ハッシュドビーフとハートのにんじん
陽海の一日は、大体お昼少し前頃から始まる。
時計の短針が10を指す頃に起きてきて、それからのんびり顔を洗ったり、ごはんの用意をしたりする。
大体において陽海の朝ごはんは軽い。
乾燥した穀物と、同じく乾いた果物を混ぜたフルーツグラノーラを一杯。
シンプルだが、これが実に味わい深くて飽きが来ない。
ぼりぼりざくざくとした食感も楽しいし、噛めば噛むほどじわじわと味わいが増すようなこの定番の朝食は俺も結構好きだ。
さく、と軽い歯ごたえとともに甘酸っぱさが広がるのは乾燥させたイチゴだし、くにゃりと柔らかく、それでいて歯に貼りつくような歯ごたえとともに甘味がじわりと染み出すのは干した葡萄だ。食感は葡萄とよく似ているが、それよりも爽やかな酸味が強いのは、クランベリー。
一口ごとに味わいが変わるのが癖になる。
ミルクをかけて少しふやかして、柔らかくしてから食べることもあれば、ゆっくり時間をかけてぼりぼりぽりぽり咀嚼しながら食べることもある。
その辺はその時々の気分次第だ。
ゆっくりと朝食を終えた後には、散歩をしたりもする。
自転車ではなく徒歩で歩く陽海の肩に乗せてもらって、のんびりと近所を散策するのだ。
日に日に温かくなる外の空気に春の気配を感じたり、逆に冬に戻ったかのような寒風に悲鳴をあげて部屋に逃げ戻ったりするのは楽しい。
近所を歩き回りながら、陽海はいろんなことを教えてくれる。
ふわりと香る甘い匂いが梅という花であること。
もう少し温かくなると、今度は桜という花が咲くらしい。
今はまだ黒々とした木肌をむき出しにした大木が、真っ白に霞むような花をつけるというのだから不思議だ。
散歩を終えて部屋に戻ると、陽海は仕事に取り掛かる。
俺は陽海が刻むリズミカルな音に耳を傾けながら、本を読んだりする。
陽海が買ってきてくれた子供向けの本だ。
これは、内緒だが。
俺はたぶん、本当ならインチキが出来る。
インチキ、というか、一種の魔法だ。
初めて陽海に会った時にしたように、俺は「言葉を学ぶ」という過程をすっ飛ばして、自分の使う言葉を日本語に置き換えるという「結果」だけを手に入れることが出来るのだ。
だから、おそらくやろうと思えば「日本語で書かれた文章を読む」という過程を飛ばして書物に記された情報を得ることが出来るだろうし、「相手のわかる言語で書く」という手順を省略して読む人間に己の意図を伝える伝言を作成することも出来るだろう。
出来るのにそれをしないのは、学ぶ、という過程を楽しいと思ってしまったからだ。
陽海の説明を聞くのが、楽しい。
少しずつ上達していくのを、陽海に褒めてもらうのが嬉しい。
だから俺は、陽海が仕事に取り組んでいる間は本を読む。
音として聞く日本語を理解できる俺は、各文字に対応する音を覚えてしまえば表音文字――ひらがなやカタカナ――で書かれた文章を読むのはそう難しくはない。
陽海に買ってもらった五十音表を眺めたり、比較的ひらがなの多い本や、漢字に振り仮名のふってある本から少しずつ読み進めていく。
陽が沈むまで、俺と陽海はそんな風に時間を過ごす。
そして窓の外が暗くなった頃に、夕食だ。
自転車に乗る陽海の懐に入れてもらって、一緒にコンビニへ。
買い物を済ませて帰宅したら、二人で夕食を食べる。
夕食の後は、少し二人でのんびりする。
部屋の中でごろごろと話をして過ごしたり、パソコンを使って映画やドラマを一緒に見たりもする。
それから陽海は風呂に入り、仕事に戻る。
俺も、読書に戻る。
時計の短針が2や3を指す頃、陽海が紅茶を淹れてくれて、二人でお茶を飲む。
夕食の買い出しの時に一緒に買ってきたお菓子をつまみながらゆるゆると言葉を交わす。例えばそれは陽海の仕事の話だったり、俺が読んだ本の話だったり、二人で見た映画についてだ。
そして、陽海は寝支度を済ませてベッドに潜り込む。
最初床に置かれていた俺の寝床は、いつの間にか陽海のベッドの上に置かれるようになった。
横になった陽海と視線が交わる位置にて丸くなり、暗い部屋の中で陽海の瞼がうとりと落ちるまでの時間を他愛のない会話で埋める。
それが、俺と陽海の一日だ。
幸せだと思う。
満たされている、と思う。
それなのに、陽海はよく俺に「お腹空いてませんか」と聞く。
俺はその問いかけにどう答えるのが正解なのかがいつもわからなくなってしまって、少しだけ困る。
「お腹が空く」という感覚が俺にはよくわからない。
この世界に存在する生き物のほとんどは、食べ物を必要とする。
何を食べるのかは生き物による。
だが、何かしらを食べている。
そしてその食べたものをエネルギーに変換し、彼らは生きているのだ。
ところが、俺ときたら生命の維持どころか、活動に必要なエネルギーを外部から摂取する必要がない。
いや、もしかしたら必要としているのかもしれないが……たぶん、俺は他の生き物ほど頻繁にはその行為を必要とはしていない。
唯一思い当たりがあるといえば、長いこと俺を苦しめていた、腹の中にぽっかりと空いた虚を風が吹き抜けるような感覚だが……。
