完熟トマトのスープパスタ・下
「…………え」
信じられない、というように人間が俺を見る。
その目に浮かぶのは、ギョっとしたような驚きだ。
しまった、と思う。
この人間が傍に置いてくれるなら、でっかいトカゲということにしておこうと、そう思っていたはずなのに。
人間が手にした器の中から立ち上る不可思議な香りについ負けて、言葉が口をついて出てしまった。
しまッた、と思ったときにはもう手遅れだ。
俺が飛膜を消して見せたときと同じように、人間は目をまんまるく見開いて俺のことを凝視している。
「………………喋りました?」
何故か丁寧になった。
一瞬今ならまだ誤魔化せるのではないだろうか、なんて思いもするものの。
飛膜のこともある。
あの時は追及を先送りにしてくれたが、これ以上は無理だろう。
もちろん、俺が本気で誤魔化そうと思ったのなら方法は他にもある。
試したことはないが、俺はたぶん、それが出来る。
だが、俺はそれらの方法をまるっと棚に上げて、人間を見つめ返してこっくりと頷いた。
「喋りました」
「ッ、……ひええ」
そう俺が復唱したことで、本格的に「でっかいトカゲ、もしくはちっこいドラゴンがしゃべった」、という現実を認めざるをえなくなったのか、人間の口から細い悲鳴のような声が漏れた。
ただそれは恐怖や、嫌悪に彩られた悲鳴というよりも、どことなく途方にくれたような色の濃い、間の抜けた響きであるようにも聞こえる。
実際見上げた先、人間の眉尻がへにゃりと下がっている。
「ええええ、なんで」
「………………」
なんで。
なんで、って聞かれましても。
今度は俺が困る番だ。
今のは何に対しての「なんで」なんだ。
俺がしゃべったことに対しての疑問提起なのだろうか。
何故でっかいトカゲがしゃべったのか、もしくはしゃべれるのか、という疑問なのか、それとも、お前のようなものが何故ここにいるのか、と聞きたいのか。
人間の問いに対する正しい答えがわからない。
なんだ。
俺は何をどう答えるべきなんだ。
困る。
とりあえずアレだ。
会話を整理してみよう。
『喋りました?』
『喋りました』
『何故』
である。
ならばこれは、「何故俺がこのタイミングで喋ったのか」という意味ではないだろうか。俺がこの人間と言葉による意思の疎通が可能であるのなら、もっと早くにそう言っていたとしてもおかしくはない。だが俺はそれをしなかった。それはすなわち、この人間にとっては俺には自分の正体を偽る心づもりがあった、ということに他ならないだろう。実際俺は、出来ればこの人間の言うでっかいトカゲでいたいという風に考えていたのだから。その俺がこうして、自らがトカゲではないことをこの人間に対して暴露した理由。それは、すなわち――
「食べて、みたかった」
「私を!?」
「えっ」
「えっ」
違う。
俺にそんなつもりはない。
慌てて首を横に振る。
「違う。お前じゃない」
「じゃあ……」
「それ」
「それって……っ、あつっ!?」
俺の視線に誘導されて初めて、人間は手に持ったままになっていた器の存在を思い出したようだった。
器を持っていた手がびくりと揺れて、その指先から器が滑り落ちる。
器はスッと重力に従って地面に向かって落ちていき――…底の一辺がスコン、と地面に触れたところで、そのままの形でぴたりと停止した。否、停止させただけだと中身だけがとぷりと跳ねてしまったので、それを受け止めるべくゆるりと器を地面に触れた一辺を支点に回転させる。目論見通り、波打ち、外に零れかけた赤い液体は無事器の中へと収まった。ふう。
ことん、と器の底を丁寧に地面に下ろす。
これは俺、なかなかに良い仕事をしたのではないだろうか。
そんなことを思いつつ顔をあげたところ、人間はひたすら目を丸くしていた。
「…………、」
固まっている。
こういうとき、何を言ったら良いのだろう。
怖がらないでくれ、と伝えたら良いのか。
