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おでん

 その日は一日、陽海といろいろなことを話した。

 といっても、俺たちの会話のほとんどは、陽海の説明だ。

 陽海は俺の知らないこの世界のことを、たくさん教えてくれる。

 物の名前や、使い方。

 この世界の常識。

 俺に向けて語られる陽海の声を聴くのは、とても贅沢だと思う。

 柔らかで、温かな声音が俺だけに向けられている。

 これまで対話、ということをしたことがなかった俺にとって、俺に聞かせるためにその音が紡がれているということが酷く新鮮だったし、それと同じぐらい陽海が俺の言葉を聞いてくれるのが嬉しい。

 告げて、告げられて。

 反応が、ある。

 言葉が、返される。


「…………」


 ふと、陽海の声が止まった。


「トカゲさん」

「?」

「トカゲさんは、すごく真剣に私の話を聞きますね」

「……そうか?」

「はい。こう、拝聴、という感じですごい一生懸命聞いている感じが」

「…………」


 それは、良いこと、なのだろうか。

 それとも、何か問題があるのだろうか。

 俺がじっとそのまま陽海を見上げていると、陽海はふっと小さく口の端に笑みを浮かべて見せた。


「もし、私がトカゲさんにとって難しい言葉とか、知らない言葉とかを使っているようだったら、遠慮なくストップをかけて質問しても良いですからね」


 頷く。


「ある程度説明は済んだと思うんですが……、何かわからないことはありますか?」


 わからないこと。

 未だ何がわからないのかもわからない、というような手探り状態ではあるのだが。

 一つ、気になっていることならある。


「陽海、あのカチカチと聞こえる音はなんだろう」

「カチカチ?」


 どの音だろう、と探すように陽海が耳を澄ませる。

 しん、と静かになった部屋の中に、カチ、カチ、と規則正しい音が響く。


「ああ、これは時計の音です」

「時計?」

「時間を計るための道具ですよ」

「時間」

「ええと、時間の経過っていう概念はわかります?」

「わかる、と思う」

「その時の流れを測って、一般的な概念として単位を共有しているんです」

「………………」

「あ、わからないて顔をしてらっしゃる」


 これは実物を見たほうが早いかな、と笑って、陽海はベッドの枕元から何か小さな箱のようなものを持ってきた。


 ことり、と目の前に置かれたのは、手のひらに収まるほどの小さな四角い箱だ。

 表面は透明ガラスで覆われており、中に描かれた図形が見えるようになっている。

 描かれているのは等間隔に並ぶ線と文字とで構成された綺麗な円だ。その中心からは二本の大小大きさの異なる針と、一本のやたら小刻みに動き続ける細身の針が伸びている。


 耳を澄ますと、かち、こち、と規則正しい音。

 どうやら細身の針が動くのに合わせて、その音は聞こえてきているようだった。


「これが時計です」

「時計」

「時を計ると書いて時計」

「うん」


 適当な紙に、陽海が字を書いてくれる。

 俺には図形のようにしか見えない文字だ。

 だが、意味は覚えた。

 時を、計る。


「カチコチ、って音が聞こえるでしょう?」

「聞こえる」

「これは秒針と呼ばれる細い針が1メモリ動くたびに聞こえる音です」

「ほう」


 見る。

 針が、ぴくりと動く。かち。ぴくりと動く。こち。ぴくり。かち。ぴくり。こち。


「なるほど」

「で、このカチリ、っていうのが1秒です」

「1秒」

「秒針が一回カチって鳴って一つ進んだら1秒です」

「ふんふん」

「で、この秒針がぐるって一周回って、カチって60回鳴ったら、1分です」

「………………60秒、じゃないのか」

「60秒でもあります」