あれが『空腹感』というものなのだろうか。
早く何かを詰めてしまわなければ、と焦れる気持ちを俺は今でも覚えている。
だが、あれが空腹感なのだとしたら、俺はこの世界にやってきてから、ほとんどそれを感じたことがない。
不思議だ。
腹の中に詰めるモノの量は、明らかにこちらの世界に来てからの方が少ないはずなのに。
がりがりぼりぼりと地面を削り、がぶごびがぶごびと毒沼を飲み干し、星一つ平らげてしまった俺なのに、この世界にやってきてからは陽海と一緒に食べる少しの食料だけで満足してしまえている。
味が良いからだろうか。
栄養があるからだろうか。
それとも星を一つ喰らって、さすがに俺の中にあった空白も埋まってしまったのだろうか。
だから、お腹は空いていない。
飢えては、いない。
だけども、俺は陽海と食べ物を囲むのが好きだ。
陽海にいろいろ教えてもらいながら食べるごはんが好きだ。
だから、陽海が食事をとるなら、一緒に食べたいと思う。
この気持ちは「空腹」と言っても良いものなのだろうか。
陽海に嘘をつくことにならないだろうか。
そんなことをつい思い悩んでしまうせいで、俺は陽海に「お腹空いてませんか」と聞かれるたびについ黙り込んでしまう。
そうすると、陽海も少しだけ困った顔をする。
陽海を困らせたいわけではないのに、俺は陽海の問いかけに対する正しい答えがわからない。
そんな小さな困惑を抱える他は穏やかな日常が続いていたある日の夜。
ふと、陽海は少しだけ居住まいを正して切り出した。
「トカゲさんに、お話があります」
「はい」
お互いに向かいあう。
陽海は正座だ。
背筋をしゃんと伸ばして俺を見ている。
なんとなくつられて、俺もきちんと足を揃え、背筋を伸ばして陽海を見上げる。
「実は私、明日は仕事で出勤しなければならなく」
「出勤?」
「ええと、仕事場に仕事をしに行くことです」
「陽海の仕事は、家でやるものなのでは?」
「基本はそうなんです。ただ、新しい案件だとかがあると、週に何度か会社の方に顔を出さないといけなくて」
「ふんふん」
60秒は1分。
60分は1時間。
24時間で1日。
そして、7日で1週間。
だいたい30日程度で1か月。
12か月で、1年。
全部、陽海が教えてくれた。
人間というのはそうやって時間を測るモノサシを創ることで、具体的に未来を語ることが出来るのだ。
「なので、明日は私、朝から出かけるので。トカゲさんには留守番をお願いすることになるんですが」
「うん」
頷く。
職場には俺はついていくことが出来ないらしい。
キャリーやリードをつけていても駄目なのか、と聞いてみようとも思ったが、陽海が最初から俺に留守番を頼むこと前提で話をしている、ということはきっと言うまでもなく駄目なのだろう。
「私がいない間のごはん、どうしましょうか」
「なくても良いんじゃないか」
「えええええ」
あっさりとした俺の回答に、陽海が抗議めいた声をあげる。
だが仕方ない。
俺は、陽海と食べるごはんが好きなのだ。
純粋な『栄養を摂取する』という意味で食事が必要かと聞かれたならば、答えは否だ。
「トカゲさん」
陽海が少し怒ったような声で俺の名を呼ぶ。
「前々からきちんとお話しなければと思っていたのですが、トカゲさんは私に対して遠慮というか、我慢をしていないでしょうか」
「…………」
陽海の思いがけない言葉に、俺はぱちくりと瞬く。
遠慮。
我慢。
この世界において陽海の庇護下にある俺としては、ある程度の遠慮と我慢は当然のものだと思うわけだが……。
「一緒に暮らしているのだから、変な遠慮や我慢はしないでほしいんです。私の方がこの世界でのやりように詳しいんですし、トカゲさんが無理だと思って諦めて遠慮していることでも、相談して貰えればやりようによっては出来ることがあるかもしれませんし」
熱のこもった陽海の声からは、真剣に俺を思いやる気持ちが伝わってくる。
陽海は、俺のために出来るだけのことをしてくれようとしているのだ。
それなら……
「陽海」
「はい」
陽海が居住まいを正す。
「キャリーやリードがあっても明日は一緒には行けないのか」
「えっ」
思いがけないことを言われた、というように陽海の声が跳ねた。
「えっ、あっ、…………ぅーん。それは、難しい、です」
首を捻り、眉尻をへにゃりと下げて答える。
やはり出勤にはついていけないらしい。
かなしい。
「……ぐぬぅ。こう、ほら、トカゲさんが無理だと思っていることでも工夫次第では出来るんですよ、っていう方向にもっていこうと思っていたのに、まさか本当に難題がくるとは」
しょん、と視線を落とした俺の頭を指先でくりくりと撫でつつ、陽海は参ったというようにぼやく。
そのしてやられたと言いたげな声音がなんだかちょっと面白く響いて、俺は小さく笑ってしまった。
口にしてみた我儘は叶わなかったのに、それでもお腹の底がじんわりと温かくなったのはどうしてだろう。
「トカゲさんは、ごはんのことは我慢してないんですか?」
「ごはん?」
「はい、ごはんです。もっと食べたい、とか思ってないですか?」
「…………」
