表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/15

恵方巻とお味噌汁

 

 本日、陽海は朝から仕事、とやらに取り組んでいる。

 仕事、というのはお金を稼ぐために必要なものであるらしい。

 ではお金とは何かと問えば、陽海は困ったように首を捻った。

 

「んー……モノの価値を測るための概念的な?」

「概念?」

「こう、……共通のモノサシ的な……」

「共通の、モノサシ」


 生活のために共通のモノサシを稼ぐ、という意味がよくわからなくて首を傾げる。


「例えばトカゲさんは山に住んでいます」

「うん」

「私は海に住んでます」

「うん」

「トカゲさんはお魚が欲しかったらどうしたらいいと思いますか?」

「海に取りに行く?」

「ぐ」


 どうやら俺の答えは間違っていたらしい。


「ええとトカゲさんは山に住んでいて、たくさんのキノコを持っています」

「はい」

「私は海に住んでいてたくさんのワカメを持っています」

「はい」

「トカゲさんはワカメが欲しかったらどうしますか?」


 最初はお魚だったはずなのに、陽海の手持ちが何故かワカメになった。

 だが、ここまで言われれば俺にだって陽海の求める答えはわかる。


「陽海に、交換を持ちかける」

「正解です!」


 陽海は満足げだ。


「ですが……実は私はキノコが嫌いなのです」

「美味しいのに」

「美味しいですけど」

「キノコも食べるべき」

「食べるべきですけども」


 陽海の心は揺れている。

 もう一押しぐらいしたら、キノコを好きになるのではないだろうか。


「って、そうじゃないんです。例え話です。海に住んでる私はキノコが嫌いなんです。キノコは食べません」


 強引に例え話を突き進める陽海。


「そうなると、トカゲさんはキノコとワカメを交換することが出来ません」

「ワカメが食べられない……」

「そこで、お金、という概念が出てくるわけです。お金、という価値を測るための共通の概念があると、トカゲさんはキノコをお金と交代することが出来るんです」

「ふんふん」

「どこぞのキノコマニアにトカゲさんのキノコと500円を交換したなら、トカゲさんは500円分のワカメとお金を交換することが出来るんです」

「なるほど」


 物々交換はシンプルだ。

 だが、お互いの欲しいものが釣り合わなければ取引が成立しないという欠点がある。

 それを補うために、共通の「お金」という概念に換算して取引を行うようにするわけなのか。


「それで、陽海は何を売ってお金を稼いでいるんだ」

「私は、モノではなく技術や知識を切り売りしている感じ、ですかね。私は翻訳、という仕事をしているんです」

「翻訳」

「そう、翻訳です。この世界には、私やトカゲさんがいる国以外にもいろんな国があって、国によって使われる言葉が違っていたりするんです。で、私はとある国の言葉で書かれた文章を、別の国の言葉に変換する仕事をしています」

「おお」


 俺と陽海が今いる国は「日本」で、日本で使われている言葉は「日本語」。

 つまり俺と陽海が会話に用いているのは「日本語」ということになる。

 その「日本語」で書かれた文章を、陽海は「英語」という言語に変換したり、その逆に「英語」を「日本語」に変換したりする仕事をしているらしい。

 

 そんなわけで、陽海は今もPCに向かって仕事に励んでいる。


 パソコンに向かう背中はほとんど動かないまま、その手元からのみカタカタとキーボードを叩く音が響いている。

 