「ええー」


 わかりにくい。

 俺のそんな不満に、陽海は小さく笑った。


「だってトカゲさん、『ちょっと今から買い物いってくるんで1800秒ぐらい待っててください』とか言われたら数えるの大変じゃないですか?」

「……かも、しれない」

「でも、30分待っていてください、だったら数えやすいでしょう? と、いうわけで、60秒で1分になります。で、1分に一度、この長い方の針が一つ進みます」

「……細い針が一周回ったら、長い針が一つ進む?」

「その通りです」


 細い針が5進んだら5秒。

 長い針が5進んだら5分。

 ならば短い針が5進んだらどうなるのだろう。

 分より大きい単位はあるのだろうか。


「陽海、60分は60分のままなのか?」

「おお、トカゲさんさすが。応用力がありますね、60分で1時間になります」


 褒められて嬉しくなる。

 ぱたり、としっぽが揺れた。


「じゃあ、この短い針も長い針が一周したら1進むのか」

「え? あっ……あー、なるほど」


 俺の問いに、陽海は一瞬驚いたように双眸をぱちくりと瞬かせた。

 それから、俺の言いたいことを理解したのか納得したように声をあげ、小さく笑う。


「実はこの短い針は、長い針が一周する間に5進むんです」

「…………5?」

「はい。この、真上に書いてあるのが12。そこから始まって、1、2、3、4、5、6、7、8、9、10、11、12、って5刻みに数字が書かれているんです」

「うん」

「で、長い針が一周する間に、短い針は次の数字に移動するんです」

「…………短い針だけ、一気に動きすぎじゃないだろうか。他の針は、1ずつ進んでいるのに」

「まあ、短い針も1ずつ進むと1日が120時間になっちゃいますからねえ」

「120時間? 60時間じゃないのか」

「一日は24時間なんです。なので、短い針が二周したら、一日です」

「…………」


 ぬぅ、と俺は考え込む。

 60秒で1分。

 60分で1時間。

 それならば、60時間で1日、にするべきではないのだろうか。

 俺のそんな主張に、陽海はやっぱり楽しそうに小さく笑った。


「1日が60時間もあったら、朝が三回ぐらい来ちゃう気がします」

「朝」

「あ、トカゲさんがいたところにはそういう言葉はなかったんです?」

「なかった、と思う」

 

 俺のいたあの世界では、空はいつも重い赤に染まっていた。

 目に染みるようなガスが垂れ込め、少し先すらどんよりと霞んで見えた。

 俺以外の生き物が存在しない世界。

 もしかしたら、この世界で「朝」と呼ぶの似た概念は存在したのかもしれない。

 だが、もしあったとしても俺にはそれを共有する相手がいなかった。

 あの世界には俺しかいなかった。

 だから俺はあるものはあるがままに受け入れ、それについて深く考えることはなかったのだ。名前を付ける必要すら、なかった。

 

 ああ、もしかしたら。

 あの世界に何もなかったのではなく。

 俺があの世界で何も持っていなかっただけなのかもしれない。


 そんなことを俺がつらつらと考えている間に、陽海は手元の紙に何やら球体を二つ絵に描いていた。


「じゃじゃーん」

「…………何だろう」

「これは、地球と太陽です」

「ほう」

「地球、というのは今私たちがいる星のことです。でっかい球体をしていて、そこで私たちは暮らしているんですよ」

「……ふむ」


 頷く。

 世界が球体をしている、というのはなんとなく納得がいく。

 実際元いた世界でも、俺は真っすぐに進んでいるつもりがいつの間にか自分の足跡を追いかける、なんて事態になっていた。

 きっと、あの世界も球の形をしていたのだろう。


「で、あれが太陽です」


 陽海が視線を窓の外へと向ける。

 煌々と輝く、白い球。

 

