プロローグ
書きためておいた分がなくなるまでは毎日投稿となります。
「そこの殿方、新しい生活を始めてみたくはありませんか?」
それは唐突だった。いわゆるブラック企業での度重なるパワハラとモラハラのせいで鬱病になり、職場を休職していた俺は、家の中で長々と続けていた引きこもり生活をまずは脱するべく、久しぶりに街の中までやってきていたのだった。最近発売されたという新書版のライトノベルを購入し、さて家に戻ろうかと思った矢先、そう声をかけられたのである。
ちらりと視線だけを動かして声がした方を見ると、歩行者の通行の邪魔にならない場所に、国のお役所がやっているという自殺者予防の事業の名前が書かれたのぼりが立っており、その脇に設置された簡易テントの中にある簡単なカウンターの中から、年の頃二十代と思われる若い女性が俺のことをじっと見つめていた。
「俺に、言っているんですか?」
「ええ、もちろんです。あなたは我々の行っている事業にあてはまりそうなお方とお見受けいたしました。どうですか?お話だけでも聞いていただけないでしょうか?」
そう言われた俺は、今までの事とこれからのことを思案し始める。このままじゃいけない、けれども復職できるかどうかもわからないし、復職できたとしても周囲が受け入れてくれるかどうかもわからない。カウンセラーの先生に勧められて福祉手帳の申請をしたけれども、その審査が通るかもまだ不透明だ。それならば、話を聞いてもいいのではないか、そう思った俺は頷くと簡易テントの中に入っていった。
簡易テントの中の折り畳み机と、折りたたみいすで作られたカウンターの前に座った俺は、声をかけてきた女性と相対するように座った。目の前の女性は優しく俺に微笑みかけると眼鏡の奥の瞳をきらっと輝かせて口を開いた。
「ええとですね、私がお声をかけさせていただいたのは、あなた様が今の状況に満足していない、このままでは無駄に命を散らせてしまう可能性が高いと判断したからなのです。お間違い、ないですか?」
「え、ええ。まあ。そんなに、顔に出ていましたか」
「それはもう。ぱっと見て沈んだ表情をなさっていましたし、目も虚ろで光がなかったですからね。さぞ、辛い思いをされたのでしょう。お辛かったですね」
「はい……。少しはましになってきた方なんです、これでも。少なくとも、買い物に出られるくらいには」
「でも、あなた様はこれからの生活に不安を抱えていらっしゃる。果たしてこのまま生活が続けられるのだろうか、転職活動をして、よい環境とよい待遇を得られる保証があるのか、不安を抱えていらっしゃいますね」
「ええ……。年齢ももうアラフォーですし……。もう、雇ってくれるところはグレーゾーンかブラック企業しかないような気がしてならないんです。この国は、レールから一度外れてしまった人間には、非常に冷たいですから……」
諦めきったような表情と声色で俺が言うと、目の前の女性は顔を曇らせる。そんな彼女の表情を見て、俺は失言だったなと察した。国の事業をしているということは、この女性もそれなりの地位にいる人間に違いないのだから。そんなところに、国を批判するようなことを言われては気分を害するだろう。そう考えた俺は、一言「すいません」と付け加えた。
「いえいえ!そんなことではありません。我々も常々、そう思っているのですから謝らなくても大丈夫ですよ。そこまで追いつめられているとは思っていなかったので、それで……」
「そんなに、そういう風に見えますか」
「はい。我々の仕事は、あなた様のような方を救うことなのです。新しい場所で、新しい生活を送っていただき、そこで人生を思う存分楽しんでいただく。もちろん、危険なこともありますが、それは納得していただければと思います。海外に行けば、危険なんてそこら中に転がっているものですし、この国の治安状況がいいとはいえ、いつ何時事件に巻き込まれるかはわかりませんからね。そこは当然のリスクとして考えていただければ、と。ああ、もちろん我々も極力サポートはさせていただきますよ?アフターケアも、我々の仕事ですから」
「そう、ですか。それなら……」
「よかったです!まずは、この書類に目を通していただければ!」