 ちょろりと覗きに行く。


 斜め下から見上げる角度の陽海は、いつもよりも真剣な面持ちだ。

 きり、と引き結ばれた唇。

 少し不機嫌そうにも見える表情が新鮮だ。

 キーボードの上を白い指先が踊るように閃いては、画面の上に文章が綴られていく。

 時折その手が止まり、代わりのように響くのはぺらぺらと紙を捲る音だ。

 何かリズムを奏でているようにすら聞こえる。

 俺は陽海が新しく用意してくれた寝床のクッションの端っこを咥えると、ずるずる引きずるように場所を移動して陽海の足元に落ち着いた。

 ここなら、陽海の仕事風景が見える。

 その指先が文字を綴る様を眺めているのも、目を閉じてキーボードを叩く音を聞いているのも楽しい。


 そして、それから暫く。

 キーボードを叩く音が止まった。

 ぺらぺらと紙をめくる音も、ぴたりと止まる。


「……?」


 どうしたのだろうと思って顔をあげたところ、陽海は完全に固まっていた。

 目元、口元ともに先ほどまでの凛々しさが嘘のように緩んでいる。

 うー、あー、と謎の呻きも漏れている。


「…………」


 その状態がしばらく続いた後、陽海は唐突にすっくと立ちあがって宣言した。


「――…煮詰まりました」


 ばふん、と陽海はベッドに倒れこむ。

 俺も、ひょいと飛び上がってベッドに登る。

 倒れこんだ陽海の顔の近くまで行くと、ばさりと乱れた髪から甘い香りがした。


「トカゲさん、煮詰まりました」

「そうか」

「…………旅に出たい」

「旅?」

「ここではないどこかに行くことです」


 ここではないどこか。

 陽海は、ここではないどこかに行ってしまうつもりなのだろうか。

 乱れた髪に隠れて、陽海の顔は見えない。


「旅は、良くないと思う」

「旅は良いものですよ、美味しいものがたくさん食べられますし。面白いものもたくさん見られますし」

「…………」


 知っている。

 旅の良さを、俺は知っている。

 俺だって元いた世界から、次元の壁をぶち破ってここにやってきたのだ。

 何もなく、誰もいない独りの世界からここにやってきて、陽海に出会った。

 美味しいものや、心地よいものにたくさん触れた。

 だから陽海も旅に出たならば、もっと良いものにたくさん出会えるかもしれない。

 それが良いことだということがわかっているのに、俺は陽海に「いってらっしゃい」とは言いたくない。

 困る。

 陽海がいなくなるのは、困る。

 だが、旅が良いものだと知っている俺が、行かないでほしいというのも我儘な気がして口に出すのは気がひけた。


「…………」


 困る俺の眼前で、甘く香る陽海の髪が誘うように揺れる。


 もぐ。

 もぐもぐもぐもぐ。


「…………もしかして今私髪の毛食べられてます?」

「食べられている」

「そんな他人事な」


 ごろり、と陽海が寝返りを打って俺を見る。

 つるつると柔らかな髪が逃げていく。

 俺を見る陽海は、いつものように緩く、楽しそうに笑っていた。


「トカゲさん、一緒に旅に出ましょうか」

「一緒に?」


 思いがけない言葉に俺はぱちりと瞬く。


「そう、一緒に」


 陽海が繰り返して、柔い掌が俺の頭を撫でる。


「ほら、外出用に、ってリードとキャリーも買ってきてみましたけど、まだ使ったことなかったでしょう?」

「いいのか?」

「はい。息抜きに、買い出しの旅に出ましょう」

「わかった」


 そうと決まれば、と勢いよく陽海が起き上がった。

 ぱぱっと身支度を整え、ふっかりと暖かそうな外套を羽織る。

 俺は逆に背中を覆うように畳まれていた羽をしまう。

 お散歩リードというのは基本的には四足の生き物にしか対応していないのである。

 陽海が差し出すリードに、よいしょと前足を通す。

 背の方で身体に合うように紐の長さを調整してもらったならば出来上がりだ。


「痛くないですか?」

「大丈夫だ」

「言葉の通じるトカゲさんには必要ないんですけどねえ。まあ、周囲の目もありますから。あ、そうそう、外では他に人がいるときは喋っちゃ駄目ですよ。大騒ぎになります」

「大騒ぎ」

「たぶんNASAとかきます」

「なさ」

「宇宙人とか怪獣とかそういうところを研究しているところです。こう、黒ずくめのスーツ姿でサングラスをかけていて、謎の機械がピカッと光ると記憶を消されてしまうんですよ。もしくはFBIの専門チームが調査に来るかもしれません」

「…………」


 何かよくわからないものの、大変なことになるらしい、ということだけは把握した。

 それなら……

 

「(陽海にだけ聞こえる声ならいいのか)」

「ひょわ!?」


 陽海が素っ頓狂な声をあげる。

 くすぐったげに耳元を擦りながら、きょろきょろと声の主を探すように周囲を見渡している。俺がじ、と陽海を見上げていると、陽海はうっすらと目元を赤らめつつ視線を俺へと落とした。