「で、地球はですね、回転しながら太陽の周りをまわっています」

「……回転しながら?」

「そう、回転しながら」

「……忙しいな」


 思わず神妙な感想が漏れる。

 自分自身がぐるぐると回りながら、さらに円の軌道で動き続けるというのは……やれと言われれば出来ないこともないだろうが、俺ならば具合が悪くなりそうだ。


「で、その地球がぐるんって一回転するのにかかる時間が、約24時間なんです」

「…………つまり、24時間で1日ということは、地球は1日かけて、一回転している……、ということか?」

「そういうことです。というか、地球が一回転するのにかかる時間を『一日』として定義している、という感じです」

「なるほど」


 だから一日は24時間でなければいけないし、60時間や120時間では駄目なのか。


「じゃあ朝、というのは何だ?」

「朝というのは、陽が昇り始めた時間です。陽が高くなったら昼で、陽が暮れ始めたら夕方で、陽が沈んだら夜」

「今は?」

「昼過ぎ、かな」


 陽海はちょろっと窓の外の陽の高さを確かめてから教えてくれる。

 そして、それからよいしょ、と立ち上がってノビをした。


「トカゲさん、私はちょっと買い物にいってきます」


 頷く。


「たぶん夕方には帰ってきます。ええとそうだなあ……夕方の6時頃には戻れるかと」


 ことん、と俺の前に時計を置く。

 今、短い針は3と4の間にある。

 6時頃、ということは短い針が6のところにいくまで、ということだ。


「わかった」


 陽海は俺が飲めるようにとお茶碗にお水をなみなみと注ぎ、それからいろいろと俺が一人で留守番出来るように、と支度を整えてくれた。

 外は寒いから、とたっぷりの布を使った温かそうなコートを着込んで、陽海が玄関で靴をつっかける。


「いってきます」

「うん」

「ふふ、違いますよ」

「違う?」

「『いってきます』、って言われたら、『行ってらっしゃい』、って見送るんです。ちなみに帰ってきたときには『ただいま』と言って、言われた人は『おかえり』って迎えるんですよ」

「わかった」


 こっくり頷く。

 もう一度やり直してほしい、との眼差しを向ければ、陽海は楽しそうに笑った。


「それじゃあ、行ってきます」

「行ってらっしゃい」

「はい」


 にこにこ楽し気に笑って、陽海が部屋を出ていく。

 ばたんとドアが閉まって、ガチャリと外から鍵をかける音がする。

 陽海がいなくなっただけで、部屋の中が急に静かになった。


 かち、かち、かち。


 時計が時を刻む音だけが響く。

 陽海が留守にしている間、6時になるまでの間、空に輝く陽はどれくらい動くのだろう。この世界はどんな変化を俺に見せてくれるのだろう。

 それを愉しみに思う気持ちはある。

 けれど、それを陽海と見られないことが残念だと思った。

 陽海の声がしないのが、陽海の気配が部屋の中にないのが、不思議と寒々しい。

 これぐらいの気温なんて、俺には適温の範囲内のはずなのに。

 陽海がちゃんと部屋の温度が下がらないようにしていってくれたはずなのに。

 

