幕間
それは、一瞬の夢のようだった。
長閑に青い空。
黒々とした枝を空に伸ばす木々。
その木陰に座る一人の女性。
女性にしては飾り気の少ない恰好をしている。
着ているのはトラウザーズだろうか。
女がそんな恰好をするなどと、と見る者によっては顔を顰めそうな光景であるが、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。
異国の者だと、すぐにわかったからだろうか。
艶のある、混じりけのない黒髪。
ただの黒髪であればそれほど珍しくもないが、この辺りで見かける黒髪というのは濃い茶が光の加減で黒く見えているということが多い。
どこか、赤みを帯びているのだ。
だが、彼女の黒髪はむしろどこか青みがかってすら見える黒だ。
そして、肌の色合いもこの辺りの者とは違っていた。
白いが、しかし血の色を透かして見せない肌の色は健康的であると同時にどこかエキゾチックな印象を見るものに与える。
辺境の辺りに住む、馬に乗って狩りと放牧を行う民と少し雰囲気が似ているような気がした。
光を湛えた少し物憂げに遠くを見つめる双眸もまた、髪と同じく漆黒だ。
ほんのりと色づいた唇が、言葉を紡ぐ。
音は、聞こえない。
きっと聞こえたとしても意味はわからなかっただろう。
彼女は少し拗ねているようだった。
軽く唇を尖らせつつ、何事かを語り掛けながら漆黒の眼差しを隣へと向ける。
己の隣に座った、黒々とした鱗を纏う悍ましいほどの魔力の塊へと―――
「!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?」
エレハルドは、声にならない悲鳴のようなものを上げつつ飛び起きた。
がたん、と椅子が倒れる喧しい音が響く。
なんだ。
なんだ今のは。
何かとんでもないものを見てしまったような気がする。
「エレハルド様!? どうかなさったのですか!?」
慌てて駆け寄ってきた女官の差し出すグラスを受け取る。
薄くカットされた果実が浮かぶよく冷えた水は、動揺して千々に乱れるエレハルドの心をささやかながら宥めてくれた。
「……ありがとう、サシェル」
ほう、と息を吐き出して、周囲を見渡す。
場所は、城内にあるエレハルドの研究室だ。
手元には、各国から送られてきた『災厄』の現状を問う手紙が広げられたままになっている。
「……僕は、寝ていた?」
「いいえ、お仕事をされているように見えましたが……」
「……そう」
深く、息を吐く。
エレハルドの魂に刻まれた『遠見』の術は、目を閉ざすとその眼裏に自動で『災厄』の姿が浮かび上がるというものだ。
それ故に、監視役の人間はふとした瞬間に現実を見失うことがある。
自分が見たものが実際の『災厄』の姿なのか、それとも『災厄』への恐怖が生んだ悪夢なのか、区別がつかなくなってしまうのだ。
今のは、どちらだったのか。
エレハルドの恐怖が生んだ幻覚なのか。
それとも――……現実なのか。
「…………」
再び目を閉じてみる。
あの映像の続きが眼裏に浮かぶことはなかった。
が、それだけであの映像が夢だったと判断することは出来ない。
前に一度、エレハルドは一瞬とはいえ異界に逃れた『災厄』の気配を捕まえることに成功している。
元より『遠見』の術という強固な繋がりがエレハルドと『災厄』の間には存在しているのだ。
『災厄』が世界の壁を超えたことにより、『遠見』の術が不安定になっているとはいえ、ふとした瞬間に繋がったとしてもおかしくはない。
「サシェル、儀式の間に行く」
「ですが、少し休まれた方が良いのでは」
「構わない」
気遣わし気な声にも短く答えて、エレハルドは研究室を後にする。
それだけ、先ほど垣間見た映像は衝撃的なものだったのだ。
異郷の女性だけなら、問題はない。
だが、その隣にいたアレは何だ。
エレハルドの目が確かなら、エレハルドが正気なら、アレは『災厄』だ。
かつてエレハルドの瞼の裏に捕らわれていた悍ましき獣だ。
虹色の艶を帯びた漆黒の鱗に、混沌を閉じ込めたような色合いの双眸。
長くのたくる尾。
どれもが、エレハルドがよく知る形のままだ。
だが、その大きさにのみ違和感を覚えた。
牢獄世界に閉ざされていた時の『災厄』は、もっと大きかったはずだ。
実際に比較対象があったわけではないが、『災厄』を観測していた賢人たちの間では、『災厄』の体長は人を遥かに凌ぐと結論づけられていた。
その『災厄』が、先ほどの映像の中ではまるでよく躾けられた犬か猫のように、あの女性の隣で丸くなっていた。
「……何言ってんだ馬鹿か。『災厄』を躾るなんて」
頭の中で並べた文言に、自ら批難がましく口を開く。
『災厄』を躾る。
そんなことが出来るわけがない。