「トカゲさん」

「はい」

「トカゲさんは、小さい身体と不似合なまでに良いお声をお持ちですので」

「良いお声」


 褒められたと思って良いのだろうか。


「突如耳元でささやかれるとひょえ、っとなります」

「良い声なのに」

「良い声だからですよ。見た目可愛い小動物……? いや、中型動物なのに、声だけなんで推定成人男性なんですか」

「俺に言われても」


 元よりこういう声なのである。

 変えようと思えば変更できないこともないだろうが。

 特別な意図もなく、極々自然に俺がこういう形をしていて、こういう声をしている、というからにはきっとこれが俺の原形なのだと思う。

 だが、それでも。


「陽海は俺の声が嫌いだろうか」


 陽海が厭ならば、変える。変えたい。

 そう思ってじぃ、と見上げていれば、屈んだ陽海がうりうりと指先で頭を撫でてくれた。


「トカゲさんの声、私は好きですよ。ただこう、急に耳元で響くと心の準備が出来てなくてひょわ、となるんです」

「そうか。じゃあ、変えなくてもいいか?」

「変えなくても良いです」

「良かった」


 ほうと息を吐く。

 今まで知らずに陽海に厭な思いをさせていたのでなくて、本当に良かった。


「でも、さっきみたいなテレパシー? が使えるなら……私はイヤホンでもしておけば電話で話してる感じで誤魔化せるし良いですね」


 陽海が何か細い紐に繋がった小さな装置をカバンから取り出し、右耳にひっかける。

 装置からつながる細い紐の先には薄くメタリックな色合いに輝く機械に繋がっており、そちらは陽海のポケットの中へと収められた。


「これで、準備はばっちりです。一応キャリーも持って、と」


 陽海が片手に俺を抱き、もう片手にキャリーを持つ。

 そうして――…俺はこの世界に来て初めて、いや、陽海の部屋に来てから初めての外出をすることになったのだった。

 

















「寒いですねえ!」

「(そうなのか)」

「寒いんですよ、これ」

「(へえ)」

「トカゲさん見た目は変温動物なのに、強すぎませんか」


 しゃこしゃこ、と自転車を漕ぎながら陽海がぼやく。

 自転車、というのは人間の編み出した移動手段の一つで、資格などを持っていなくても気軽に乗られるものであるらしい。

 俺は今、その前カゴに収まっている。

 なるほど。

 確かに歩く以上の速度で移動できて、これは便利なものだ。

 他にも道路には車や、自転車によく似た形のバイク、というものも走っている。

 車やバイクは自転車以上の速度で俺たちを追い越していく。

 その隣を、俺と陽海はのんびりと自転車で走る。


「今日のお夕飯は何にしますかねえ」


 なんてのんびり呟きながら、自転車で移動すること数分。

 陽海はやがて、四角い建物の前で自転車を止めた。


「ここが、コンビニです」

「(コンビニ)」

「24時間あいていて、いつでも買い物ができる素敵なお店です。この前のおでんは、ここで買いました」

「ほう」


 ということは、今夜もおでんだろうか。

 おでんは好きだ。

 おでんは良いものだ。

 おでんの味わいを思い出すと、口の中にじわりと唾液が広がる。


「トカゲさん、ちょっと狭いかもしれませんがこちらに」

「うん」


 陽海に招かれて、キャリーに入るのかと思いきや……陽海は俺を抱き上げると、すぽりと俺の身体をその懐へとしまってしまった。

 陽海の体温で温められた空気がふわりと俺を包み込む。

 ぬくぬくと温かく、ふかふかと柔らかい。

 その胸の谷間にぬっくりと身体をうずめて、その体温と、とくとくと響く鼓動の心地よさに双眸を細める。

 これを基準にしたならば、確かに外の気温は寒すぎる。

 じじ、と外套の合わせの高さを調整する音がして、目も前が明るくなった。

 俺は陽海の懐に匿われ、少しだけ顔が覗く、という具合だ。


「そこからの方がよく見えるでしょう? 見つからないようにこっそり潜んでいてくださいね」


 悪戯ぽい陽海の声に頷く。

 陽海が歩くのに合わせて、ゆさゆさと身体が一緒に揺れる。

 腕に抱かれるのとは、また違った振動だ。

 コンビニの前にはまるで大きな窓のようなガラスの戸が設置されている。

 どうやって開けるのだろうかと見ていたら、その戸は正面に陽海が立っただけでウィーンと自動で左右に開いていった。

 陽海はそれが当たり前で、何の特別でもないかのように店内へと足を進めていく。

 コンビニの中は、雑多な色であふれているものの、一言でまとめると「白い」という感想に落ち着いた。

 床も天井も壁も白い。

 向かって右手の背の低いテーブルの向こうには、揃いの服を来た人間が並んで立っており、テーブルの上には細々としたものが並べられている。

 その中でも目を引いたのは、木枠の中に収められた銀色の四角い容器だった。

 ほかほかと湯気とともに良い匂いを放っている。

 あれは。

 あれはもしかしなくとも。

 