「…………」


 ぱたり、としっぽが床を叩く。


「早く、6時になればいいのに」


 俺は時計の前に身体を伏せて、6時になるのを待つことにした。




















 不思議だ。

 俺はきっと、随分と長い間独りだった。

 時計では計りきれないほどの長い間、俺はあの世界で過ごしていたのだと思う。

 それなのに、陽海が帰ってくるまでの数時間を妙に長く感じる。

 何度も、時計を見る。

 秒針は絶え間なくチッチッチッチと動き続けているのに、それを何度も確かめているのに、意地悪なほどに長針の進みが遅い。


 それでもそのうち短針が6へとかかる。

 陽海はまだ帰ってこない。

 陽が沈み始めて、空が赤々と染まり、やがてゆっくりと紺色に染まっていく。

 外が暗くなり、部屋の中が暗くなる。

 窓の外に、ぽつぽつと明かりが灯り始める。


「…………はるみ」


 呼んでみる。

 当然のように、返事はない。

 きゅう、と腹が鳴る。

 隙間を訴える。

 と、そこで。

 ガチャリ、と鍵が開く音がした。


「!」


 俺は身体を起こす。

 時計を見る。

 短い針は、6を過ぎてやがて7に差し掛かろうとしている。

 ぱたぱたと玄関まで迎えにいくと、ちょうど陽海がドアをあけて入ってくるところだった。


「すみません、ちょっと遅くなりました」


 陽海の手には、大きな白い袋が一つと、薄い透ける茶色の小ぶりの袋が下げられている。


「わあ、部屋の中すっかり暗くなっちゃいましたね。ごめんなさい、大丈夫でした?」


 陽海が壁に手を添わせると、ぱちりと音がして玄関が明るくなった。


「トカゲさん?」


 じ、と見る。


「あ、もしかして遅くなったの怒ってますか?」

「……違う」


 怒ってはいない。

 俺はそうじゃない、と首を横に振る。


「ただいま、は」

「あ」


 ぱち、と陽海が瞬く。

 それから眉尻を柔らかく下げて、ふにゃりと陽海が笑った。


「ただいま、トカゲさん」

「おかえり」

「ふふ、おかえり、って言ってもらうのって良いものですね」

「そうなのか?」

「私、一人暮らしが長いので、もう随分と『おかえり』なんて言ってもらってなかったような気がします」


 ガサガサと袋を鳴らしながら、陽海が部屋へと入ってくる。

 頬がうっすらと赤いのは、外が寒かったからなのだろうか。

 温かな部屋の空気に、陽海の唇から緩んだ吐息がほう、と零れる。

 ぱちり。

 部屋が明るくなる。

 

「トカゲさんの生活雑貨と、今日の晩御飯を買ってきました」

「生活雑貨?」

「お皿とか、寝床とか。さすがに洗濯籠にタオル引いただけなのはつらいかと思って」


 あの籠は洗濯籠だったのか。


 薄茶の袋はテーブルの上に。

 白い大きな袋は床に置いたまま、その中身を陽海が広げていく。

 中央のくぼんだふかふかと柔らかそうな丸いクッションと、重心が底の方に寄せられた少し深めのお皿。そして、よくわからない紐と、カバン。


「これはトカゲさんのベッドです。で、こっちがトカゲさんのお皿。で、この紐とカバンはお出かけ用です」

「お出かけ?」

「トカゲさんがトカゲのふりをするなら、お散歩も出来ますよ。その代わりリードをしたり、キャリーに入ってもらう必要もあるかもしれませんけれども」


 陽海が言うには、この世界では基本的に人と暮らす動物はペットとして人の管理下になければいけないらしい。

 少しだけ表情を曇らせて、陽海が首を傾げる。


「トカゲさんは、トカゲのふりするの嫌ですか?」

「……いや、べつに」


 それが必要であるならば、トカゲのふりをするのは別に嫌ではない。

 それじゃあ今度お出かけも試してみましょうね、と陽海がキャリーの中にリードをしまって部屋の隅へと片付ける。


 お出かけ。

 外の世界。

 この部屋の外には、どんな世界が広がっているのだろう。

 キャリーやリードが必要になる、とはいっていたけれども、それでも陽海と一緒に出掛けられるというのはとても愉しみだ。

 