アレは一にして全なるイキモノだ。
単独ですべてを可能にする。
そんなイキモノを躾けることが可能だろうか。
取引をするにしたって、相手は万能の生き物だ。
そんな相手に差し出せるものなどがあるはずもない。
「だから、あり得ない」
あの光景は夢でなければならない。
かつかつと速足の足音を廊下に響かせ、エレハルドは儀式の間へと向かい――…その行き先を阻むように、痩せぎすの男の黒い衣の裾が揺らめいた。
「何があり得ないのかね、エレハルド殿」
「――…ゲーティア殿」
「……位としては卿の方が上なのだ、呼び捨てで構わない」
「…………」
ぐ、とエレハルドは黙り込む。
その無言こそが、そうはいかないのだという答えじみていた。
ゲーティア・ウル・ペンギリス。
アルテイト帝国の宮廷魔術師である。
少し白の混じり始めた黒髪を丁寧に撫でつけた身なりの良い男だ。
細身の長躯はいかにも魔術師らしい偏屈さを漂わせているものの、ひ弱な印象とはほど遠い。細身ではあっても、鋼の縄をより合わせたような芯の強さを思わせる。
エレハルドは、この一回り以上年上の男が苦手だった。
愛想の良いとは言えない常に浅く眉間に皺を寄せた灰色の眼で見据えられると、エレハルドが上手に取り繕ってきたいろいろなものが露見していくような感覚に襲われて仕方がないのだ。
出来の悪さを叱られる生徒のような気持ちになる、と言えば伝わるだろうか。
初めて会ったのは、エレハルドがまだ十代に差し掛かったばかりの頃だった。
その頃のエレハルドは今よりもずっと自分のことを賢いと信じて疑わない厭な子供だったと思うし、自分を実際よりも賢く見せかけることに秀でてもいた。
だから、初めて賢人会議に招集された時もさも当然という顔をした。
他の賢人たちが、十代の前半という若さで賢人に名を連ねたエレハルドへの畏怖のような感情をその目に滲ませ、遠巻きにした中、このゲーティア・ウル・ペンギリスという男だけはその鈍色の眼でまっすぐにエレハルドを見た。
彼の眼には、他の大人たちのように底知れぬ可能性を秘めた小さな天才に対する恐れのような色はなかった。
また同様に彼には、エレハルドを子供だからと軽んじる色も、子供だからと甘やかす色もなかった。
ただそこにいるエレハルドを、一人の賢人として見定めていた。
先に目をそらしたのはエレハルドの方だった。
一人の人間としての、底の浅さを見透かされた気がした。
本当の意味でエレハルドを子供扱いしなかったのはゲーティアが初めてだったし、それがきっと『子供扱いされない』という言葉の意味を身をもって理解した瞬間だった。
彼はエレハルドを個人として扱った。
他の賢人のようにエレハルドを天才として扱うこともなければ、その逆にエレハルドを無理に大人として扱うこともなかった。
彼の前では、賢人の中では異質なエレハルドの幼さも、ただのエレハルドの特徴の一つでしかなかった。
だから、エレハルドはこの男が苦手だ。
別段何か厭なことをされたわけではない。
ただ単に、賢しらに見栄を張っている自分の底を、この男だけが正しく見透かしているような居た堪れなさを感じて仕方なかっただけだ。
それはエレハルドがこの世界における最高の魔術師である賢人会議の長となり、、ゲーティア・ウル・ペンギリスという男がアルテイト帝国の宮廷魔術師という立場に収まってからも変わらなかった。
むしろ、強まったとも言える。
それどころか正直に言うと――…、エレハルドはゲーティアに対してコンプレックスにも似た感情を抱いている。
世間一般的には、エレハルド・ウル・アレンシアとゲーティア・ウル・ペンギリスの出世競争は、エレハルドの勝利で終わったと言う風に見られている。
長の代替わりが人々の話題になり始めた頃、長の候補はエレハルドとゲーティアの二人だった。
そして、選ばれたのはエレハルドだ。
それを誇らしく思ったこともあった。
だが――……。
『災厄』を実際に目のあたりにして、監視役という役割を引き継いで、エレハルドの感想は変わった。
エレハルドは、その優秀さ故に態の良い生贄として選ばれただけではないのか。
『災厄』と魂でつながるというのはそれだけで気が狂いそうな重圧だ。
監視の役割を果たすだけで精一杯で、他のことは出来なくなる。
人々はエレハルドのことを敬い、『災厄』対策における第一人者として尊重してくれる。
けれど、アルテイト帝国において魔術師が必要とされるような事態が起きた時に人々が頼るのはゲーティアだ。
それが役割分担なのだということはわかっている。
だがそれでも――…先代はエレハルドを監視役の後継者として選ぶことで、本当に優秀なゲーティアをその責から救い、宮廷魔術師としての道に進ませたのではないか、と心の底に暗い疑念が沸き起こってしまうのだ。