これまた難しい質問だ。
もっと食べたいか、と言われればもっと食べたいとも思う。
陽海と一緒に美味しいものを食べる豊かな時間が、ずっと続けば良いとは思っている。
だがそれは陽海の質問への答えとしてはズレている気がする。
陽海が聞いているのは、食事の量のことだろう。
「あのな、陽海」
「はい」
「陽海と一緒にごはんを食べるのが楽しくて、美味しくて、幸せだから、今までちゃんと言いだせなかったんだが」
「はい」
「俺はたぶん、食事を必要としないタイプの生き物だと思う」
「しれっと分類しましたけどたぶんトカゲさんの他にはそんなタイプに分類される生き物なかなかいませんからね???」
即座につっこまれた。
「もしかして、私がお腹空いたかどうか聞くたびに困った顔をしていたのって、そのせいですか?」
「うん」
頷く。
ここまで来たら認めざるを得ない。
こっくりと頷いた俺に、陽海は何故かほう、と安心したような息を吐き出した。
「良かった。私はまたてっきり、本当はもっとお腹が空いているのに我慢しているのかと思って心配してたんですよ」
「そうなのか」
「そうなんです。トカゲさんが本来どれくらいの食事を必要としているのか知らないし――…、私が若干変則的な食生活をしている自覚もあるもので」
「変則的?」
「……一般的には、人間は一日三食なんです」
「一日、三食」
おや、と俺は首を傾げる。
陽海の食事は、基本的には一日二食だ。
夜寝る前のお茶の時間を食事に含めたならば、確かに一日三食、ではあるような気もするのだが。
ふいと陽海は視線を逸らしつつ、言いにくそうにごにょごにょと言葉を続ける。
「規則正しい理想の生活としては、朝8時頃に朝ごはんを食べまして。お昼ごはんを12時頃に。そして、夜は7時頃に夕食を済ませ、0時を過ぎる頃には眠る――…眠らなくてはいけないのです」
「おう」
眠らなくてはいけない、と言いなおしたあたりに陽海の気持ちが透けて見えるかのようだ。
「陽海は眠らなくても平気なのか」
「いえ、私も寝なければ死にますが」
「死ぬ」
思わず復唱した言葉に、陽海が「死にます」と頷きを重ねる。
「陽海、寝た方が良いのでは」
おろおろ。
陽海に死なれてしまっては困る。
布団へと視線を向ける俺に、陽海は小さく笑って俺の頭を撫でてくれた。
「だから、……その、私はその分朝起きるのが遅いんです」
うろっと視線を彷徨わせながら陽海が懺悔の面持ちで言いにくそうに白状した。
言われてみれば、確かにそうだ。
陽海の語る理想の生活では、朝8時に朝ごはんらしいが、その時間陽海はまだすやすやと寝息をたてている。
「本当ならお昼ご飯を食べなきゃいけないような時間に、朝ごはんをしているわけなので……こう、食事の回数がズレている、というか。だからといって深夜にがっつり食べるのもなんだし、ということで、昼頃に軽くグラノーラを食し、夜にわりとがっつり目に食べ、寝る前にちょっと甘いものをつまんで寝る、というのが私の生活スタイルとして落ち着いているわけなのですが……私はそれでいいですけど、トカゲさんの生態的にはどうなのかな、ってずっと気になっていたんですよ」
「俺の生態的に」
生態的に、とはなかなかにすごい表現だと思う。
俺と陽海が、違う生き物だということを突きつける言葉だ。
陽海はひとで、俺はひとではない何か。
俺のような生き物はたぶんこの世界には他にはいない。
同族が、同種が、俺にはいない。
だがその一方で、違うからこそちゃんと知ろうとしてくれる陽海の気持ちが伝わってきて嬉しくなる。
俺と陽海は、違う。
その事実はどうしたって変えられない。
だけれども、違いを認めた上で、陽海は俺が居心地よく暮らせるように心を砕いてくれている。
それが、嬉しい。
「食事に関しては、心配ない」
俺は、首を横に振る。
「陽海のペースで食べてくれて良いし、その時に一緒に食べられたら、嬉しい」
「わかりました。それじゃあ明日は……朝から出かけるので、夜、何か買って帰ってくるので、それを一緒に食べましょうか」
「わかった」
頷く。
陽海が朝からいない一日。
この世界にやってきて、初めてのことだ。
明日は、どんな一日になるのだろうか。
翌日。
陽海はいつもよりずっと早起きをすると、いつもより念入りに身嗜みを整えて出かけて行った。
『テーブルの上にグラノーラ出しておくので、お腹すいたら適当につまんでくださいね。他にも何か食べられそうなものがあったら、食べちゃっていいですからね』
何度も何度もそう言って、陽海は留守番する俺が退屈しないようにいろいろな用意をしてくれた。
例えば普段一緒に映画やドラマを見るパソコンは、俺が簡単な操作をするだけで見たい番組を選んで再生できるようにセットしていってくれているし、新しく何冊か本を見繕ってきてもくれた。
そして何より大事なのは、外にいる陽海と連絡を取るための用意をしてくれたということだろう。
なんでもパソコンやスマホで連絡を取り合うためのツールがあり、陽海が俺のアカウントを作ってくれたのだ。