 それから陽海は、俺のお皿を軽くゆすいでからテーブルへと戻ってきた。


「それじゃあお夕飯にしましょうか。今日はですね、おでんです」

「おでん」

「そう。セブンイレブンの」

「セブンイレブン」

「セブンイレブンっていうコンビニ……、お店があるんですよ。私、そこのおでんが大好きでして」


 よいしょ、と陽海が俺の身体を抱き上げてテーブルの上へと乗せる。

 そして俺の目の前には、陽海が用意してくれた皿がある。

 …………俺の、皿。

 なんだか、胸の奥がじんわりと温かくなる。

 初めての、俺のものだ。

 何かを所有するということが、こんなにも嬉しいことだなんて、これまで知らなかった。しかも、これは陽海が俺のために用意してくれたものなのだ。

 嬉しい。

 ゆらりゆらりとしっぽを揺らしていると、陽海が小さく笑う。


「?」

「トカゲさんは、ごはん好きですよね」

「…………」


 違う。

 いや、違わない。

 陽海が食べさせてくれるものはどれも美味しくて、楽しくて好きだ。

 でも、今嬉しかったのはそうじゃない。

 そうじゃないのだけれども、それを俺はどうも上手く説明できる気がしない。

 どう言葉にしたら良いのか、迷っているうちに陽海は薄い茶色の袋から容器を取り出した。


「じゃじゃーん」


 ぱかり、と蓋をあけると、ふわふわ、と湯気が昇る。

 良い匂いだ。

 なんの匂いだろう。

 いろんな匂いが混じっている。

 ほんのりと甘い、ような。

 優しい匂いだ。

 トマトのスープパスタ、のようなガツンとくる香りではない。

 じわじわと染み入るような、それでいてつい引寄せられてしまうような香り。


「全部二つずつ取ってきました。トカゲさんの口にも合うと良いんですけど。卵、出汁まき、大根、もちきん、厚揚げにロールキャベツ」


 次々と、俺の皿へと陽海が分けていく。

 最後に、器を傾けて俺のお皿の中にとっとっと、と金色の澄んだスープが注がれた。ふわっと湯気が香る。


「あ、そうだ。トカゲさん、食べる前にも挨拶があるんです。『いただきます』って」


 陽海が手を合わせて見せる。

 俺も真似をしてみようと思ったものの、四つ足で身体を支える俺には手を合わせるのは難易度が高かった。

 ので、挨拶だけ真似をすることにする。


「いただきます」

「はい、いただきます」


 どれから食べてみよう。

 迷っていると、はふはふ、と音がする。

 顔をあげると、陽海が厚みのある茶色い楕円をほおばっているところだった。

 俺も、それにしよう。

 がぶり、と噛みつく。

 じゅわ、と口の中一杯に熱感が広がった。

 思いがけない食感に、驚く。

 とろけるように柔らかいのに、しゃくしゃくとわずかに残る繊維の感触。

 甘いのはスープの味だろうか。

 もぐもぐと咀嚼すると、それに少しほろ苦い味わいが混じってそれがまた何とも言えず美味しい。


 はふはふ。

 はふはふ。


 咥内の熱を逃そうと息を吐きつつ、それでも食べるのは止められない。

 夢中になって咀嚼している間に、アッという間になくなってしまった。


「今食べたのは、大根です。おでんといったら大根ですよねえ。次は出汁まき行きますか」

「出汁まき?」


 陽海が箸で持ち上げて見せるのは、薄く茶色がかった黄色みの強い物体だ。

 箸に挟まれ、たゆたゆと揺れている。

 たっぷりとスープを吸って、柔らかそうだ。

 あむ、とかみつく。

 しっとりと柔らかな味わいが口の中に広がっていく。

 まろやかに、優しく、それでいて先ほどの大根と似た味がする。

 でも、もっと甘くて、濃厚だ。

 スープを、飲んでみる。


「……、」


 美味い。

 何味だと言えばいいのかがわからない。

 たくさんの味が混ざり合い、調和のとれた柔い味わい。

 あんむ、とまた出汁まきにかぶりつく。

 これまたすぐになくなってしまった。

 もう一つぐらい食べたいような気がする。