「…………」
エレハルドは内心逃げ出したい気持ちを堪えて、ゲーティアへと向き合う。
「……『災厄』を再び感知しました」
「そうか。して、『災厄』の様子は」
「…………」
つい、口ごもる。
「エレハルド殿。どうかしたのか」
「いえ……ゲーティア殿も知っての通り、私の魂に刻まれた『遠見』の術は現在『災厄』が牢獄世界を抜け出したことによりあやふやな繋がりになってしまっています。それ故に、私が見たものが己のうちから生じた一瞬の幻覚なのか、それとも事実なのかが今は判断がつかず」
「……なるほど。それで儀式の間に急いでいるわけか」
「はい」
無意識のうちに繋がるほど、エレハルドと『災厄』の間の魔力の繋がりが復活しているのならば、儀式の間にて集中して覗けば、きっと再び『災厄』の姿を眼裏に捕らえることにも成功するだろう。
そうすれば、先ほどの光景が現実なのかどうかがほぼ確実に確認できる。
「卿が答えを急がないということは、それだけ不味いものが見えたということなのだろうな」
エレハルドに答えを求めるわけではない、独白めいた言葉。
その通りだよドチクショウ、と口走りそうになるのを喉奥に飲み込んで、エレハルドは静かに一礼してゲーティアの傍らをすり抜ける。
ゲーティアもそれ以上エレハルドを引き止めようとはしなかった。
引き止めても意味がないことをわかっているのだろう。
速足に儀式の間へと足を踏み入れると、エレハルドは呼吸を整え、靴を脱いで素足になってからその中央へと歩を進めた。
ひやりとした静寂がエレハルドを迎え入れる。
室内は薄暗く、唯一の光源は天井に嵌め込まれた拳大のクリスタルを通して差し込む外の光だけだ。
エレハルドは静かに部屋の中央の泉へと歩を進める。
ひたりと素足に触れる冷たい水の感触。
その冷たさに神経が研ぎ澄まされていくような気がする。
幾度となくこの場にて魔術を行ってきたからか、このひやりとした感覚がエレハルドにとっては気持ちを切り替えるスイッチになっている。
頭の中で渦巻いていたいろいろな考えが呼吸と共に意識の外に抜けていく。
後に残るのは、魔術を行使するための装置としての己だ。
ひやりと足裏に感じる冷たい石の感触と、額に受ける光の熱感。
己の身体をその二つを繋ぐ回路に見立てて、エレハルドは閉ざした眼の裏に『災厄』の姿を探して神経を集中する。
魔力の細い糸が、世界の壁を越えて異界へと繋がる。
少しずつ、少しずつ、いつも身近に感じていた『災厄』の気配が濃くなっていく。
そして。
『災厄』を肩に乗せ、仲睦まじく談笑しながら道を歩く女性の姿を幻視したエレハルドは、泡を噴いて卒倒した。
目覚めたら、見慣れぬ天井がエレハルドを見下ろしていた。
「……………朝かな」
朝だ。
きっと研究室で目覚めてから、儀式の間までのかれこれはすべて夢だったに違いな――
「いいえ、夕方です。エレハルド様が泡を噴いて昏倒なされましたので、医務室へお運びさせていただきました。お召し物も替えさせていただいております」
「あー……」
―――現実逃避、失敗。
サシェル女史はどこまでも優秀な女官だった。
出来ることならば、儀式の間で見たものが夢だったと思い込みたいエレハルドの逃避を、きっちりとした報告で潰してくれた。
ゆっくりと身体を起こす。
賢人としての装束ではなく、ゆっくりと身体を包む楽な恰好へと着替えさせられている。
おそらくエレハルドは儀式の間の泉の中央でひっくり返っただろうので、当然の処置だ。もしゃり、と指先でかき混ぜた髪もさらりと乾いている。
「僕はどれぐらい意識を失っていた?」
「3、4時間というところではないかと」
「そうか。ゲーティア殿はまだ城内にいらっしゃるかい?」
「――はい。エレハルド様がお目覚めになるまでは城内で待機する、と仰っておりました」
「わかった」
エレハルドが卒倒するほどのことが起きている、とゲーティアはゲーティアで正しく状況を把握しているようだ。
その冷静さが、今は少し腹立たしい。
「エレハルド様、ゲーティア様をこちらにお呼びしても良いでしょうか」
「いや、僕が行く」
「…………」
女官から向けられる眼差しは、どこかもの言いたげだ。
エレハルドが、ゲーティアに対して譲りすぎだと思っているのだろう。
位としては確かに賢人の長であるエレハルドの方が上だ。
こういった場合において、エレハルドがこの場にゲーティアを呼びつけたとしても何の問題もない。
何の問題もないが……そうやって実際の実力とは裏腹にゲーティアに対して立場を見せつけているのだと思われるのが癪だった。
