敗者の余裕
暦の上では五月になった。
違和感のある表現ではあるが、的を射ていると自負している。予備校の面々ときたら相変わらずだ。しっかりと浪人生らしく振る舞う者も少なくはないが、やはりどこか緊張感に欠ける。原因は様々にあるだろうが、その一因として予備校の授業の「ヌルさ」が挙げられる。
予備校と言えば、年がら年中、高度な受験対策を行っているものとばかり思っていた。少なくとも僕はそう期待して予備校に入った。だが現実は基礎的な事項の確認ばかりで、予備校の授業という点で勉強に張り合いが出ないのだ。だからといって受験勉強を怠けたり、授業をさぼる言い訳にはならないが、気を抜くとそうなってしまいがちだ。
浪人は常に己の弱さとの戦いを強いられる。周りとも戦い、自分とも戦い――その果てに答えを求める。
「はあ……」
深くため息をつきながら、自習室の掛け時計に目をやる。正午前、四時限目が終わる頃だ。午前の学習内容をさっとノートに記し、立ち上がろうとした途端、肩に物理的な重圧を感じた。何事か、咄嗟に振り向くと、
「びっくりしたか? 昼飯行こうぜ!」
と平田が笑っていた。彼特有の、目じりにしわのできる笑みを湛えながら、そそくさと自習室をあとにする。僕は突然肩を叩かれたことよりも彼が自習室にいたことに驚きを隠せずにいた。彼は日々の生活で勉強している素振りを微塵も見せない。隠れて勉強しているのか、はたまた本当に勉強していないのか、そんなことは彼のみぞ知ると言った具合に。
そもそも彼は浪人生という括りから逸脱しているように思えた。予備校をサボって、カラオケやボーリングに行ったり、女の子と遊んだり……日常の行動がまさに大学生のそれであったのだ。だから、今日ここで彼と遭遇したことは彼もまた浪人生であると、「同じ穴の貉」であることを自分自身に実感させしめた。そんなことを思いながら、ラウンジに向かうと、手を振る平田を見つける。
「おう、まあ座れや」
そう短く言い、着席を促した。そして他愛もない話をしながら昼食をとる。授業が終わったのだろう、ラウンジに人がごった返してきた。そんな時だ。
「お前、さっきのノート、なに書いてたんだ?」
今までの話題をぶった切る。
「さっきの……ああ、『学習ノート』のことか。あれは今日やるべきことをただノートに箇条書きしているだけだよ。前日に書いておくんだ」
「へえ~、律儀なことするねえ。どれ、ちょっと見せてみな」
そう言って手を差し出す。気は進まないが、ちょっとだけなら、とノートを引っ張り出す。平田はパラパラとページをめくりながら、半ニヤけの笑みを浮かべる。それはどういった感情を示しているのかはわからないが、まじまじと見入っている。
「ちゃんと勉強してんのな、感心するわ!」
「この『収穫』っていう項目を毎日書いていくのは有効かもしれないね」
ノートを返しながら言う。
この「学習ノート」と銘打たれたモノこそ、僕の勉強のペースメーカーである。仕様は至ってシンプルだ。一ページ一日としてノートを使い、前日のうちに次の日の学習計画を記す。科目ごとに為すべきことを箇条書きにし、それらを消化していく度に赤線で消していくといった具合だ。これだけならばわざわざノートにする必要はないが、続く「収穫」という項目が特筆的だ。
「収穫」はその日新たに学習したことや気付いたこと、反省などを記入する箇所で、さながら受験日記のようなものだ。このように日常の経験を文字化して留めておくことはただ漠然と受験勉強をし、日々を過ごすことを防いでくれる。今となっては重要な日課だ。
「オレも勉強しないとヤバいかな~」
彼がそうつぶやくや否や、携帯電話が鳴る。
「ああ、梨華ちゃん? おお、分かった、分かった、今から行く! じゃあ、また!」
そう言って電話を切ると、わりぃ、先行くわと言い残し、彼は去った。彼はいつから勉強に本腰を入れるのだろうか、他人事ながらに思った。