それとも、害意はないということを先に伝えるべきなのか。
自分以外の他者と関わった経験のない俺には過ぎる難題だ。
わからないことだらけで、頭を抱えたくなる。
「…………」
地面に置かれた器と、俺との間で人間の視線が揺れる。
「今の、って……」
何かに迷うように、たっぷりの間を挟む。
「ええとその、……あなたの、仕業なんです?」
…………。
なんだか、少しだけ妙な気持ちになった。
目の前の人間が俺のことを尊重しようとしてくれているからこそ言葉遣いが丁寧になったのもわかるのに、それを少し面白くないと思ってしまう俺がいる。
それでも、人間の問いには答えようと俺はこっくりと頷く。
「俺が、した」
「魔法、的な?」
「…………魔法?」
魔法。
魔法、とは。
「お前は、できない?」
「私には出来ない、というかたぶん人類には無理です」
「人、以外なら出来るのか?」
「うーん……」
俺の問いに人間は真剣な面持ちで眉間に皺を寄せた。
「たぶん……、常識的には、できないことになっている……と、思います」
「……ふむ」
つまり、そういうこの世界の常識的には出来ないはずのことを可能にする術のことを『魔法』と呼んでいる、という認識だろうか。その認識ならば、きっと俺がしたことは魔法の範疇に含まれるのだろう。
「魔法かもしれない」
「魔法かもしれない」
何故か神妙な顔で復唱された。
よくわからないが、少しばかり人間の緊張が薄れたような気がする。
「じゃあ……あなたはその、私に、何かします?」
「…………?」
また難問がきた。
質問の意味が、大味すぎてよくわからない。
何か、とは何だ。
俺とこの人間が同じ空間にいる限り、俺のとる行動がこの人間に影響を与える、ということは十分にあり得るだろう。それを指して「何か」というのなら、俺はきとこの人間に「何か」する。
「する、と思う」
「するの!?」
人間は驚いたようにギョっと半歩引くような反応を見せる。
「マジか……そこは否定しないのか……」
否定するところだったのか。
だが、嘘をつくのは良くない、と思う。
「それじゃあ、具体的に、何をするつもりなのか、聞いてもいいですか? いやほら、あまり逃げられる気もしないけれど、心の準備をしておきたいというか」
「…………」
何を、と聞かれても困る。
この世界における生活の基本的なことすら俺は知らないのだ。
俺がこの人間に関わることで、この人間の生活にどのような影響が出るのか、というのを今の時点で聞かれても俺には答えられない。
いや、未来を覘けば良いのか?
未来と過去を並列で並べて観測し、その上で起こりうる変化についてを取り上げて説明すれば良いのだろうか。
ただその場合過去にしろ未来にしろどのあたりまでの領域を切り取って平均値を取るかが難しい。
「……なんでそこで悩むんです?」
「俺という存在がお前の今後にどういう影響を与えるのかを考えていたが、比較の対象となる基本をどこに設定するか、未来における変化のどこまでを俺の影響とみなすかの閾値の設定に悩んでいる」
「???」
人間は何いってんだこいつ、という顔をした。
俺はどうやら回答を間違えたらしい。
人間は少し考えるような間をあけて、質問を変えた。
「私に、危害を加えるつもりはありますか?」
「ない」
即答だった。
首も横に振る。
俺はこの人間に危害を加えるつもりなど欠片もない。
その言葉に、人間は少しほっとしたように笑ったようだった。
「そっか。それなら、良かった」
柔く口元が緩むようなほのかな笑みは、その人間が俺のことをでっかいトカゲだと認識していた時と変わらないもので、なんだかそれを見ると不思議な安堵がこみ上げてきてしまった。
人間が、ゆっくりと俺の前に屈む。
少しだけ首を傾けて。
「少し話をしませんか」
話を、とのことだったわけなのだが。
どうせなら、一緒にごはんにしますか、と人間はてきぱきと食事の用意を整えてくれた。床の上に置かれたままだった器を手にとり、低めの台の上へと運ぶ。