エレハルドは、正しく自分の実力を評価しているし、敬うべき相手はきちんと敬うことが出来る。決してノセられるままに勘違いに驕り高ぶっているわけではないんだぞ、というのがエレハルドのささやかな主張であり、意地でもあった。
女官がそっと差し出す履物に足を通して、ベッドから降りる。
身だしなみを軽く整えて、ゲーティアの執務室へと向かって歩き始めた。
アルテイト帝国の宮廷魔術師であるゲーティアには、帝国内で起こる魔術師絡みの案件や人員の配置といった細かい仕事までが集中する。
例えば辺境の村で水が足りないなどという訴えがあれば、水を生む魔術を心得た魔術師を派遣するように取り計らうのはゲーティアの仕事だし、水不足が慢性的に続くようであれば土関係の魔術を心得た魔術師と共に作業員を派遣して治水工事の手配を行うこともある。
それ故に、宮廷魔術師であるゲーティアは研究室よりも執務室にこもっていることが多い。
どっしりとした作りの扉を、手の甲で軽く叩く。
「入ってくれ」
「失礼します」
許可を得て、ゲーティアの執務室へと足を踏み入れる。
部屋は人を表す、という言葉があるが、まさにその通りだとエレハルドは思う。
重厚感のある暗い色合いで揃えられた調度品は、古びてもいるがそれ故の貫禄を帯びて存在感があり、使い込まれているからこその艶を帯びている。
そして大量の書類仕事があるだろうに、きちんと片付いたライティングディスクの上は、一分の隙もなく整頓されている。
書類の角度など測ったように机の辺と平行だ。
「具合はもうよろしいのか」
「はい、ご迷惑をおかけしました」
「…………」
何かもの言いたげな眼差しを向けられたような気がする。
が、結局ゲーティアは何も言うことなく、エレハルドへと椅子を勧めた。
少し迷ってから、これぐらいなら構わないだろうと言葉に甘えて、腰を下ろす。
「……卿が見たものに、違いはなかったか」
「…………、はい」
少しの間を置いて、エレハルドは頷く。
ゲーティアに報告するために来たはずなのに、それを口にすると先ほど見たものを現実だと認めるようで躊躇してしまう。
また、果たして言葉にしたところで信じてもらえるのかというのもある。
「…………」
「…………」
それでもいつまでも黙りこくっているわけにもいかない。
エレハルドは、唇を舐めて湿らせてから口を開いた。
「『災厄』は異界にて、人と共存しています」
「―――ッ」
小さく、ゲーティアの呼気が跳ねる。
瞠目。
それからの、深い嘆息。
節のある骨ばった大きな手を持ち上げて、ゲーティアは顔を隠すようにして指先で眉間を揉んだ。
「……恐れていた通りのことが起きたな」
「ええ」
以前、エレハルドが人の姿を取った『災厄』を見て以来、賢人たちの間では度々「何故『災厄』が人の形を模しているのか」という疑問が議題に上がっていた。
これまで『災厄』は黒い鱗に覆われた四足歩行の獣――…いわゆる伝承に多く登場する『竜』に似た姿を取っていた。
これまでにも、『災厄』が姿を変えたことはあった。
牢獄世界における環境に合わせて、微細な変化が見られていたのだ。
空を翔ける折には、地上にいるときよりも翼が大きく、強化されているようにも見えたし、水の中を泳ぐ折りには普段よりも泳ぎに適した滑らかなフォルムに形が変わっているようだった。
それ故に、賢人会議において「『災厄』には環境に合わせて形を変える能力がある」というのは広く知られた事実だったのだが……、それを「変身能力がある」と取るかどうかでは賢人たちの意見は二つに分かれていた。
あくまで『災厄』の変化は、本来なら長い時間かけて環境に適応する程度の変化を瞬間的に短縮したものである、というものと、『災厄』は望む形に変わることができるのだという説だ。
今までは、『災厄』が具体的に他の生き物を模して変身したことがないことから、前者が有力な説だとされてきた。
だが――……エレハルドが先日観測した通り、『災厄』は人の形をとっていた。
ここで問題になるのが何故、だ。
何故、『災厄』は人の形をとる必要があったのか。
おそらく、『災厄』は現在いる世界で初めて人に遭遇したのだろう、というところまではまだ理解できる。
だが、それだけでは『災厄』が人の形を模す理由としては弱い。
『災厄』は完璧な存在だ。
他の何かになる必要などないはずなのだ。
そのときに上がった仮説の一つが、人とコミュニケーションをとるためではないか、というものだった。
それは、エレハルドら賢人にとって何よりも恐ろしい仮説だった。
『災厄』は、これまで何も知らなかった。
何も知らないからこそ、牢獄世界の中でおとなしくしていたのだ。
外に別の世界があることも、本来ならばエレハルドらのいる世界に生まれ落ちるはずだったことも、知らないでいる。
けれど、『災厄』が人と交わり、知識を得たならば?