 でも、まだ他にもある。


「トカゲさん、今のは出汁まき卵、といいます」

「だしまきたまご」


 覚えておこう。

 とても、とても、美味しかった。


「そして、実は」


 ふくく、と悪戯っぽく笑って陽海が何か丸いものを器用に箸でつまんで持ち上げた。


「これも、卵です」

「………………」

「あ、疑いの眼差し」


 疑いたくもなる。

 陽海が卵、といって持ち上げて見せたそれは、先ほどの出汁まき卵とは似ても似つかない形をしていた。

 それとも、「卵」と「出汁まき卵」というのは名前が似ているだけの、全く別の存在だったりするのだろうか。


「トカゲさんはまだ卵料理の奥深さ、恐ろしさを知らないんですよー」


 もぐ、と陽海が卵にかぶりつく。

 俺も、真似る。

 つるん。

 卵が逃げた。


「…………」


 皿の隅に追い詰めるようにして、ぐっと圧をかけ……ぷつんっと歯が立った。

 ぷにぷに、とした食感。

 つるつるとした卵は、ほのかにスープの味わいが染みて、淡泊な味がする。

 これならさっきの出汁まき卵の方が好きだ。

 そんなことを思いながらもぐもぐと食べ進めていくと、急に卵の色が変わった。

 今まではスープに浸かった外側は茶色に染まっていたものの、内側は白かった。

 けれど、その中から現れたのは鮮やかなオレンジだ。じっとりと赤みを帯びた鮮やかな色合いに目を奪われる。そして、変わったのは色だけじゃない。食感までが全く別のものに変わる。ねっとりと柔らかく、濃厚な味わいが咥内にはりついて、いつまでも呑み込めない。吐き出す息まで、卵の味わいに染まるような気がする。口蓋に張り付いた卵を丁寧に舌でこそいで、呑み込む。


「トカゲさん、つゆを一緒に飲むと良いですよ」


 顔をあげると、陽海が器を傾けてスープを飲んでいるところだった。

 なるほど。

 俺も、スープを一口。


「……っ!」


 思わず息をのんだ。

 ねっとりと口の中にまとわりついていた卵がほろほろとスープに溶けていく。

 スープの柔らかな味わいに濃厚な卵の味わいが混ざってなんとも美味だ。

 もぐ。

 白いところを齧る。

 ぷりぷりとした歯ごたえが楽しい。

 黄色いところを食べる。

 口の中一杯に濃厚な卵の味が広がったところで、スープを一口。

 ああ、美味い。

 出汁まき卵とは違う味わいながら、これもとても美味しい。


「陽海、俺は卵が好きかもしれない」

「私も卵は大好きですよ。焼いてよし、茹でて良し、生でもよし」


 ずずーっとスープを啜って、ほう、と陽海が幸せそうな息を吐く。

 俺も真似をしてスープを啜る。

 ほっこりと身体の芯から温まる。

 

「次は……ロールキャベツいきますか」

「ロールキャベツ」


 陽海が次に箸で持ち上げたのは、何かしっとりと柔らかそうな塊だった。

 こちらもたっぷりとスープを吸って、薄い茶色に染まっている。

 はぷ。

 かみつく。

 じゅわり、と口の中に柔らかスープの旨味が広がる。

 見た目からして柔らかだったそれが口の中で蕩けるように消えていく。

 噛むまでもない。

 舌と口蓋の間で軽く抑えるだけでスープの味わいがふやりとほどけていくのだ。 ほのかに甘みが強くなるのはそれそのものの味なのだろうか。


 あむ、あむ………む?

  

 何か、不思議なものに行き当たった。

 ぶつ、と食感が変わる。

 なんだろう。

 味わいには特に変わったところはない。

 ただ舌触りがはっきりとしていて、少し固めの何か紐状のものを食べてしまった、ような気がする。


「?」


 ぴたり、と動きを止めた俺に、陽海が首を傾げて見せる。


「陽海、今何か紐みたいなのを食べてしまった」

「ああ、それも食べられるので大丈夫ですよ。ロールキャベツっていうのは、具材をキャベツの葉っぱで包んだものなんです。で、そのキャベツがほどけてしまわないように、食べられる紐で結んであるんですよ」

