親孝行
眼下にスクランブル交差点を臨むカフェの一角で、人を待ちつつ、携帯電話の画面を注視する。午前十時前の店内は平日にも関わらず、空席はわずかだった。その多くは優雅にコーヒーを口にしながら、ゆったりとした時を過ごしている。
だが僕はその例外だろう。いま一つの岐路に立たされていた。二次試験前日のこの時間、一足先に受験していた私立大学の合格発表がなされようとしているのだ。午前十時になると、その大学のホームページにて、合格者の受験番号が一斉に掲示される。
今年度初めての大学受験、私立大学特有の人間の多さに圧倒されながらも、力を出し切ることはできたと思う。受験直後は合格間違いなしと高を括っていたが、この期に及んで不安になってきた。さっきからページの更新ボタンを何度も押しているが、まだ画面は変わらない。妙に切迫した状況に置かれているせいか、お腹の雲行きも怪しくなってきた。目を閉じ、深呼吸をする。胸の鼓動が激しく、体中に熱を帯びている。一秒、また一秒と指折り数えて、
(今だ……!)
念を込め、更新ボタンを押す。すると画面の様子は一変し、膨大な数字で満たされた。手元の受験票と見比べながら、一万の位から順に数字を探す。次第に千の位、百の位、十の位と絞り込んでいく。
そして遂に最後の一桁、一の位を探す局面になるや、一息入れるべく突っ伏してしまった。極度の緊張ゆえ、これ以上画面を見てられなくなったのだ。その気になれば、今から十秒以内に合否が分かってしまう。もし落ちていたらどうだろう、明日平常心で受験に臨めるだろうか、自問自答を繰り返す。いっそのこと、このまま見ないでおいて、一段落着いてから改めて出直すというのもアリかもしれない。そうだ、きっとそれが良いに違いない、知らずにおいた方が良いこともある。その方向に気持ちが固まりかけたその時、背後に人気を感じた。そして手元の携帯電話と受験票をひょいっと手に取るや否や、
「おお、あるぞ、あるぞ! 合格だ!」
と喜んで見せた。急いで携帯電話を奪い返し、見てみると、確かに僕の受験番号は存在した。二、三度確認する。それは確かだった。僕は見事に合格を勝ち得たのだ。
「合格おめでとう!」
前に座るなり、その人は言う。
「平田……先に見ちゃうの……?」
嬉しさもありながら、ちょっぴり残念な気持ちになる。
「次は自分の目で確かめような!」
上着を脱ぎながら笑う。彼と会うのはちょうど一ヶ月ぶりだったが、ちっとも変わっていない。以前の口ぶりから察するに、私立大学を受験していないであろう彼は第一志望合格かもしくは二浪か、結果は二つに一つしかなかった。それなのにこの余裕は何なのか、その精神力は一体何に由来しているのか、その破天荒さと合わせて畏敬の念を抱かざるを得なかった。
「遂に明日だな~」
彼は感慨深そうにつぶやく。合格発表の件ですっかり忘れていた。そうなのか、明日なのか、再び別の緊張が僕を襲う。
「お前さ、もし明日ダメだったらとしたらさ、さっきの大学に行くの?」
いつもと声色が違う。これは真剣な質問だ。
「そうなるかな~やっぱり」
「そりゃそうだよな……」
一瞬、物憂げな表情を浮かべる。僕は前から気になっていたことをぶつけた。
「なんで滑り止めの大学、受けなかったの?」
彼は確かにその問いかけを受け取っている様子だ。しかしなかなか答えられないでいる。まずいこと聞いたかなと思った矢先、
「何と言うか、家庭の事情ってやつ? 世の中、いろいろあるのさ」
そう言って彼は静かに笑った。明らかに無理をしている様子に、余計ことを聞いてしまったと後悔する。
「あっ……ごめん……」
「いや、気にすんなって」
彼は決して怒っていない。顔色からもそれは窺えた。しかしこのまま黙りこくってしまうと気まずい雰囲気になってしまう。そんな心配をよそに、次は彼の方から僕に問いかけてきた。
「お前ん家ってさ、両親は元気にしてる?」
「うん、まあ。あ、でも父親は『腰が痛い、膝が痛い』ってよく言ってるけど」
それを聞き、彼は笑う。今度は自然体で笑っているようだ。
「それはまずいな! ちゃんと労わってやんなきゃダメだぞ! 親孝行、親孝行!」
僕も笑う。そして彼は続けて、
「まあ、今は大学に合格することが最大の親孝行だろうな。」
口元は笑っていたが、やけにしんみりと聞こえた。僕はこくりと頷く。
『親孝行』――これまで一度でもそれを成し得たことがあっただろうか、少なくとも胸を張ってそう言えるものはなかった。だから明日の試験は自分の為だけに頑張るのでは足りない。両親は勿論のこと、応援してくれている親類や受験関係者など、今日の僕を支えている全ての人に感謝を忘れてはならない。その思いを胸に、彼らの期待に対し最高の結果で応える、これ以上の「親孝行」は考えつかない。
「腹減ったなぁ……どっか昼飯食いに行こうぜ!」
「それもそうだな」
多少長居してしまったカフェを後にし、人混みに入っていく。群衆の中から見上げた都会の空は柄にもなく、いやに青々としていた。