陽海から連絡があったときには、表示される緑色のボタンを押せば話が出来るし。俺の方から陽海に連絡を取りたい時には、青いマークを押せば陽海のスマホが鳴るようになっている……らしい。
便利だ。
そんなわけで、陽海が出かけていってから数時間が経過した。
時計の針は、まだ昼を少し過ぎたばかりだ。
顔を上げる。
普段なら、パソコンに向かっている陽海の背中が見えるはずの場所に今日は陽海の姿がない。
「…………」
いない、とわかっているのに、風呂場をのぞきに行く。
やはり陽海はいない。
布団の中を覗く。
いない。
陽海の小さな部屋の中には、他に隠れられそうな場所はない。
それでももしかして、の気持ちを込めて靴箱の中も確認してみた。
いるわけがなかった。
「…………」
溜息をつく。
不思議だ。
陽海が部屋にいたとしても、一緒に過ごす時間の中で、陽海は一人で黙々とパソコンに向かって仕事をしていることの方が多い。
陽海が仕事をしている間だって、俺は一人で本を読んだりして時間を過ごしているのだ。
だから、留守番だってその延長だと思っていた。
それなのに、まるで魔法でもかけたかのように時間の進みが遅い。
本のページを何度か捲って、そろそろ夕方なのでは、と思って顔をあげても時計の針が全然動いていないのだ。
もしかしたら時計が壊れているのでは、と時計の働きぶりを監視してみたが、俺の見ているところでは秒針はいつも通り真面目に動いている。
何かに騙されているような気がした。
そのうち、三時になった。
きゅう、と腹が鳴って、俺はギョッとした。
なんだ。
どうした。
何故だ。
朝ごはんを食べていないからか。
腹の底がなんだか空っぽで、冷たいような気がする。
これが空腹、というものなのだろうか。
陽海がテーブルに用意してくれていったグラノーラを、皿に出す。
もさもさ。
ぼりぽり。
食べる。
いつもより味が薄いような気がする。
これじゃない、と腹の虫が駄々をこねる。
なんだろう。
俺は何が食べたいのだろう。
グラノーラにミルクをかけてみる。
違う。
水を飲んでみる。
違う。
首をひねる。
今まで食べてきた美味しかったものを思い返しても、きっと今食べたなら満足できないのだろう、という気がした。
陽海のベッドに上がる。
ぺたーっとひらぺったくなる。
布団から、微かに陽海の匂いがした。
「はるみー」
呼ぶ。
返事は当然ない。
もぐ。
布団をかじる。
もぐもぐもぐもぐもぐ。
少しだけ、腹の中の空白がマシになったような気がした。
夕方になった。
窓の外から差し込む光が、明々と室内を照らし出す。
俺は、せっかくなので陽海が用意してくれたパソコンを使って映画を見ることにした。
映画、というのは大体において一時間~二時間程度の作品が多い。
これならば、映画を見ている間に陽海が帰宅する時間になるに違いない。
ばさりと羽ばたいて飛び上がり、パソコン机の上に着地。
マウスをちょいと動かすと、ヴィン、と低い唸りをあげてパソコンの画面が明るくなった。
あとは、マウスを動かして見たい映画を選ぶだけ……で、あるはずなのだが。
「………見にくい」
小さくぼやく。
画面が近すぎるのだ。
あまりにも近すぎる画面は、ちらちらと光が散ってよく見えない。
これは盲点だった。
俺も陽海も、パソコンの操作を覚える、ということしか考えていなかったのだ。映画の見方はわかるし、操作の仕方もわかるが……まさかこんな罠が潜んでいるとは思わなかった。
いつもなら、陽海の頭の上か、肩の上で一緒に見るのだ。
ばさばさ、と羽ばたいて高さを調整する。
そうすると今度は当然ながらマウスに手が届かない。
「…………」
手で触れなくとも、物を動かすことも出来るのだが……
「ええい」
面倒臭さに呻いて、俺は手っ取り早く自らの形を変えてしまうことにした。
陽海と同じ形をしていた方が便利だろう。
人間というのは基本的には服を着ているものらしいので、肌の延長上に服も構成してしまう。形をどうしようか迷って、陽海が普段着ているのと似たものにする。
触り心地がよく、くたくたと柔らかいジャージだ。
さっそく椅子に座ってみる。
これなら目の高さも画面にあってちょうど良いし、マウスにも手が届く。
マウスの操作感も、人の形をした手の方がしっくり来る。
「……あれ?」
ただ、どうしてか。
人の形になると、今度はいつもより目の位置がだいぶ高くなったような気がした。パソコン机に座るよりははるかに見やすいので、ちょっとした誤差程度でしかないのだが。
「まあ、いいか」
これくらいなら、気にならない。
俺はマウスを操って、映画を選び始めた。
それは、細やかな。
ほんの少しの、微かな気配の揺らめきだった。
「………ッ!!」
儀式の間の中央にて、泉に足を浸し、細く天井から差し込む光を額に受けていたエレハルドの肩が小さく揺れる。
「見つけた……!」
それは大量の水の中に一雫落とされたインクの揺らぎのような、限りなく希釈され、ぼんやりと拡散していく微かな残滓に似ていた。
長年『災厄』を監視し続けたエレハルドだからこそ気づくことが出来た、というほどに微かな揺らぎだ。