「(おでん、なのでは)」

「はい」


 陽海があっさりと頷く。

 そちらに行きたい、と主張するように、懐の中からくいくいと陽海の上着を引く。

 陽海は小さく笑って、おでんの容器へと歩みを向けた。

 おでんは、俺が浸かれそうなほど大きな器の中でくつくつと煮えている。

 だいこん、だし巻き、卵、あの袋のような形をしたのは「もちきん」だ。

 その他にも、俺が食べたことのないものもある。


「(陽海、おでんがいっぱいある)」

「はい、いっぱいありますね。その中から食べたいものを選んで、そこの容器に入れてもらって買うシステムなんです」

「(すばらしい)」


 思わずしっぽを揺らしそうになる。


「(今日は、おでんは買わないのか)」

「そうですねえ…………あ」


 迷うように、ぐるりと視線を巡らせた陽海が小さく声をあげた。

 そして、おでんの前から離れて、壁際へと向かう。

 そこには、ビニールに包まれたたくさんの食べ物が並んでいるようだった。


「今日、節分なんですね」

「(節分?)」

「ええと……家から鬼を追い出して豆を食べる日です」

「(鬼、とは?)」

「なんか悪いやつです。赤かったり青かったりして、人っぽい形で、虎縞のパンツはいてます。あと、角も生えてます」

「(………………)」


 そんな生き物が、陽海の部屋にいただろうか。

 いたならさすがに俺も気づくと思うのだが。

 そんなことを真剣に考えていたら、くくく、と陽海の胸が震えた。笑っているのだ。


「(……嘘か)」

「や、嘘ではないですよ。そういう空想上の生き物が悪さをするからこそ、人間は病気になったり不幸になる、って言われているんですよ。だから、節分にはその鬼を追い払って、健康で幸福にいられますように、てお祈りするんです」

「(……なるほど)」


 実際には存在しない、人々に悪さを運ぶ鬼。

 それを退治することで、退治したふりをすることで、平穏を得ようとする人々。

 何故かその構図に、少しだけ思い当たりがあるような気がした。

 どうしてだろう。

 俺にはそんな経験も、知識も、ないはずなのに。

 どうしてだか、知っているような気がした。


「と、いうわけで今日は太巻きにしましょうか。あと豆」

「(…………)」

「トカゲさん?」

「(あ、うん。わかった)」


 陽海は二人分の太巻きを手に取ると、くるりと踵を返して正面のテーブルの方へと向かう。その途中で、何か薄茶色のつぶつぶがいっぱい詰まった袋も一つ手に取る。


「(それは?)」

「これが豆です。鬼は豆が苦手で。豆をぶつけられると逃げていくんです」

「(ぶつける)」


 まさかの物理攻撃だった。


「(だが、鬼は見えないのでは?)」

「だから、鬼の役を誰かがやるんです。鬼役をする人に向かって豆をぶつけて、鬼役は悲鳴をあげながら逃げまどい、出ていきます」

「(出て行った後はどうなるんだ?)」


 何故だか、胸がざわざわする。


「鬼の仮面を外して、しれっと家に戻ってきます」

「(しれっと)」

「しれっと」


 くくく、と陽海が小さく笑う。

 なんだかその笑い声を聞いているうちに、得体のしれない感慨や、不安のようなものはふわふわと捕らえどころなく消えていってしまった。

 俺はこの節分の話の何にひっかかりを覚えたのだろう。

 そんなことを考えている間にも、陽海の買い物は済んでいた。

 太巻きと豆の入った袋をぶら下げて、コンビニの外に出る。

 自転車のカゴに下ろされるかと思いきや、陽海はそのまま自転車に跨った。


「落ちそうになったらいってくださいね」

「(わかった)」


 しゃこしゃこ、と陽海が自転車を漕ぎだす。

 びゅうびゅう、と冷たい風が、ほんの少しだけ表に出た鼻先に触れていく。

 陽海の懐はぬくぬくと温かい。

 この温度差こそを、幸いと呼ぶのかもしれない、なんて思った。

 





