そして、とりわけるための皿を並べ――……ひょい、と俺の身体を持ち上げようとして動きを止めた。
「えっと、運んでも良いですか?」
「うん」
頷く。
本当は、自分で飛べる。
だけれども、つい甘えてしまった。
俺がでっかいトカゲではない、とわかってもまだこの人間が俺に触れてくれるのかどうかを確かめたい、と思ってしまったのかもしれない。
俺がそんなことを考えているとも知らず、人間はよいしょ、と俺の腕の下に手のひらを差し入れて持ち上げる。柔らかな掌。ぬくい、体温。とても、好ましい。
着地地点は、台の上だった。
台の前に座る人間とは、向かい合う形になる。
底の浅めの皿の上に、赤いとろりとした汁を纏った白いねじねじが乗る。
「これは?」
「えーと、完熟トマトのスープパスタです」
「トマトのスープ?」
「スープって言うのは、汁物……ぅーん、基本的には飲むことで味わう料理のことです。トマトは、赤い野菜……いや果物だったかな。植物の実で、赤くてつやつやしてます。大きさは拳ぐらいかな。あ、パッケージにイラストついてた。これです」
そう言って人間が見せてくれたのは、器に書かれた赤い実の絵だった。
まあるく膨らんで先端が少しツンと尖った形をしている。
「これが、トマト」
「そうそう。これはそのトマトを使ったスープのパスタなんです」
「ふむ。だから赤いのか?」
そういうことですね、と人間が頷く。
なるほど。それで赤い理由はわかった。が、得体が知れないのは白いねじねじだ。俺の目の前の皿の上には、赤い汁にまみれた白いねじねじが乗っている。
「この白いのは?」
「それはパスタです」
「パスタ」
復唱。
鼻先を寄せて匂いを嗅いでみる。
酸っぱいような、青臭いような香りはトマトのものだろう。
パスタには匂いはないのだろうか。
すんすん。すんすんすん。
十分に匂いを味わってから、あー、と口を開ける。
あむ。あむあむ。あむ。
まず舌先に感じたのは微かな酸味だった。
それから匂いと同じく、どこか青い味わい。
ひり、と少し舌を刺激する辛みもあるような気がする。
酸味と、塩っけと、青い香りに溶けるようにぴり、と舌先を刺激する尖った味わい。かと思えば、後味はなんだかぐっと甘くなる。
最初は少し味が強すぎるような気がしたものの、パスタ、と呼ばれる白いねじねじを咀嚼しているうちにちょうどよくなった。パスタの方は、味付けが薄い、のだろうか。それとも、パスタには味がないのだろうか。
あむ。あむあむあむあむ。
パスタを味わってみよう、と思うのに不思議といつの間にか口の中から消えていく。よくわからないうちに呑み込んでしまっているのだ。
次こそはちゃんとパスタも味わおうと思うのに、気づいたら呑み込んでいる。
不思議だ。
「スープも、飲みます?」
どうぞ、と白い匙に掬った赤いスープを口元に運ばれる。
助かる。
俺の口は、液体を味わうのにはちょっと向いていない。
たっぷりと深さがあれば可能になるのだと思うのだが、量がないと少し難しい。
ぁ、と開けた口の中に匙を差し入れられる。
もぐ。
パスタを抜きに単独で味わうトマトスープは、少しとろりとした食感を伴っていた。旨みをぎゅっと凝縮した、というか。味が濃い。舌がほんのり痺れるような心地よい刺激。嚥下した後も、まだ舌先にトマトの酸味と甘みがじんわり残る。
美味だ。
パスタと一緒に食べるのとは、また違った味わいがある。
スープを分けてもらったりしつつ、パスタをもぐもぐ味わって食す。
「お水、飲みます?」
「おみず?」
「そう、お水」
見た方が良いかな、と人間が手を伸ばし、少し横に潰れた円柱に似た形の透明な器をどん、と台の上に乗せる。中に入っているのは透明な液体だ。
「味が濃いものを食べたりすると、喉が乾くんですよね」
「喉が、乾く」
それはどういう状態だろう。