それに気づくことが出来たのは、タイミングが良かったと言わざるを得ない。
ここ、アルテイト帝国の王城内に設えられた儀式の間は、魔術の精度を上げることに特化した部屋なのだ。
室内でありながらも、床は自然の風情を残したニレコス石で出来ている。触感としては川辺にて水の流れに磨かれた石の滑らかさに近い。見た目にはなだらかであっても、素足で踏めば足の裏にはざりざりと微かな刺激が残る。
このニレコス石には、僅かながらにも魔力を増幅する、という効果がある。
経済的に余裕のある魔術師が、自らの研究室をニレコス石で作るというのは間々聞く話ではあるが、この儀式の間に施された工夫はそれだけに留まらない。
ニレコス石作りの床には複雑な魔法陣が水路として彫り込まれており、その中央には清浄な水を湛えた泉が一つ設置されている。
泉の底に刻まれた魔法陣から常に水路を満たすのに十分な水が供給され続けており――…その泉には天井に嵌め込まれたクリスタルから抜けた陽光が一条降り注ぐようになっている。
このクリスタルも、ただの水晶石ではない。
これは魔晶石とも呼ばれる、自然界に存在する魔力が凝って出来たクリスタルなのだ。そのクリスタルを透過した光はこれまた微量の魔力を帯び、その光を受けた泉の水もまた魔力を帯び、床に刻まれた魔力強化・増幅の術式をより強化するという仕組みになっているのである。
それだけの強化と増幅を受けていたエレハルドだからこそ、その細やかな気配の揺らめきを感知することが出来たのだ。
「やっと……」
『災厄』が牢獄世界ごと姿を消して以来、エレハルドはこの部屋に通い詰めて『災厄』の気配を追い続けていた。
それが、難しいことはわかっていた。
無数に存在する世界の中から、『災厄』のいる世界を見つけ出すのは海に落ちた砂粒を探し出すようなものだ。
どれだけ特徴的な砂粒であろうと、広い海の中からその一つを見つけだすことは難しい。
エレハルドの魂には『災厄』を監視するための術式が刻まれているとはいえ、その監視対象の指定は『牢獄世界にいる災厄』という形での指定となっている。
それ故に、牢獄世界が破られ、なくなってしまうと同時にエレハルドに刻まれた『遠見』の術も不完全なものになってしまったのだ。
それでもエレハルドが『災厄』を探し続けていたのは、決してそう命じられたから、という義務感からだけではなかった。
エレハルドは、『災厄』を探さずにはいられなかった。
かつて『災厄』を封印した英雄たちの意志を継ぐ現在の賢人会議の若き長として、決して普段は表に出さないようにしているが――…本当のところ、エレハルドは『災厄』が怖くて怖くて仕方ないのだ。
エレハルドが呪詛にも似た賢人の祝福を得たのは、まだ彼が少年と呼ばれてもおかしくない時分の事だ。
『遠見』の術式を魂に引き継ぐということは、ルーテニル大陸で一番優秀な魔術師として認められたということに等しい。
それもエレハルドの若さで、ともなれば、エレハルドの家族はその栄誉を喜んだし、エレハルド自身も自らの才覚を認められたのだと誇らしい気持ちでいっぱいいっぱいだった。
賢人として認められること。
それは、ルーテニル大陸に生まれ育った魔術師であれば、誰もが一度は夢見る道だ。その中でも、『遠見』の術を魂に刻まれる監視役ともなれば、魔術師としては最高位に当たる。
だから、幼いエレハルドは胸を張ってその栄誉を受けた。
『遠見』の術式を引き継ぐ儀式の場で、周囲の魔術師たちが己に向ける眼差しの意味にも気づくことはなかったし、物々しく儀式の間を取り囲む兵士たちのいる意味にも気づかなかった。
今ならわかる。
いや、正確には先代の監視役の、枯れ木のようにやせ細り、水分を失ったカサついた指先がエレハルドの瞼に触れた瞬間に理解した。
エレハルドに向けられていた眼差しは憐憫。
儀式の間を取り囲む兵士は、エレハルドの逃亡を恐れてのもの。
エレハルドは監視役などではない。
贄だ。
鉱山のカナリアだ。
―――話が、違う。
それが、監視役を引き継いだエレハルドの正直な感想だった。
『災厄』は牢獄世界に封じられた。
多くの才能溢れる魔術師たちの命を賭した行動により、この世界は救われた。
そして遠き遥か彼方、牢獄世界に封じられた『災厄』は今も賢人会議の監視下に置かれていて、有事の際には再び賢人を筆頭に魔術師たちが立ち上がり、どんな犠牲を出してでも『災厄』を再び封じる。
そのために魔術師たちは今も自らの力を研鑽し続ける必要があるのだ――
それが、エレハルドの聞いていた話だ。
世間一般で信じられている『災厄』の物語だ。
だがそんな認識は『災厄』を一目見た瞬間に消し飛んだ。
アレは封じられてなどいない。
アレはただ、知らないだけだ。
気づいていないだけだ。
自分が今存在している世界の外に、もっと豊かな世界があることを知らないだけだ。
外があることを知らないから、『災厄』は牢獄世界の中に留まっているのだ。
だから、エレハルドは怯えた。
いや、遠見の術式を魂に刻み込まれたその瞬間から、怯え続けている。
もし、アレがエレハルドの存在に気づいたなら?