『災厄』が人と交わることで、感情を得たならば?
『災厄』は、己の出自を知りたいと思うようになるかもしれない。
そうなれば、『災厄』は己がどうしてあの劣悪な牢獄世界に閉ざされていたのかを知るだろう。
その時こそ、エレハルドらは『災厄』が『災厄』と名付けられた所以を思い知らされることになるのではないのか。
それだけではない。
『災厄』が今いる世界の人間と親しくなったのなら――…それは、『災厄』という力をあちらの世界の人間に渡したことに変わりない。
『災厄』の持つ力だけでも恐ろしいのだ。
そこに、異界の人間の思惑が加わることを考えると、エレハルドの胃はキリキリと変な痛みを訴えだす。
「明日にでも、賢人会議を招集して報告、その後対策を考えたいと思います」
「……………」
すぐに頷くだろうと思われたエレハルドの言葉に、ゲーティアは眉間に皺を寄せたまま沈黙を守る。
何かおかしなことを言っただろうか、とエレハルドはそろりとゲーティアの様子を窺った。
「…………いや、何でもない」
「…………」
何かを言いかけて、呑み込んだようにも見えるその様子に今度はエレハルドが内心眉間に皺を寄せる。
ゲーティアに意味深な振る舞いをされると、エレハルドとしてはかなり落ち着かないものがあるのである。
己が何か間違ったことをしているような気になる。
出来の悪さを、己の犯した過ちにすら気づけないほどの愚鈍さを教師に無言で責められているかのような、錯覚。
バツが悪い。
「……『遠見』の術は戻ったのかね」
「未だ完全に、というわけにはいきませんが。儀式の間でなら、おそらく安定して『災厄』の様子を見ることが叶うでしょう」
「そうなると――…イズミアル神聖王国の水鏡や、エルティミアの観測機に『災厄』の姿が捕捉されるのも時間の問題か」
「そう、なりますね」
アルテイト帝国の『遠見』の術式。
イズミアル神聖王国の水鏡。
エルティミア国の観測機。
そのどれもが、『災厄』の姿を観測するために作られたものだ。
だが、一言に観測装置と言っても、『遠見』の術式とその他二つの間には大きな差が存在している。
イズミアル神聖王国の水鏡や、エルティミアの観測機は『遠見』の術式によって確立された『災厄』との繋がりを利用して『災厄』の姿を映し出しているのである。
つまり、前提として『遠見』の術式が成立していなければ、イズミアルの水鏡もエルティミアの観測機も機能しない。
「ならば……、仕方ない、か」
「……?」
ゲーティアの口ぶりは、まるで他国に対して『災厄』の情報を共有することを渋っているように響く。
そのことについてエレハルドが深く追求するよりも先に、話は終わりだと告げるようにゲーティアは深々と息を吐いた。
「報告を感謝するよ、エレハルド殿。では、こちらもそのつもりで動くことにしよう」
「はい、よろしくお願い致します」
立ち上がり、一礼を添えてエレハルドはゲーティアの執務室を後にする。
対策を考える、と言いはしたものの。
相手は世界一つを喰い散らかした『災厄』である。
何が出来るとも思えない。
明日からの混乱を思えばげんなりとため息を吐きたくもなる。
「……河原の石の裏っかわにいる何かよくわからないイキモノになりたい……」
エレハルド・ウル・アレンシア、渾身の現実逃避だった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
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