 家につくと、陽海はさっそく外套を脱いでテーブルの上に買ってきたものを広げた。

 黒々とした太巻きが二本。

 プラスチックのケースの中に収まっている。

 そしてその隣には茶色いつぶつぶがみっちりつまった袋。豆だ。


「トカゲさんにとっては初めての節分なので、ぜひ豆まきもしたいところなのですが……アレです。後で掃除が大変なので省こうと思います」

「うん、良いと思う」


 頷く。

 鬼役に豆をぶつけて追い払う、という概要は理解したので、実演はいい。

 陽海に豆をぶつけて追い出すのは良心が痛むし、俺が豆をぶつけて追い出されたら要らぬ心の傷を負いそうな気がする。

 

「だが、豆まきをしないならこの豆はどうするのだろう」

「食べます」

「食べるのか」

「というか、豆は食べ物ですよ」

「…………」


 それを投げつけて鬼を追い払うのか。

 思わず渋い顔になる。

 これまでロクなものを食べてきていないせいか、食べ物を粗末にする考え方とはどうも相容れないような気がする。


「節分には、この豆を年の数だけ食べるんです」

「年の数?」

「はい。私は27歳なので、27個ですね。トカゲさんは?」

「……陽海、(さい)というのは何だろう」

「あ。そっか、一年の説明をしてませんでしたっけ」


 陽海はポン、と手をうつと、以前「一日」の概念を俺に教えてくれるのに使った紙を引っ張り出してくる。


「前に、地球はくるくる回りながら太陽の周りをまわってる、て言ったじゃないですか」

「うん」


 覚えている。

 地球が一回転するのにかかる時間が、24時間。

 だから、一日は24時間なのだ。


「一年、というのは地球が太陽の周りを一周するのにかかる時間です」

「どれくらいかかるんだ? 何日ぐらい?」

「ええと確か365日、だっけ?」


 陽海は外套のポケットに収めたままになっていた掌サイズの端末を取り出す。

 スマホだ。

 見た目は小さいが、パソコンのようにものを調べたりすることもできるのだ。

 陽海はすすす、と指先をスマホの表面に滑らせる。

 

「あ、あってた。はい。365日です。365日で1年。で、たまに閏年というのが発生して、その年だけ366日になります」

「たまに増える……?」

「一年は365日、ってことにしてはいるんですが、実際に地球が太陽のまわりをぐるっと一周するときには365日とちょっと、って端数が発生してるんですよ。その端数を普段は無視して365日ってことにしてるんですが、それがたまりたまると大きなズレになっちゃうんで、四年に一回一日増やして調整するんです」

「なるほど」


 なんとなくわかったような気がする。

 

 1時間と10分をざっくり1時間として数えたとして。

 それを6回繰り返したら、6時間と60分で7時間になる。

 1時間と10分程度なら1時間ってことにしてもいいかな、という気になるが、「6時間=7時間」になるとさすがに困る。

 きっとこういうことだ。


「で、人間は何年生きたかを数えていて。その年数を数える単位が、(さい)なんですよ。私は27歳なので、27年間生きている、ということになります」


 27歳!