エレハルドの魂に刻まれた『遠見』の魔術は、エレハルドと『災厄』とをつなぐ細い糸のようなものだ。
繊細に、複雑に、気づかれぬほどに細かく、たとえ気づかれたとしても辿れぬほどに細く細く綴られた魔力の糸だ。
だが、アレにそんな小細工が通用するのだろうか。
『災厄』の持つ魔力はあまりにも規格外だった。
『災厄』が望めば、『災厄』はありとあらゆる事象を捻じ曲げることすら可能だろう。過程を飛ばし、結果だけを引き寄せる。
だから、『災厄』が望めば魔力の糸をたどって攻撃を仕掛ける、などという過程を飛ばしてただエレハルドはその瞬間にでも命を落とすことだろう。
そしてそれは、『災厄』に牢獄世界の外にもまだ別の世界があることを気取られたことを意味する。
その日から、エレハルドの地獄は始まった。
目を閉じる度、瞬きをする度に、自分たちの生が薄氷の上に成り立っているという事実を突きつけられるのだ。
安らかな眠りは、エレハルドより最も遠きものとなった。
極度の精神疲労と睡眠不足によって気絶するように眠りに落ちるのが常だった。
何度も、死ぬことを考えた。
いっそのこと魂に刻まれた『遠見』の術式を破ることが出来ないかと密やかな研究に耽ったこともあった。
確かに、エレハルドは優秀な魔術師だったのだろう。
『遠見』の術式を継いでから数年のうちに、エレハルドは『遠見』の術式を己の魂から完璧に切除する方法を見つけだしていた。
けれど――…結局エレハルドは『遠見』の術を破ることは出来なかった。
『災厄』を見つめ続けることは恐ろしい。
だがその頃にはそれ以上に、エレハルドは『災厄』を見失うことを恐ろしいと思うようになってしまっていたのだ。
いつでも己を殺すことが出来る悍ましいバケモノが存在することを、エレハルドは知ってしまった。
エレハルドが見ることを辞めたとしても、『災厄』の存在はなかったことにはならない。
例え見えなくなったとしても、エレハルドはいつ世界が滅びるかわからないという恐怖から解放されることはないだろう。
そう自覚して、ようやくエレハルドは己の看守としての役割を受け入れた。
編み出してしまった『遠見』を破るための術式は、悪用されないようどこか適当な場所にしっかりと隠しておこうと保管先を探して――…その過程で、全く同じ術式が隠されているのを幾つも発見してしまった時には、なんだかいっそ笑ってしまったほどだった。
そして、今だ。
見失った『災厄』への恐怖を原動力に、牢獄世界の崩壊からずっとエレハルドは『災厄』の気配を追い続けていた。
『災厄』の気配はどこかしこに滲む。
その中を手探りに魔力で編んだ探査網を伸ばし続けて――…ふと、小さな揺れをエレハルドは察知していた。
微かな、揺れだ。
だが、動きがなければ揺れは生じない。
『災厄』が動いたのだ。
何か、力を使った。
手繰る。
手繰る。
魂に刻まれた『災厄』との途切れた縁をそろそろと手繰り寄せる。
「お前は今、どこにいる……!」
目の下に隈を刻み。
気迫のみで儀式の間に立ち続けるエレハルドは、揺らぐ気配を追って魔力で縒った糸を伸ばし続ける。
そして――
「ッ、……!」
一瞬。
ほんの一瞬。
エレハルドの魂に刻まれた術式が、捕らえた魔力の残滓に反応したかのように眼裏に像を結んだ。
ざ、ざ、と霞む視界。
映るのは見慣れた『災厄』の巨躯ではない。
人だ。
男だ。
男は、ゆったりと椅子に腰かけている。
彫りの深い、整った顔立ち。
目元に黒々と描かれたペイントは、何か儀式によるものだろうか。
どこかの王侯貴族だといわれても通りそうな偉丈夫だ。
『災厄』の気配を追うエレハルドの魔力が、異界で行われた何等かの儀式に反応して一時的に『遠見』の術が混線しているのだろうか。
そう思いながら、エレハルドは瞼の裏に浮かぶ光景を切り離そうとする。
その瞬間の、ことだった。
男が、ふとエレハルドの視線に気づいたとでも言うように緩く顔を持ち上げたのだ。
その刹那、エレハルドと男の眼差しが確かに交差して――
「―――ッ、ぐ」
こぷ、と喉からこみ上げた胃液を、エレハルドは堪えることが出来なかった。
咄嗟に口元を手で覆い、身体をくの字に折る。
口の中が酷い味で染まる。
だらだらと指の合間から零れて口元を汚す液体を拭う余裕すらなかった。
混沌の色合いを閉じ込めたような、角度によって色の変わる双眸。
その中心の瞳孔は獣のように細く縦に裂けている。
双眸の下、白い肌の目元に浮かぶのはペイントなどではなかった。
鱗だ。
ぬらりと虹色の艶を帯びた小さな鱗が、白い肌の上に浮かび上がっている。
「エレハルド様!!」
密やかに控えていた女官が悲鳴にも似た声でエレハルドを呼ぶ。
その声に断ち切られたかのように、ふッと眼裏に浮かび上がっていた映像は消え失せた。
「……ッは、……は、」
ぜ、と喉を鳴らしながらエレハルドは膝をつく。
ぱしゃりと水が跳ねて、エレハルドの下衣をひたひたと濡らしていくが、今はそちらに気を回すだけの余裕がなかった。
儀式の邪魔をした女官を叱る気にもならない。
むしろ、助けられた。
「サシェル、……すぐに、陛下に謁見を申し込んでくれる?」
「ですが、少し休まれた方が……!」
「休みたい、気持ちは山々なんだけどね」
目が合ったのは、初めてだ。
今まで、エレハルドは一方的に見てきた。
『見られる』ことが、こんなにも恐ろしいことだなんて思いもしなかった。
「……『災厄』は、健在だ」
絞り出すようなエレハルドの声に、女官は雷にでも打たれたように身体を硬直させ――…すぐに、儀式の間を飛び出していった。
知らせなければ。
ルーテニル大陸に広く知らしめねば。
『災厄』は生きている。
しかも、――…人の姿を取って。
「……?」
何か、自分以外の生き物の気配を感じたような気がして俺は顔をあげた。