「なるほど」


 このふよふよと柔らかなものがキャベツ、なのか。

 葉っぱ、ということは植物なのだろう。

 ふにゃふにゃとしたキャベツの甘みを楽しんでいると、先ほどの卵のように内側からまた違う味わいが飛び出してきた。

 じゅわあ、とスープとは異なる旨味が口の中に広がる。

 こってりとした濃厚な味わいはどこか少し先ほどの卵にも似ている。


「陽海、陽海、中から出てきたのは何だろう」

「ええと……たぶんチキン、かなあ」

「チキン」

「鶏ですよ。さっきの卵が育つと鶏になります」


 なるほど。

 だからちょっと味が似ているのか。

 卵が育つと、鶏になる。

 卵でも美味しくて、鶏になっても美味しい。

 この生き物はなんて素晴らしいのか。

 もぐもぐと味わって、ほう、と息を吐く。

 この世界の食事は、とても贅沢だ。

 口にする何もかもが美味しくて、飲み込んでしまうのが勿体無くなる。

 それに比べて、俺がこれまで腹に詰めてきた世界のなんて味気ないことか。


「トカゲさん、そろそろちょっと味わいに変化が欲しくないですか?」

「変化?」

「じゃじゃーん」


 そう言って陽海が取り出したのは小さな袋だった。

 指先ほどの、小さな袋だ。


「それは?」

「柚子胡椒です。これを入れるとですねえ、また味のアクセントが変わってたまらないんですよねえ!」


 ふふーと嬉しそうに笑いながら、陽海が小袋をぷつ、と指先で開く。

 ねりっとスープの中に落とされたのは、薄く黄緑がかった塊だった。

 スープの中に落ちたそれを、陽海が箸の先ですりつぶすようにして溶かし込んでいく。とたん、鼻先を掠めるのはツンと爽やかな香りだ。


「トカゲさん、こっちの味見してみます?」


 頷く。

 盛大に頷く。

 陽海はスプーンで少し濁ったスープを掬いあげると、それを俺の口元まで運んでくれる。

 

 あむん。

 

「!」


 柔らかな味わいは、先ほどまでのスープと変わらないはずなのに。

 ひりっとした刺激と、爽やかな香りがじんわりと後から口の中に広がっていく。

 スープの甘さに慣れた咥内に心地よい刺激。

 これ、美味しい。

 思わずぴたん、としっぽがテーブルを叩く。


「陽海、それ、俺も欲しい」

「じゃあまずは少しだけ。これ、入れすぎると辛くなるんです。こう、口の中がひりひりしていく感じ」


 そう言いながらも、陽海がもう一つ小袋を開けて俺の皿の中にも柚子胡椒を加えてくれる。しっかり溶かすように混ぜて……


「柚子胡椒が溶けたところで、お出汁をたっぷり吸った厚揚げいってみましょうか。美味しいですよー」


 陽海が今度箸でつまんで見せたのは、四角い何かだ。

 たゆん、と揺れる姿は出し巻き卵と似ているものの、もう少しだけ固そうにも見える。色味も、こちらの方が随分と濃い茶色だ。


 もぐ、と噛みつく。


 表面の部分は、柔らかくもしっかりとした食感だ。

 薄手の布地、というか。

 決して噛み裂けない固さではないものの、舌でつぶせるような柔さではない。

 ぎゅっとかみしめる度に、たっぷりと吸ったピリ辛のスープが染み出してくる。

 美味い。


 そして、その表面を割いたところからほろほろと崩れるように現れるた中身はしっとりと白い。こちらは打って変わって柔らかだ。かろうじて固体を保っているものの、口に運んでしまうとまるで飲み物のようにつるんと喉を滑り落ちていく。柚子胡椒で加えられた辛みに、ほどよくとろりとした甘みがとてもよく合っている。

 厚揚げを食べる前に柚子胡椒を入れた理由がわかった気がした。


 ああでも。

 柚子胡椒を入れる前に食べた出し巻き卵やロールキャベツにも、柚子胡椒はよく合ったのではないだろうか。

 スープの味わいの変化を楽しんでおきながら贅沢だとは思うものの、柚子胡椒をいれたスープで先に食べたものもまた味わいたいと思ってしまう。

 

 気づけば、俺の皿にも陽海の皿にも、残るおでんは一つだけになってしまった。

 

「これが、本日のメインディッシュです」

「メインディッシュ」

「これは餅巾着、といいます。食感がたぶんトカゲさん的には新ジャンルになると思うので、たぶん満足してもらえるかと」

「ふむふむ」


 見た目は、先ほどの厚揚げの表面に似ている。

 きゅっと縊れた部分に結ばれているのは、先ほどロールキャベツにもついていた紐だろうか。その先はたぷんと膨らみ、中に何かが入っていることを思わせる。

 何だろう。

 中に入っているのは何だろう。 


 あぶ。

 