 陽海の口にしたその言葉の意味を理解したと同時の驚きは両極端なものだった。

 俺よりはるかに物知りで、いろんなことをたくさん教えてくれる陽海が、まだたったの27年しか生きていないということに対する驚きと。

 その一方で、この世界に来てから数日間、ここで過ごした濃厚な日々を思い浮かべて27年もこの世界で生きてきたのか、という驚き。

 たかが27年、されど27年。

 俺はきっと、陽海に比べると遥かに長生きをしてきたと思う。

 あの孤独な日々を、ここでの時間に直したらどれほどのものになるのだろうかと思う。

 それなのに俺のあの世界で過ごした日々はあんまりにも空虚で、塵を重ねたかのように無意味で、俺は何も学ばなかったし、何も得られなかった。


「トカゲさんは幾つですか?」

「…………」


 陽海の問に、思わず俺は考え込む。

 果たして俺は、幾つなのだろう。

 一体どれほどの年月を、生きているのだろう。


「……たぶん、たくさん、だとは思う、んだが」


 歯切れ悪く、語る。

 時間や、それを測るための単位の概念を知ったばかりの俺には、陽海の問は難易度が高すぎた。うまく換算できない。


「……たくさん?」

「……たくさん」


 頷く。

 陽海が神妙な顔になった。

 豆の袋へと視線をやる。


「…………足りない可能性が浮上してきましたね?」


 俺も神妙に頷く。

 が、もともと俺の生きてきた年数など、誰にもわからないのだ。

 適当に済ませてしまったとしても――


「あ、そうだ」


 何か思いついた、という風に声をあげて、陽海は立ち上がるとがぽんと冷蔵庫の扉を開けた。


「陽海?」

「お夕飯、恵方巻だけ、というのも寂しい気がしてたんですよ。お味噌汁ぐらいは作りましょう。といっても、すっごい手抜きですが」


 お味噌は、あったあった。

 かつおぶしは……いつのだ……まあ、イケるか。

 お豆腐も賞味期限大丈夫そうだから……さすがに葉物はないか。


 そんなことを呟きながら冷蔵庫の物色を済ませると、陽海は四角いパックを二つ取り出してキッチンへと向かった。

 俺も、ついていく。

 陽海は小さな鍋に水を注ぐと、それをコンロへとかけた。

 陽海の手元が気になって、俺はたん、と床を蹴って飛び上がる。

 背から生じさせた皮膜翼でばさりと羽ばたき、浮力を得てトン、と陽海の肩へと着地。


「おわ、トカゲさんよく跳べましたね」

「羽があるからな」

「そうでした」


 肩の上からだと、陽海の手元がとてもよく見える。

 小鍋の中で、ぐつぐつと湯が沸く。

 そこで陽海は鍋の中に棒の先に大きな丸い網がついた道具をひっかけた。

 そしてその中に、薄く透ける、香ばしい匂いのする木屑めいたものをもっさりと放り込んだ。しゅるしゅると湯の中で泳ぐように木屑が揺れる。ふわりと立ち上る湯気の中に、生き物の風味を感じた気がした。


「陽海、今のは?」

「かつおぶしです」

「かつおぶし?」

「ええとお魚を乾かして、干して、削ったもの――…だと思います」

「へえ」

「味見してみます?」

「うん」


 陽海が一つまみ、かつおぶしを口元に差し出してくれる。

 あむ。あむあむあむあむ。

 乾いている。

 唾液を吸って、ぺったりと舌や口蓋に張り付く。

 もぐもぐと咀嚼すると、香ばしい風味と塩っぽい味がした。

 だがそれだけで、あまり美味しい、ようには感じられない。

 噛んでも噛んでもばらけていくようなことがなく、口の中に残り続ける。

 飲み込むタイミングが、よくわからない。


「…………」

「出します?」

「いや」


 もぐもぐもぐもぐもぐ、ごくん。

 口の中で細かくわけて、少しずつ飲み込む。

 今まで陽海が食べさせてくれたものはどれも大変美味しかったものの、このかつおぶし、というものだけはまだ少しその良さがわからない。

 

「これは……美味しい、のだろうか」

「そうですねえ……そのまま食べるもの、ではあまりないような気が。ちょっとこう、古いですし。一応冷蔵庫で保存していたし、カビてもないから大丈夫だとは思うんですが」


 そんなことを言いながら、陽海がざばりと鍋の中からかつおぶしを引き上げる。

 それをどうするのかと思えば、そのままかつおぶしは三角コーナーのゴミ袋の中へと放り込まれた。

 驚いてしまって、俺は陽海の顔と未だ湯気を上げ続ける三角コーナーのかつおぶしの間で視線をうろうろさせる。


「かつおぶしは出汁をとるためのものなんです。ほら、お湯がほんのり色づいているでしょう?」

「うん」


 陽海の言う通り、ぐつぐつと泡立つお湯はかつおぶしを入れる前に比べるとほんのりと黄色がかっている。


「かつおぶしの中の旨味や風味が、お湯の中に移ったので――…あっちはもう捨ててしまって大丈夫なんです。で、ここで火を弱めまして」


 ぐつぐつくつくつと煮えていた湯が、少しずつおとなしくなっていく。

 それを横目に、陽海は白いパックの中に入っていたものを手の上に出した。

 何かつるんとした四角いモノだ。

 ぷるぷると揺れている。

 陽海はその上に包丁をいれて、あっという間に掌の上でその(しかく)をさらに細かいたくさんの(しかく)にして静かになった湯の中へと落とし込んだ。


「これは?」

「お豆腐です。この前食べた厚揚げを覚えてます?」

「覚えている」

 