肌の上を細い糸のような気配が微かに触れていったような、感覚。
が、当然ながら部屋の中には俺以外の生き物の気配はない。
気のせいだろうか。
パソコンの画面から持ち上げた視線をついでのように窓の外へと向ける。
もうすっかり夜だ。
太陽はとっくに沈んで、空は濃紺に染まっている。
そろそろ、帰ってきてもおかしくない時間だと思うのだが――…なんて、考えていたところで、がたん、と物音がした。
玄関先でガチャガチャ、と解錠の音がする。
陽海だ。
陽海が帰ってきた。
俺は椅子から立ち上がると、ばさりと羽搏いて玄関へと向かい――…ちょうど玄関を潜って部屋の中に入ってきたばかりの陽海の胸元へとぼすりと飛び込んだ。
「おかえり、陽海」
「はい、ただいまです。すいません、遅くなってしまいましたね」
ガサガサと手にいくつかの袋を下げた陽海が、俺の身体をしっかりと抱きとめ、腕の中に抱え込む。
そのまま、陽海に運んでもらう形で部屋の中へ二人で戻った。
陽海は留守の間に何か変わったことがなかったかと確認するように視線をぐるりと巡らせ、パソコンにて流しっぱなしになっていた映画を止める。
それから陽海は、テーブルの上のグラノーラの袋に視線を落とした。
グラノーラの袋は、俺が食べた分だけ中身が減っている。
「あれ? トカゲさん、グラノーラ食べたんです?」
「……食べた」
「や、そんな申しわけなさそうにしなくとも。お腹すいたんですか?」
「空いた……、気がした」
グラノーラを齧ってもちっとも満たされなかった腹の虫は、陽海が帰ってきたとたんに大人しくなっていた。
俺を抱く陽海の腕から伝わる体温が温かくて、心地よくて、先ほどまでの、しんしんと腹の底が冷えるような感覚はすっかりなくなっている。
「…………」
「トカゲさん?」
「俺はもしかすると、陽海がそばにいないとお腹が空くのかもしれない」
「……つまりそれはもしかして一緒にいる間に私トカゲさんに食べられているということなのでは?」
「かもしれない」
至極真面目に頷くと、陽海は本気にした様子もなくくくく、と小さく笑った。
「どんな風にお腹がすくんですか?」
がさがさ、とテーブルに下ろした包みの中から二人分の食事を広げながら陽海が言う。
「……腹の底が冷える。きゅう、てなる」
「…………」
「グラノーラを食べても、何か美味しくないし。これじゃない、て思う」
「…………」
次々とレンジで食事を温めていた陽海がぴたりと動きを止める。
なんだか、その目元がじんわり赤く染まっているように見えるのは気のせいだろうか。
「陽海?」
「……トカゲさん、それはもしかすると、寂しい、のでは?」
「寂しい」
復唱する。
言葉の意味はわかっている。
寂しい、というのは親しい人から離れて心細く思うような気持ちだ。
欲しいものが手に入らず、物足りないと思う気持ちだ。
「―――あ」
ストン、と。
陽海に言われて初めて、その言葉が柔らかく胸の中に納まった。
そうか。
そうだ。
俺は、寂しかったのだ。
隙間があるように感じたのは、腹ではなく胸だ。
俺の心は語らい、共に過ごすことが出来る相手を求めて寂しい寂しいと悲鳴をあげ続けていたのに、俺はそれがどういうものなのかすら理解できず――…空白を訴えているのは腹なのだとばかり思い込んで、物理的に隙間を埋めようとし続けてしまった。
この世界にやってきて、空腹を感じなくなったのではない。
俺はもとより、空腹など感じてはいなかった。
俺はただ寂しくて。
陽海に出会って、ようやくその寂しさが埋まったのだ。
だから、陽海がそばにいないと――…寂しい。
「……俺は、寂しかったんだなァ」
しみじみと小さく呟くと、俺を抱く陽海の腕の力が心なし強くなったような気がした。鼻先を、柔らかな指先がすりすりと撫でてくれる。
「今ね、すごくトカゲさんに言いたい言葉があるんですが」
「うん?」
「私が幸せにしてあげますね、ってこう喉元まで出かけているんですが」
「うん」
「よく考えなくてもそれプロポーズだなって」
「プロポーズとは」
「………そのうち教えます」
「そのうち」
何故か説明を後回しにされた。
そんな会話の合間に、温められた食事がテーブルの上に並ぶ。
今日の食事は、普段より少し豪華だ。
プラスチックの蓋を開けた大きめの容器の中には濃い茶色のソースの中に、ハートの形のごはんが盛り付けられている。
それに添えられてそれぞれ小さめのカップにはサラダとスープ。
「今日は、ハッシュドビーフです」
「ハッシュドビーフ」
初めて食べる。
陽海と向かい合ってテーブルについて、いただきます。
それからさっそくソースを口にする。
「――…」
濃い。
じわりと口の中に広がる肉の旨味。
酸っぱいようなのはトマト、だろうか。
少し前に食べさせてもらったトマトスープの風味に少し似ている。
美味しい。
いろんな味が溶け込んでいるような気がするのに、目を凝らしてもソースの中に浮かんでいる具材は二種類だけだ。
白く、細く切られた野菜。
しゃく、と少しだけ歯ごたえを残したそれは、噛むとじわりと甘味が口の中に広がる。あとは、肉だ。細く、細かく刻まれた薄い肉。何の肉だろう。ぎゅう、とかみしめるたびに、生き物の味が口の中に広がる。
「おいしい」
そう言って顔を上げると、陽海は白いプラスチックのスプーンで、ごはんとそのソースを少しずつ混ぜるようにして口に運んでいた。
なんと。
そうやって食べるものだったのか。
さっそく俺も真似をする。
「……、」
これは良いものだ。
ソースだけだと少し味が濃すぎるかな、と思った味わいが、ごはんが加わることでまろやかになる。
お米自体が甘いからか、酸味がちょう良くなる。
美味しい。
サラダも、美味しい。
