思い出の場所(前編)
鈍色の冬空にそりを牽引しているトナカイはいない、赤装束の大男も同様に。幼少期には見えた、二ヶ月前には見たいと望んだその光景、悲しいかな、今の僕には見えない、と言うか見るに堪えない。街の至る所に恋人同士が集い、競うようにして寄り添っている。恋人のための前夜祭、クリスマス・イブだ。
人は見たいものを見、聞きたいことを聞く。当人の知覚に触れなければ、その物事は存在自体し得ないのだ。部屋に籠って勉強でもしていれば、その日は特別で有り得なかっただろう。それなのにわざわざ外出し、事もあろうに元彼女との思い出の場所を漂う自分がいた。ただ一人、歩を進めるたびに切なく、感傷的になる。そして最後に、あの喫茶店に至った。
店内に入ると、何の因果か、この前来た時と同じテーブルに通された。二人掛けのテーブルに一人、周囲にこだまするさえずり、地鳴きの応酬に耳を傾ける。順調に行っていれば今頃は……、考えるだけで心の奥底にしまった何かが顔を出しそうになる。
(梨華ちゃんに連絡を入れてみようか……)
内心で葛藤する。別れて以来連絡もしていないのに何を今更、みっともないと諭すプライドに対し、心の奥底から首をもたげたそいつはしきりにそれを促す。僕は頭を抱えた。どうするべきか、決断できずに頭の中で逡巡する。
(そう言えば……)
咄嗟にカバンを探る。
(やっぱり……)
それはあの日のまま、カバンの奥に眠っていた。イニシャル入りの指輪、彼女の誕生日プレゼントに用意した物だった。かなり高価な代物だったが、名前を彫ってしまったために返品もできず、持て余したまま、箱ごとカバンに入れっ放しにしていた。それをテーブルに置き、箱を開ける。いざその指輪を目の当たりにすると、理性に抗う気持ちに傾く。見栄、外聞、プライド……。今まで頑なに本心を抑え込んできたそれらを初めて滑稽に思えた。やはり自分の気持ちに素直になろう、遂に決意が固まった。
しかし一方で、その反動からか、急にお腹が緩むのを感じた。ひとまず用を足すべく、一路トイレに向かった。ところがトイレはあいにくの使用中で、しばらく待たされた。その間、腹痛は収まるどころか、その勢いを増し、第一波のピークに差し掛かっていた。時が惜しい。額には汗が滲む。
(早くしてくれ!)
中から音はしない。とっくに便は出尽くしたはずだ。おそらくダラダラと携帯電話をいじっているに違いない。自然と腰が砕ける。危機は目の前だ。こうなったら仕方あるまい、ドアを叩くことで切迫した状況を中の人間に知らせる必要がある。
(よしっ……!)
意を決し、ドアを叩こうとしたその時、水流音が耳に飛び込んできた。良かった、手荒な真似をせずに済んだ、そう安堵したのも束の間、ドアが開くと、
「えっ……」
僕は呆気にとられた。
「おっ、おう……なんでお前がここに……」
困惑した表情を浮かべる青年は利き手であろう右手を挙げて、小さくこちらに合図を送る。
「平田……じゃないか……!」
トイレで男二人、しばらく立ち尽くす。気付けば腹痛は収まっていた。