 大変美味しかった。

 厚揚げのたっぷりとスープを吸った味わいを思い出すと、今でも幸せな気持ちになる。


「厚揚げというのはこの豆腐を揚げたものなんですよ」

「なんと」


 厚揚げというのは豆腐だったのか。

 ということは、きっとこのスープも美味しいに違いない。

 弱火でくつくつと煮込まれる中、鍋の中で豆腐がぽこぽこと踊り出す。

 そこで陽海はカチリと音を立てて火を止めてしまった。


「これで出来上がりなのか?」

「いいえ、最後に味噌をいれます」


 先ほどかつおぶしを入れていた網の中に、陽海は四角い容器の中から、茶色いペーストを箸でざっくりと削って豪快に投入した。

 味噌、と呼ばれたペーストは湯の中であっという間に溶けていき、周囲には良い匂いが広がる。


「これを二人分の器によそって、と」


 陽海が良い匂いを放つスープを、俺の皿にもよそってくれる。

 それをテーブルに運んで、並べて。


「さ、いただきましょうか」

「うん」


 トンと陽海の肩から降りて、俺は陽海と共にいただきますの挨拶をした。

 

 

 

 

 

 
















 ほかほかと湯気をたてるお味噌汁に、まずは口をつける。

 熱々だ。

 ふっと鼻を抜ける良い香り。

 塩っけのある味わいなのに、後味がほんのり甘い。

 その甘味に混じる香ばしい香りは先ほどのかつおぶしの風味に似ているような気がする。なるほど。旨味を湯に移すというのはこういうことなのか。

 かつおぶしの姿はスープの中には見えないのに、その風味は確実に旨味を引き立てている。

 豆腐もまた良い。

 厚揚げのように表面がしっかりしていないから、舌と上顎の間で用意に崩れていく。味わいはまろやかで、味噌のスープととてもよく合う。美味しい。


「実はですね」

「うん?」

「そのスープもまた、豆なのです」

「…………?」


 陽海の言っていることがわからない。

 このスープが、豆?

 俺はじ、と器を見る。

 どこにも豆の姿はない。

 陽海がスープを作っているところも見ていたが、どこにも豆を入れるような過程はなかったはずだ。

 怪訝そうな顔をしている俺に、陽海がくくくと喉で楽しそうに笑った。


「これは味噌汁、と呼ばれる料理なのですが。この味噌というのは、豆から出来ているのです」

「そう、なのか」

「はい。さらにですね」

「うん」

「そのお豆腐も、豆です」

「嘘だ」


 思わず即答気味に否定してしまった。

 豆と味噌は、まだ色味が似ているような気がするのでまだわかる気がするのだ。

 擦り潰したりなんやかんやしたら、味噌っぽいペーストになるかもしれない、と想像することも出来るし、納得することも出来る。

 だが豆腐は無理だ。

 茶色いつぶつぶが、何をどうしたら白くつるつる柔らかな豆腐になるというのか。どう考えても別枠だ。違う何かだ。


「ふっふっふ」


 悪戯ぽく笑った陽海が、スマホを取り出して操作する。

 そして、俺へとスマホを差し出した。

 スマホの表面には、映像が映し出されている。


『まず大豆を水に漬けます』


 映像の中、器の中で水に浸されているのは確かに豆だ。

 本当に豆だ。


『水に漬けて柔らかくした大豆をミキサーにかけます』


 何か機械の中にいれられた豆が、あっと今に細かく砕かれ、擦り潰されていく。

 予想外だったのは、すり潰された豆の色合いだ。

 豆を擦り潰したら味噌のような茶色になると思っていたのに、画面の中の磨り潰された豆はふんわりとした白色だ。


『粉砕した豆を煮込みます』


 白く、とろとろした液体が鍋の中でくつくつと煮込まれる。


『煮込んだ豆を、布の上にあけます。絞ります』


 砕けた豆を包んだ布を、ぎゅうぎゅうと押すと白い汁だけが器の中へと溜まっていく。


『豆乳を温めながら、にがりを加えます」


 白いスープのようにしか見えない豆の絞り汁に、何か透明な液体が加えられる。すると何が起きたのか、次第に豆の絞り汁の中にダマが出来始めた。やわやわと、固まり始めているのだ。それを、布を敷いた木の箱の中に流し込み蓋をして、重石を載せて――…しばらくして布を開くと、箱の中には確かに俺が今食べているのと変わらない豆腐の姿があった。