ぱあっと顔を輝かせて、満面の笑みを浮かべた女性が差し出してきたパンフレットには、『異世界生活の手引き』と書かれていた。その内容に一瞬呆れたような表情をしたが、同時に俺はそれに興味を惹かれていた。この世界で生きにくいならば別の世界で新しい人生を始める。そこに強く興味を惹かれたのである。
パラパラとそれをめくって内容を確認していくと、そこには数々の項目が分かりやすいイラストを使用して説明されていた。俺は、それにざっと目を通すと、目の前の女性をまっすぐ見つめた。
「あなたは、この国の神様、なんですね。この国の現状を憂いた神様が、このような事業をせざるを得ないほど、この国の状況は悪いってことなんですね」
俺のその言葉に、目の前の女性は大きくうなずく。それを肯定の意味だととらえた俺は、机の上に置かれたままのパンフレットに目を落とした。
「はい。この国は二度の戦争と大きな自然災害から幾度となく立ち上がってきました。ですが、今のこの状況は非常に歪みを孕んでいるのです。あなたもご存知かもしれませんが、この国では毎年三万もの命が無駄に失われているのです。それも、寿命などではなく自らの意思で命を絶っている。それをこの国を治めている者達や、企業の上の者達は不自然なことととらえていない。ひたすら一般市民が産みだした利益を貪りそれを還元しようともしない、違法に住み着いた海外の者を排除することもせず保身のためにそれに力を貸す。それによって十分な保障を得られず自ら命を絶つという選択をする者が増える。その歪みが、我々の仕事にも影響を及ぼし始めてきているのです。特に、魂の循環に大きな歪みが生じてきてしまっているのです。今ではこの国だけではなく、この世界全体の問題として早めに解決しなくてはいけない最大のものとなってしまっているのですよ。魂の循環が滞れば、それを貯蔵しておくための世界……死後の世界もパンクしてしまうのですからね。そこで、この世界に不必要なマナを抱えてもらい、マナを必要としている別の世界に新しく産まれなおしてもらう、といった事業を始めることにしたのです。幸いなことに、マナを必要としている世界は多くありますので、その世界を管理している神々との交渉はスムーズにいきました。抱えていただいたマナは、あなた様が産まれなおした時点で世界に還元されますから、あとはご自由に生活なさっていただいて構いません。もちろん、この世界とは理も何もかも異なる世界ですので、その世界に適応できるように肉体のベースとなるものはこちらで用意させていただきます。あとは、そこにあなた様が細かい調整を加えていただくという形になっております」
「内容はおおむね理解できました。その……細かい調整、ですか?そこで、いわゆるチート能力をつけるということはできないのでしょうか?」
「はい。それはある程度の範囲……世界の理を破壊しない程度でなら大丈夫ですよ。例えば、プレイしているオンラインゲームのキャラクターそのままの姿や能力を持ってくるとか……」
「それなら、この申し出を承ります。どうせ、このまま生きていてもいいことはないでしょうし、明日を生きている保証もない。それでしたら新しい世界で人生をやり直すのも一興でしょう」
俺がそう言うと、目の前の女性は優しく微笑みながら一枚の書類を差し出してきた。そこには転生同意書、と書かれており項目にチェックをしてサインをするという形式のものだった。
俺は、それに目を通してあてはまる項目にチェックを入れていく。希望する能力は自由記入欄だったが、そこには廃人のようにやりこんだオンラインゲーム――ホライゾンアークスオンライン、通称ホラアクのメインキャラクターの能力と容姿を希望、と書いておいた。レベルカンストまで育て上げ、数々の称号とスキルを網羅し、ソロでその時点での最高難易度のダンジョンも攻略できるくらいまでに育て上げたキャラクターである。これならば、異世界に行っても通用するだろう。
最後に、転生前の記憶の保持の有無、と書かれた項目の『有』に丸を付けた俺は、同意のサインを記入した。
すると、その途端に意識がふっと途切れるような感覚がして、目の前が暗転したのだった。
そしてこの日、一人の男性が日本から姿を消した。
だが、その男性が最初からいなかったかのように、彼の周囲の者達は振る舞っていたという。
本日は後1話投稿予定です