シーザーサラダ、というのは前にも食べさせてもらったことがあるのだが……しゃく、と野菜にして珍しい食感がしたと思ったら、ふわっと鼻先を甘酸っぱい芳香が掠めていった。
「陽海、サラダに甘いのが入ってる」
「リンゴが入ってるんです。たまにこうやって果物の入ったサラダもあるんですけど……トカゲさんはどうです?」
「どう、とは?」
「結構ごはんの中に甘い果物が入ってるのは苦手、という人がいるんです」
「へえ」
しゃく。
予想外な味に驚きはしたものの、嫌いではない。
水気の多い野菜のしゃきしゃきした歯ごたえと、ほんのりと感じる青臭い苦み。それをマイルドにするとろりとした酸っぱいソース。
そして、時折アクセントのように華やかな香りと甘味のリンゴが入るのが面白い味わいだ。
「俺は好きだと思う」
「良かった。私も好きなんです。酢豚のパインも許せます」
「すぶた?」
「今度買ってきますね」
愉しみが増えた。
スープの方は、薄く黄色がかったスープだった。
この世界に来てから、いろんなものを食べてきているがその中でも一番油断できないのはソースやスープだと俺は思っている。
他の食べ物は、一度食べたことがあるものや、それに似たものであれば見た目から大体の味を予測することが出来る。
だが、スープやソースはそれが難しい。
具材なんてほとんど入っていないように見えるスープでも、一口口に含めば、ふわりと複雑な香りと味わいが広がっていく。
肉なんて入っていないのに肉の味がするし、それは野菜でも同じだ。
似た味の野菜を食べたことがあるような気がするのに、探してみてもその姿はスープの中に見当たらないなんていうのもザラだ。
このスープもそうだった。
肉の甘味が溶けているような気がするのに、スープは澄んでいる。
中に入っている野菜は、細かく角切りにされて――…あ、違う。
鮮やかな、赤みの強いニンジンが、先ほどのごはんと同じくハートの形をしていた。
「陽海、これはニンジンか?」
「はい、そうですよ」
「ハートの形をしている」
「ふふ、今日はバレンタインデーなので」
「バレンタイン?」
首を傾げる。
陽海はちょうど良いと笑って、ガサガサと机の脇に置かれていた袋の中から薄い本のようなものを取り出した。
「じゃじゃん」
「これは?」
「卓上カレンダーです」
透明な包みをぺりぺりと剥がして、陽海は厚みのある表紙のような部分を折って――…あっという間に、それをテーブルの上で自立する形に仕上げて見せた。
今見えている部分には、細かい□が整然と並び、その□の左上部分には小さく数字が書かれている。
「前に、月とか週の話をしたでしょう?」
「うん」
「それをわかりやすく、見やすく整理したのがこれです。今日は……2月の、14日」
陽海が取り出したペンにて、カレンダーに書かれた14の数字に○をつける。
「あ」
陽海の手にしたペンの動きに合わせて視線を動かして気づいた。
14の□には、陽海が○を書き込むより先に赤くハートが書かれている。
ハート。
ここでもハートだ。
「陽海、このハートがバレンタイン?という意味なのか?」
「まあ、そんな感じです。私たちの社会だと、記念日、という概念がありまして。ずーっと昔の2月14日に、王様に結婚を反対された恋人たちのために、王様に逆らって結婚式をしてあげて処刑されてしまった人がいるんです」
「…………」
渋い顔になる。
「結婚ぐらい、させてやればいいのに」
「でも、好きな人がいたら好きな人から離れたくなるでしょう?」
「うん」
「国を守る仕事に就くためには、好きな人から遠く離れた場所に行く必要があったんです。トカゲさんだったら、そんな仕事したいと思います?」
「ヤダ」
「はい」
陽海が小さく笑う。
結婚して好きな人と一緒に暮らしていると、好きな人から離れる仕事をしたくなくなってしまうから、王様は結婚を禁止した、ということなのか。
なるほど。
俺が納得するのを待って、陽海が続きを語り出す。
「その処刑されてしまった方のお名前がバレンタインさんで、処刑された日が2月14日なので――…その愛のために亡くなったバレンタインさんにちなんで、2月14日は好きな人に気持ちを伝える日になったんです。このハートの形は、もともとは心臓を象っているといわれていて。ハートを送ることが、好意の証、とされているわけですね」
「ふんふん」
「ちなみに日本だと、バレンタインデーにはチョコレートを贈るのが定番になっています。なので、実はこのハッシュドビーフにも隠し味にチョコレートが使われているらしいですよ」
「へえ」
チョコレートは、食べさせてもらったことがある。
ほろ苦く、口の中でとろりと蕩ける甘いお菓子だ。
言われてみるとハッシュドビーフの色合いはチョコレートによく似ている気がする。
もぐ。
一口。
真剣に味わいを分析してみようと試みるものの、隠し味というだけあってチョコレートの風味を感じることは出来なかった。
この世界の食べ物は、どれも奥が深い。
陽海も、ペンを置いて再び食事に戻る。
テーブルの上には、新品のカレンダー。
2月14日の上に書かれた○と、ハートのマーク。
今日は、バレンタインだ。
好きな人に、ハートを贈る日。
好意の証に、ハートを。
「陽海」
「はい?」
「にんじんあげる」
あれ? トカゲさんにんじん嫌いでしたっけ?
なんて言っている陽海に、俺は小さく笑った。
見事に周回遅れキメているまるです。
ホワイトデーには追いつくと思っていたのに……!!
桜が咲き始める前にはひな祭りしたいものですね!!!!!
ここまでお読みいただきありがとうございます。
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あとレビュー!
嬉しくて小躍りしました。
素敵なレビューをありがとうございました!!!