「ほら、豆でしょう?」

「魔法だ……」


 何か、俺にはわからない魔法だと思う。

 豆と豆腐の間には、間違いなく何か魔法が介入していると思う。

 今はもう暗くなったスマホを覗きこんだまま呆然としている俺の頭を、そろりと陽海が撫でる。


「お豆腐にもたくさん豆を使っていますし、味噌でもたくさん豆を使っているので、きっとトカゲさんも年の数だけ豆を食べることに成功するのではないかと思います」


 顔を上げる。

 陽海が、味噌汁を作ってくれた理由がようやくわかった。

 自分の年がわからない俺が、それでも年の数だけ豆を食べたと思えるように。

 節分の豆に、俺もまた願掛けが出来るようにと、お味噌汁を作ってくれたのだ。

 じんわりと、嬉しくなる。


「陽海、ありがとう」

「ふふ、どういたしまして。さ、太巻きの方も食べちゃいましょう。これ、太巻きなんですけども。節分の日に食べる太巻きは、恵方巻とも言うんですよ」

「恵方巻? 何か違うのか?」

「特に違いはないと思うんですが……こう、食べ方があって」

「食べ方?」

「恵方、というのが『縁起の良い方角』なんですが。そこを向いて、無言で一気に食べると良い、という」

「……陽海」

「はい」

「俺は、せっかく食べるなら味わいたい」

「はい」

「丸飲みはちょっと」

「私もそれはちょっと」


 まじまじと見つめあう。

 どうやら、丸飲みはしなくても良いらしい。

 一気に食べる、というのは口を離してはいけない、ということなのだそうだ。

 陽海がスマホで何やら調べだす。

 おそらく恵方を探しているのだろう。


「ええと……恵方は、あっちです」


 そういって陽海が指さした先にあるのは壁だった。


「…………」

「…………」


 二人して、神妙な顔で壁を向く。

 表面の黒い膜のようなものは、剥がした方が良いのだろうか。

 じ、と見つめて迷っていると、隣の陽海はその黒い膜ごと太巻きにかぶりついていた。そのままで良いらしい。


 よし。

 俺も陽海を真似て太巻きへと噛り付く。

 

 ぴんと張り詰める黒い膜。

 気にせず圧を加えていけば、やがてぷつと歯が通って米粒が口の中に広がる。

 そう、これは米だ。

 初めて陽海が俺に食べさせてくれたおにぎりに、とてもよく似ている。

 でも、酸っぱい。

 このお米には、味がついている。

 塩ッけのしょっぱいのとは違う。

 ツンとする香り。

 それに、温かくない。

 けれど、温かな塩おにぎりとは違った美味しさが確かに太巻きにはあった。

 もぐもぐ。食べ進めると、まぁるく巻かれた米の中心にいろいろな具が入っていることに気付く。こりこりとした歯ごたえの、あまり味のない水っぽいのは何か野菜だろうか。甘辛く煮詰められたくたくたと柔らかなこれは何だろう。ぷちん、と口の中で小さな粒がはじけて、塩辛い味がする。

 全体的に具は甘辛い味わいで整っていて、それと酸っぱいごはんの相性がとても良い。時折アクセントのように、しょっぱいつぶつぶや、ふんわりの卵、新鮮な食感の楽しい植物の味がして、飽きることなく最後まで楽しんで太巻きを食べきることが出来た。

 満足だ。

 ふう、と息を吐く。

 隣を見ると、陽海は先に食べ終わっていたようだった。


「美味しかった」


 報告する。


「はい」


 嬉しそうに陽海が頷く。

 そのあと、陽海は豆の袋を開けると、デザートといって豆を食べさせてくれた。

 ぽりぽりこりこりがりがり。

 年の数だけ、豆を食べる。

 俺は何歳なのかわからないので、たぶんさっきの味噌汁と、この豆を合わせたらちょうど良い感じになるのだと思う。

 味付けのされていない豆は、ひたすらに素朴な味わいだ。

 単調なのに、不思議と飽きない。


「陽海、その豆は28個目なのでは」

「そんなこと言ってたらいつまでも豆がなくなりませんからね」


 ぼりぼり。

 ぽりぽり。

 もぐもぐ。

 二人で、豆を食べる。

 陽海が無病息災でありますように。

 陽海と一緒にいられますように。

 そんな、願をかけた。

 

ここまでお読みいただきありがとうございます。

次は節分かな、と言ったフラグは回収したもののまさかこんなに難産になるとは思わず。

ほぼほぼ周回遅れに愕然としているまるです。


Pt、感想、お気に入り登録、励みになっております。


次はバレンタインです。

ホワイトデーまでにリアルタイムになんとか追いつきたい所存。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