怠惰の誘惑
「……であるからにして……」
桜の季節も過ぎ、四月も半ばに差し掛かっていた。浪人の身としては縁遠い話だが、同じ頃大学は新歓期であり、現役で大学に入った連中はそれを謳歌していることはSNSから窺い知れた。なるべく見ないようにはするものの、目についたら最後、現状の歯がゆさに苛立ちを覚えたりもする。街に繰り出しても同じで、浮足立った大学生の集団を見るや否や、内に秘めたイライラが顔をもたげる。浪人に限ったことではないが、所属が曖昧である立場はかくも情緒を搔き乱すのかとまざまざと思い知らされる今日この頃だ。
――キーン、コーン、カーン、コーン……
授業の終わりを告げる鐘の音を聞き、ハッと我に返る。一コマ五〇分は案外短いものだ。気を抜くとすぐに終わってしまう。
「あと二コマもあるぜ……ぶっちゃけ社会の授業、いらなくね?」
隣の平田が同意を求めてくる。だがこれは単純な同意を要求しているものではないことは容易に察しがついた。その言葉は、授業をサボろう、という勧誘の含みが多分にあった。
「サボるのは……さすがに気が咎めるよ……。高い授業料払ってるんだから……」
その言葉を聞きながらも彼は帰り支度を始めた。
「やっぱり真面目だな、感服するよ! だがオレは帰る」
「悪いけどさ、授業のプリント、代わりに取っといてくれ」
そう言い残すと彼はそそくさと教室を出て行ってしまった。いきなりこんなので大丈夫なのだろうか、そんないらぬ心配をしてしまう。
本番まであと十ヶ月弱、最初の模試まであと一週間強、徐々に受験競争に引き戻されつつあるのに、周り、というかむしろ予備校全体に焦りの様子はなく、変な余裕すら感じる。その雰囲気に違和感を覚えながら、またそれがなくなることを恐れながら、今のところは目標に対して努力できている。ここにきて初めて、周りに流されずに努力することの難しさを痛感した。怠惰の下流に流されぬためには岩のように頑強で不動の意志が必要だ。しかしそれは誘惑の激流に晒され、やがて岩が削られ、石になると……。だから今日も必死にその流れに抗う。
――キーン、コーン、カーン、コーン……
授業が始まる。眠い目をこすりながら、テキストの字面を追う。半ぼやけの視界に消え入りそうな文字列を捉えながら二時間弱を凌ぐ。そして一日が終わる。疲労感を全身に湛えて帰路に就く。途中傍を通る公園の桜の木はその花弁を散らし、新緑に衣を変えていた。そこに何かを鮮明に感じ取ったわけではないけれど、少し羨ましく思えたのはなぜだろうか――。