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蛹の夢  作者: 金王丸
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巣立ち

 立春を迎えたというのに寒さは一段と厳しさを増すばかりで、気候の面でも受験の面でも春はまだ遠くにあると感じる。


 大半の受験生が共通の問題で得点を争うセンター試験から各大学で独自に実施される二次試験までの約一ヶ月間――それを迎えるまでは、気が狂いそうなほどの緊張や焦燥と戦わなければならないと覚悟していた。だが不思議なことにそのような感情はちっとも湧いて来やしない。


 それどころか、なるようになるさ、なるようにしかならない、という良い意味での諦観、悟りの境地にあった。もちろん勉強は続けている。しかし今日は別だ。


 「これ、今日中に終わるかな……」


 私物を段ボール箱に詰めながら、独り言ちる。すでに二、三箱も梱包を済ませたのに、部屋は生活感を失わないでいた。滑り止め受験のため、一足早く寮を出ることになった僕は、今日中に部屋を空ける必要があった。荷物の梱包、運搬、そして部屋の掃除、やるべきことはたくさんある。実際、猫の手も借りたいほどだったが、そんな面倒事を浪人生たる友人諸君に手伝わせるわけにもいかず、一人で四苦八苦していた。


 そして部屋の整理を始めて五時間、午後三時を過ぎた頃、部屋はすっかり片付き、後は問題集・参考書類を残すのみとなった。ひとまず休憩、と言わんばかりに敷布団のないベッドに横たわり、天井を見つめる。


 (最初もこんなだったっけ……)


 入寮当初から今日の今までを振り返る。思い出さずとも脳裏には様々なシーンが浮かび、その一つ一つに良かれ悪しかれ、その時の感情が付き纏う。浪人を経験する以前の僕はこんな一年になるとは想像できなかった。この一年という期間は毎日が平々凡々な日々の連続で、楽しいことはなにもないだろうと、なくて当然だと勝手に思い込んでいた。しかし現実は違った。たった十九年の人生ではあるが、これほどまでに濃密で、波乱に満ちた一年はなかったように思える。


 ふと横を向くと、部屋の隅に積まれた段ボールの他に、依然として本棚に並べられた受験関連の書籍に目が移る。使用頻度に差はあるが、どれも一度はお世話になった僕の「恩師」たちだ。僕はおもむろに立ち上がると、それらを手に取り、床に重ねていく。手垢に塗れたそれらの腹は努力の証だ。そして全体の四分の一程度、本棚から出した時だ。床には僕の膝くらいの高さまでに積み上がった本の山が出来ていた。


 (ひょっとして全部重ねたら僕の背丈を超えるんじゃ……?)


 僕は部屋の整理もそっちのけで、再びそれらを冊子の大きい順に重ね直す。なるべく重心が真ん中に来るよう、注意しながら重ねていく。そして遂に胸の高さまで到達した。残すはあと四分の一程度、小冊子ばかりだ。積み上げられた本の塔は、絶妙なバランスを保ちながら、なんとか健在だった。ここからが正念場だ。慎重に事を進めていく。一冊、また一冊と積み重ねる度に危うくなるその存在、現代のバベルの塔とも言うべきそれが僕の鼻先まで達した時だった。次に重ねる本を手に取るため腰を屈めた際、不注意に突き出した僕の尻がその横腹に触れた。次の瞬間、大きな音を立て、崩れてしまった。床には片付けるのも億劫になるほどに大量の本が散乱している。


 「くそっ、あと少しだったのに……」


 思わず声が漏れる。だがもう一度挑戦する気にはなれないでいた。積み上げれば自分の背丈ほどになる受験参考書類、それらは僕の心の軸としてバベルの塔よりも高くそびえ立ち、今の僕を支えている、それを認識できただけでも十分だった。そんな感慨に耽っていると、突然、部屋の扉が開く。


 「どうした? さっきすごい音がしたけど」


 隣に住む川口が訪ねてきた。


 「えぇ……」


 彼はその光景に思わず驚愕する。なにせご覧の通りの有り様だ、無理もない。


 「いやね、実は……」


 この状況に至った事情を一から説明する。


 「今日出て行くのか? 聞いてないぞ!」

 「夕食の時に言おうかと……」

 「早く言ってよ! 水臭いな~」


 そう言って床に散らかった本に手を伸ばす。


 「最初に見た時は気でも触れたかと思ったぞ」

 「そんなわけないだろ!」


 僕たちは顔を見合わせ、互いに笑ってみせる。


 「夕食までには終わらそう」


 それを合言葉に、雑談を交えながらの作業だったが、一人でやるよりはずっと楽しく、またすこぶる捗った。そして午後六時、目標の時間に片付けを終えることができた。



 「ふぅ……やっと終わったな……」


 川口は思わず床に座り込む。


 「ああ、手伝ってもらって悪かったな」


 僕は椅子に腰掛け、額に滲む汗を拭う。二人とも疲れていた。肉体労働の心地よい疲労だ。しばらくそうしていると、


 「そろそろ下に降りようぜ、夕食の時間だ」

 「そうだな」


 二人揃って部屋を出て、食堂に向かう。なぜだろう、無性に懐かしい気がした。


 「今日は手伝ってくれてありがとうな、後でジュースでも奢るから」

 「う~ん、それじゃ足りないね」


 予想外の反応に僕は驚く。そしてこちらに眼差しを向けて、


 「合格祝いに焼肉おごってくれ! それでチャラな!」


 彼はニヤリとする。僕も、がめつい奴だ、と応じて笑う。


 「とにかくお互い頑張ろうぜ」

 「ああっ」


 互いに健闘を誓い合い、食堂に入る。今日は長い夜になることなど、この時点では知る由もなかった――。


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