 齧りつく。

 想像どおり、厚揚げとよくにた味がする。

 もぐもぐもぐ。ぶつ、と紐を齧りきる。こりこりとした紐の歯ごたえを楽しみ、それからその先の中身へと口を進めて……


「ッ!」


 俺が口を食べてしまったとたん、中に閉じ込められていたものがどろんっと溢れだしてきた。なんだこれ。なんだこれ。ねっとりとした熱い食感。舌先に絡みつく甘みは、陽海が最初に食べさせてくれたおにぎりにも似ているものの、食感はとろとろと粘っこい。口を離そうとしても、にぃーっと伸びてついてくる。つい反射的に、手を使って振り切ろうとする。べたり。今度は手にも張り付いた。しまった。この状態では手が下ろせない。


「ぷ、……ふ、はは」


 俺が困り切っているところで、我慢できなかった、というように陽海が小さく噴き出した。口の周りと、片手をべったりと汚すはめになった俺は、恨めしげに陽海を見上げる。

 

「罠か」

「罠じゃありません、もちきんです」

「もちきんという名の罠か」

「罠じゃないんですってば」


 ウェットティッシュを手にした陽海が、ちょいと手を伸ばして俺の口元と手のひらを拭ってくれる。お皿を前に、片手だけ持ち上げて固まる俺の姿はきっとさぞ間抜けだっただろうと思う。

 

「このべたべたしたのは、お餅といいます。今トカゲさんが捕まったように、昔はこのお餅の一種を使って鳥を捕まえたりもしたとかなんとか」

「やっぱり罠じゃないか」

「でも美味しいでしょう?」

「…………」


 確かに、美味しい。

 陽海は俺に見せつけるように、もぐっともちきんに齧りつく。

 にーっと伸びた白い餅を器用に口の中へと納めていく。

 食べなれている。プロだ。プロの動きだ。

 皿へと視線を落とす。

 破れた袋の中から、とろとろとねばこい餅がスープの中にあふれだしている。


「…………」


 ええい。

 餅とはそういうものと割り切ろう。

 俺は口回りがべたべたになるのを気にせず、もぐっと餅にかぶりついた。

 どろりとした餅の甘みと、ぴりりと辛い柚子胡椒を含んだスープの相性がこれでもかとばかりに決まっている。美味しい。

 

 もっちもっち、にーっと袋の中身を引き出し、そろそろ袋の中が空になったかな、という頃合いで最後に袋に取り掛かる。スープをたっぷりと含んだ袋の歯ごたえを楽しむつもりでぎゅう、と噛みしめたところ、予想外の旨味がとろっと溢れだしてきた。ふにふにと柔らかい、細かく刻まれたこれは何だろう。


「陽海、もちきんの中に餅以外も入ってる気がする」

「えーとシイタケ、かな。シイタケを細かく刻んだタレも一緒に入ってるんですよ。この場合は餡っていった方が良いのかな」

「すごいな」


 袋の中に餅が入っているだけでもすごいのに、タレまで入っている。

 最後まで油断せず味わうべきだった。

 綺麗にお皿の中身を空にしたところで、陽海がちょいちょいと口回りを拭ってくれる。


「ごちそうさまでした」


 陽海が、再び空の器を前に手を合わせる。


「ごちそうさまでした」


 俺も、真似をする。

 おでんはもうない。

 陽海の器も、俺のお皿も、すっかり空っぽになってしまった。

 けれど、ずっしりとした確かな充足があった。

 お腹の中に、幸福が詰まっている。

 そんな錯覚。

 ほう、と吐きだす息が、まだまだあったかい。


「トカゲさん、おでん、気に入りました?」


 陽海の問に、俺は力強く頷いた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

Pt、感想、お気に入り登録、どれも励みになっております。


陽海さんは作中でおもちで鳥を捕まえるとか言ってますが、鳥もちはお米でつくるお餅とは実際には違います。鳥もちの方は、植物のモチノキ等に含まれる成分で作られるのだとか!


次は節分でトカゲさんの豆地獄ですかね……


※感想の方でご心配いただいた件につきまして、活動報告を書きましたので良ければそちらもどうぞ!

(http://mypage.syosetu.com/mypageblog/view/userid/384755/blogkey/1630972/)

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