『3F』を押して、また扉が開くのを待った。
エレベータが着くと、廊下に出た。ちょっと歩き、社員証をかざして、さらに中に入る。見たところ太輔は中にいない。そのことになぜか百合子はほっとした。
と思ったら。
「社長にどやされたんですか?」その声と同時に大きな声が出た。
「きゃあ!」
「何ですか?」
「何ですかって後ろから話しかけられたらびっくりするじゃないの」
「それは、えっと、すみません」太輔はなぜか赤くなっていた。それを見て百合子はぷっと吹き出した。かわいいな、と思った。
「まあいいわ。それに、社長にはどやされてないわ」
「…なら良かったです」
「だけど」
「え?」
百合子は太輔を置いてきぼりにして、足早に席に戻った。そして、蓮沼氏の原稿を取って、斜め右後ろの太輔の席に置いた。
「え?え?」太輔は明らかに困惑した顔をしている。
「いい機会だから、あなたがやりなさい。次期編集長?」にっこりと笑いながら百合子は言った。
「何で俺なんですか?」
「うれしくないの?」
「うれしいですけど」
「じゃ、いいじゃない」
「承知しました。精いっぱい、やらせていただきます」
「よろしい。私は一週間休みをもらうから、その間よろしくねー!」
「はい」太輔の態度にうんうんとうなずいて、百合子はその場を離れた。部長の席に行く。
「桂木部長」何だ、というように桂木孝一は顔を上げた。眼光が鋭く光っている。
「お願いがあります。本日より一週間、休みをください」
「急にどうした、珍しいな。休日出勤もするお前が休みを取るだなんて…」
「はい、ちょっと私用が出来まして」
「まあいい。届け出せよ」
「はい、承知いたしました。ありがとうございます!」
百合子はその場で深々と礼をした後、顔を上げると、自席に踊るようにして戻った。社内システムで休暇届を出してから、ログアウトし、パソコンの電源を切った。
太輔は、見ると何やら電話をしていた。その姿を一目見て、百合子は自席を後にした。