この、少しだけ喉がひりつくような感覚、のことだろうか。
「ええと水入れに使えそうな……お椀でいいかな」
人間が一度席を立ち、なだらかな円錐をひっくり返したような器をもってくる。
とっとっと、と注がれる透明な液体。
どうぞ、と促されて、そっと口をつけた。
十分な深さがあるもので、こちらは飲みやすい。
ひんやりとした液体が舌に触れる。
まろい。
舌に残っていたトマトの味わいを冷たくまろやかな舌ざわりが攫っていく。
なめらかで、さらさらとしていて、美味い。
スープ、とはまた違った味わいだ。
「美味しい」
スープと、お水と、交互に延々と味わっていられるような気がする。
見れば、人間も同じように器に注いだお水をごくごくと飲み干している。
ふはー、と息を吐き出す姿が満足げで、きっと今の俺も似たような顔をしているのだろうと思った。
「お名前は、あるんです?」
「名前?」
「ええと、呼び名、というか」
「ない、と思う」
人間の切り出した問いに、俺は首をひねる。
もしかしたら俺を見ていたものには、俺を呼ぶための名称があるのかもしれないが――…俺自身はそれを知らない。
「お前には、名があるのか?」
「ありますよ。瀬川っていいます。瀬川、陽海」
「瀬川、陽海。名前は、二つあるのか?」
「えーと瀬川、が苗字です」
「苗字」
とは。
そんな眼差しを向けていれば、難しそうに眉間に皺を寄せながらも、人間、瀬川陽海は頑張って説明をしてくれた。
「ええと基本的にこの世界の人間には大体苗字と、名前があります」
「ふむ」
「苗字、っていうのはうーん……一族の名前、血族の名前、という感じです。私は瀬川なので、瀬川という家の陽海、という感じになります」
「なるほど。……だが困ったことに、俺にはそのどちらもない。というか、俺は、俺以外の生き物をこれまで見たことがなかった。だから、呼ばれたこともないし、どこかの血族ということもない」
「お、おおお……それじゃあ、自分が何なのかもわからない感じ、なんです?」
「ああ」
頷く。
俺は、俺のことを知らない。
俺はあの元の世界で唯一の生き物として、生きていた。
誰も俺を呼ばなかったし、俺も、俺自身を他と区別する必要がなかった。
俺の世界には、長らく俺しかいなかった。
そこに初めて現れた、俺ではないいきもの。
瀬川陽海は困ったように首を傾げつつ言葉を続ける。
「…………見た感じはドラゴン、なんですけども」
「じゃあドラゴンかもしれない」
「じゃあって」
「トカゲでもいい」
「そんな適当な」
瀬川陽海が笑う。
「呼び名がないのは不便です、よねえ」
「お前が、好きにつけると良いと思う」
「えええええ、私がですか!?」
「だって、お前しか呼ばないだろう」
「……、」
ぱち、と瀬川陽海が瞬いた。
困惑の色が浮かんだのは、一瞬。
それが、何に対するものなのかを察するよりも先に、瀬川陽海はくくりと愉し気に喉を鳴らして笑った。
「じゃあ、……暫定トカゲさんで」
「わかった」
「トカゲさんに名乗りたい名前が出来たらそっちにしましょう」
「わかった」
頷く。
そして、気づいた。
あ、て顔になる。
俺は、何気なく。
自分でも意識していなかったが、無意識のうちにさも当たり前のように、今後も瀬川陽海と一緒にいることを前提にして、話を進めてしまっていた。
『お前しか呼ばないだろう』
それは、なんて先走った決めつけ。
それに気づいたから、きっと瀬川陽海は困惑したように瞬いたのだ。
「瀬川、」
「陽海でいいですよ」
「陽海」
「はい」
「…………いいのか」
「はい?」
「その……、俺は、ここにいても、いいのか」
この、居心地の良い場所に。
陽海は、のんびりと笑った。
「面白いから良いんじゃないですか」
こうして。
俺は正式に、瀬川陽海宅の居候となった。
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